1956年にハンガリーで非スターリン化を求めて起きた政治的動乱。1948年反チトー・キャンペーンのなかでハンガリーではラーコシ派による大粛清が始まった。また、傾斜的重工業化と農業集団化をてことしたソ連型自給自足経済体制が追求され、国民生活は大きく圧迫された。53年スターリンの死を機にリベラル派のナジ・イムレが登場し、軌道修正が図られたが、55年にラーコシ派の巻き返しで旧路線が復活した。56年に非スターリン化が始まるが、党指導部は有効な対応策を打ち出せずに指導力を弱めた。ポーランドでのゴムルカ復活を機に、56年10月23日、ラーコシ派の一掃、ナジの復活、政治的自由などを要求して労働者・学生のデモが行われ、いわゆるハンガリー事件が始まる。デモは暴動化の様相も伴って全土に広がり、23日夜にナジの首相復帰が党で決議されたが、第一書記のゲレーは同時にソ連に軍事介入を要請。事態は混乱し、反ソ的様相が色濃くなる。27日、旧社民党の指導者らを含むナジを首班とした新内閣が成立し、ソ連軍も撤退を開始。こうした情勢に押されて、事態は多党制復活、ワルシャワ条約機構脱退にまで進展。ソ連はここに至って事態が反革命化したとみて、11月4日に軍事介入を敢行する。他方、カーダールがこのソ連の動きに対応して革命的労農政府を樹立。大規模な武力的抵抗は短時間のうちに鎮圧され、13日間の政治的動乱はいちおうの終結をみた。もっとも、発足当初は国内的基礎をもたなかったカーダール政権は、局部的ではあるが表だった抵抗や首都労働者評議会結成などの不満の意思表示と闘わねばならなかった。しかし、こうした抵抗も短期間のうちに終息した。事件による死傷者は1万数千人に上り、さらに20万人近くの亡命者も出た。ナジは捕らえられ、58年に処刑された。
この事件は、ソ連介入の是非を中心に国際的論争を引き起こした。サルトルらの親ソ的西側知識人の多くはこれを契機にソ連批判に転じ、ユーゴスラビア首脳も事件の反スターリン的意義を評価してふたたびソ連と対立した。他方、中国は、帝国主義に対する国際共産主義運動の結束の立場からソ連支持に回り、西側共産党もこれに足並みをそろえた。もっとも多中心主義の立場をとっていたイタリア共産党は、介入を支持しつつもユーゴに近い見解を表明した。この論争自体はスターリン主義と反スターリン派の対立という様相を呈したが、その後の社会主義の展開からすれば、この論争も当の事件も、同年のポーランド政変とともに、非スターリン化におけるさまざまな道を探る抗争であったと位置づけることができ、またハンガリー一国に限れば、この事件は、後のカーダール体制による上からの徹底した非スターリン化を準備した、下からの非スターリン主義化の悲劇的試みであったといえる。
[家田 修]
『フェイト・フェレンツ著、熊田亨訳『スターリン以後の東欧』(1978・岩波書店)』▽『フェイト・フェレンツ著、熊田亨訳『スターリン時代の東欧』(1979・岩波書店)』▽『フェイト・フェレンツ著、村松・橋本・清水訳『民族社会主義革命――ハンガリア十年の悲劇』(1957・近代生活社)』▽『ナジ・イムレ著、小山田・有田訳『共産主義について』(1958・鏡浦書房)』▽『ヴェリコ・ミチューノヴィチ著、山崎那美子訳『モスクワ日記』(1980・恒文社)』
1956年にハンガリーで起こった共産党(1948-56年勤労者党,56年以降社会主義労働者党)政権に対する大規模な民衆蜂起。原因はまず共産党がソ連軍の武力を背景に政権を独占し,恐怖政治を行ったことで,ラーコシ政権下での反対派迫害は異常な広がりと残酷さをみせ,成人人口の2割近くが解雇,逮捕,拷問,投獄,強制労働,国内僻地(へきち)やソ連内奥への流刑,死刑などを経験した。次に重工業中心の無理な工業化政策で国民の消費生活が犠牲にされ,1949-52年には労働者の実質所得は18%も下落し,農業政策の失敗で食糧事情が極度に悪化していた。また55年にソ連軍がオーストリアから撤退し,民衆の間にハンガリーからの撤退も間近い,蜂起すれば西側の援助が見込めるという幻想が生まれたのも一因である。
ソ連共産党20回大会(1956年2月)ののちにスターリン批判が公となり,党青年組織の討論クラブ〈ペテーフィ会〉に拠った知識人が大胆な党指導部批判を始めたのが発端であった。知識人の体制批判はポズナン暴動後のポーランド情勢に刺激されてしだいに急進化し,より広い社会層を巻き込んでいった。10月23日に学生,市民のポーランド連帯デモが行われたが,治安部隊が発砲したため暴動と化し,政府の要請でソ連軍が出動した。こののち軍や警察から武器を入手した市民と治安部隊,ソ連軍との間で激しい戦闘が起こった。同月24~25日に発足したナジ首相とカーダール党第一書記の新政権は一連の政治的経済的緩和措置を発表して事態を掌握しようとした。ソ連もこれを支持し,10月末にはいったん過去の誤りを認め,軍隊の引揚げを約束した。しかし,この間に政府・党機構が自己崩壊を起こし,首都では労働者評議会が,地方では革命委員会が事実上の権力を握るようになった。
ソ連はこの事態をみて第2次介入を決意した。ナジはソ連軍の動きに不安を感じて,11月1日ワルシャワ条約機構からの脱退を宣言し,2日後共産党が少数をなす連立政府を組織した。これに対してソ連は翌4日首都を占領し,2週間の激しい戦闘ののち全土を制圧した。またソ連領内に〈労農革命政府〉を発足させ,その首班にカーダールを据えた。こうしたソ連の行動は西側諸国の非難を浴びたが,おりから勃発したスエズ危機によってかなり助けられた。事件後ナジとその協力者はソ連軍に拉致され,58年処刑された。暴動によって数千人が落命し,約20万人が亡命,国民総生産の1/5相当の財貨が失われた。事件はソ連の東欧支配が軍事力に基づいていることをあからさまにし,西欧諸国や日本の左翼知識人に大きな衝撃を与えたばかりではなく,中国など一部社会主義国にもソ連モデルへの反省を生んだ。
執筆者:伊東 孝之
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1956年10~11月に社会主義国ハンガリーで起きた反ソ・改革要求の暴動。6月以来のポーランドでの暴動と改革に刺激されて,10月23日に学生,知識人らの改革要求のデモが起きた。政府の求めたソ連軍の介入(第1次軍事介入)ののち,改革派のナジを首相とする連立内閣ができ,複数政党制や集団農場からの離脱の自由が認められた。だが,ナジ政権がワルシャワ条約機構からの離脱をめざすと,11月4日にソ連は第2次軍事介入を行い,同政権を崩壊させた。ナジに代わってカーダールの社会主義労働者党の親ソ政権ができたが,労働者評議会によった改革派の抵抗は年末まで続いた。1989年以後,10月23日は国民記念日。
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…これに刺激されて,ハンガリーでも党員のうちの知識人層に改革派が成長し,56年10月には政治・経済体制の民主化を求める運動が首都の労働者・市民のデモとなった。しかしナジらの指導者は民族主義的となる国民を指導しきれず,ハンガリーの中立化などを宣言するに至り,ソ連の軍事介入を招いた(ハンガリー事件)。この両国以外でも非スターリン化による動揺はあったが,党や政府内部の問題として処理された。…
…このなかでラーコシの個人独裁が生まれたり,ライク外相ら〈チトー主義者〉の粛清が行われたり,性急な重工業化と集団化が行われた。こうした点への不満は,56年2月のソ連共産党20回大会での新路線採択とスターリン批判ののちに爆発し,10月にハンガリー事件を生んだ。知識人をはじめとする国民の改革要求はナジを新しい指導者にし,ナジはワルシャワ条約機構(1955設立)からの脱退,中立化や複数政党制の承認を宣言するまでにいたった。…
※「ハンガリー事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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