改訂新版 世界大百科事典 「ナタネ」の意味・わかりやすい解説
ナタネ (菜種)
日本で,種子からナタネ油をとるために栽培され,ナタネと総称されるものには,アブラナ科の,植物学的に異なった2種の作物がある。その一つアブラナBrassica campestris L.(英名Chinese colza。採油用品種群に対する名)は在来ナタネともいわれ,また種子が黄褐色で赤っぽいので赤種(あかだね)とも呼ばれる。葉は淡緑色で軟らかく,白い蠟質がなくて,若い葉は食用になる。クキタチとかククタチと呼ばれて,あえ物や汁の実,煮付けなどにして食べる冬菜の多くはこの類である。花は明るい黄色で,関東地方では4月中旬から開花する。採油用として中国から伝来して,日本で昔から栽培されたもので,〈菜の花や月は東に日は西に〉と詠まれたのは本種の開花風景であるが,現在は栽培はセイヨウアブラナにとって代わられて,ほとんど栽培されていない。染色体数n=10の二倍体である。ナタネといわれるもう一つの種であるセイヨウアブラナB.napus L.(英名rape,colza)は洋種ナタネとも,また濃黒褐色の種子から黒種(くろだね)とも呼ばれる。葉が厚く濃緑色で,白い蠟質をかぶる。花はアブラナよりやや淡い緑色を帯び,花期も半月ほど遅い。明治以後に欧米から導入された。小学唱歌に〈菜の花畑に入り陽薄れ〉と歌われるのは本種である。雑種起源(アブラナとキャベツ)で,染色体数n=19の複二倍体であり,性質がじょうぶで収量も多い。
いわゆる〈菜の花〉は,これらのナタネの花を指すことが多いが,広くアブラナ属植物一般の黄色い花を呼ぶ場合にも用いられる。
ナタネは秋に種子をまいて,幼植物で越冬し,翌春にとう立ちして先端に黄色の十字花を咲かせ,順次花が上の方へ咲きながら,草丈1mほどに伸びる。花後に先端がくちばし状になった長い莢果(きようか)ができ梅雨の中休みのころに熟する。種子が黄褐色に熟するころに降り続く雨のことを菜種梅雨という。莢(さや)が裂けて種子がこぼれないうちに刈り取り,たたいて種子を収穫する。ナタネは畑だけでなく,水田の裏作物として広く栽培されたが,第2次大戦後,安価な外国産のナタネが大量に輸入されるようになり,国内生産は激減した。主産国は中国,インド,カナダなど。国内生産は1170t(1995)で,鹿児島・青森両県が主産地である。
種子は両種とも38~45%の油を含み,これを圧搾および抽出法で採取する。得られた油は特有のからし臭があり,黄褐色であるので,酸性白土で精製して,風味がよく淡黄色の白絞油(しらじめゆ)にする。半乾性油で,てんぷら油として優れているが,古くなるとからし臭がもどりやすい。昔は灯火用として行灯に広く用いられた。その他,機械油や薬用,軟膏の基剤としても使われる。油を絞ったかすが油かすで,飼料および園芸用肥料として重要である。
→アブラナ
執筆者:星川 清親
江戸時代のナタネ作と油
山城の大山崎離宮八幡宮,摂津の住吉大社の神人(じにん)や奈良興福寺大乗院の寄人(よりうど)らが行っていた中世の製油では,油料原料の第1はエゴマ(荏胡麻)であったが,17世紀大坂に展開した製油業ではすでにナタネがこれにとって代わっており,ナタネは綿実とともに近世の主たる油料原料となった。1714年(正徳4)大坂に入荷した商品中,銀高1万貫を超えるものとして米,干鰯(ほしか),白木綿,紙,鉄と並んでナタネがあり,また同年大坂から諸国へ積み下ろした商品中,水油(ナタネ油)のみが銀高1万貫を超えている。さらに36年(元文1)畿内およびそれ以西の国々24ヵ国から大坂へ12万8859石余のナタネが積み登されている。そのころには西摂津の灘目にもナタネの回送が多かった。これらの事実から,ナタネないしその加工品たる水油の,全国的商品としての位置の高さが察せられる。大坂に積み登されるナタネは,17世紀には大坂島之内の人力絞り油屋で絞られていたが,18世紀に入ると,瀬戸内海を東上するナタネを,灘目,兵庫で買い取って,六甲山系の川々に建設された水車によって絞る絞り油業の展開がみられた。1743年(寛保3)ごろにはナタネは大坂へ20万石,灘目,兵庫へ18万~19万石が登されていたとする史料があるから,18世紀初めころから急速に灘目の水車絞り油業が台頭し,大坂の人力絞り油業に迫るに至ったことがわかる。
灘目での絞り油業の発展は,西摂地方でのナタネ栽培を刺激した。18世紀前期には多いところでもまだ耕地の20%台にとどまっていたこの地方のナタネ作が,18世紀後期には裏作の50~70%にも達している。淀川沿いや南河内でもこれに準ずる展開がみられ,ナタネ作地帯の形成がみられた。この時期にはナタネ作はさらに西日本で広く相応の展開をみ,広島藩のように領内産ナタネを専売の対象とし,それを藩営の水車場で絞る藩も現れたし,あるいは播磨をはじめ瀬戸内一帯で,幕府が認めていない無株の絞り油屋がしばしば摘発されていることをみても,西日本におけるナタネ作の展開を察することができる。またナタネ油かすは綿実油かす,干鰯とならぶ最も優れた近世の肥料となった。しかし,ナタネは江戸での灯油需要の確保のため,幕府から他に類をみない厳しい統制をうけた作物であり,販売価格もおさえられがちであった。このためナタネは,作付面積,反当収量の多いナタネ作地帯でも,綿作のようにそれのみで農業の拡大再生産が可能なほどの有利な商品作物とはなりえなかった。裏作に植えて,せいぜい農業経営に必要な肥料購入に資する程度の商品作物であったといってよい。明治期になると,石油の輸入が始まったことによって,ナタネの有利性は動揺した。しばらくは食用,工業用,軍需用としての用途の拡大で栽培は続くが,1902年原料ナタネの輸入開始,ダイズ油価格の暴落を機として,ナタネ作は全国的に激減し,衰退に向かった。
→油
執筆者:八木 哲浩
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報