日本大百科全書(ニッポニカ) 「バーク」の意味・わかりやすい解説
バーク(Edmund Burke)
ばーく
Edmund Burke
(1729―1797)
イギリスの政治家、思想家。アイルランドのダブリンに生まれる。1750年ごろロンドンに移り、『自然社会の擁護』(1756)、『崇高と美の観念の起源に関する哲学的探究』(1757)を著して批評家として認められる。1765年以降政界に入り、ホイッグ党(イギリス)指導者のロッキンガム卿(きょう)Charles Watson-Wentworth, 2nd marquess of Rockingham(1730―1782)の秘書兼相談役となる。翌1766年から引退する1794年まで下院議員。政治家としてのバークはロッキンガム卿の死(1782)までは同派の中心人物として下院指導者の地位にあり、それ以後もフランス革命まではつねにホイッグ党左派の指導者であった。この時期の活動としておもなものは、専制化の傾向を強めていた国王ジョージ3世およびその側近に対する批判、アメリカ植民地との和解の主張=戦争反対、アイルランド解放などであった。国王と宮廷勢力を批判してイギリスの伝統的混合政体と政党政治の意義を主張した『現代の不満の原因の考察』(1770)や、選挙区有権者が自分の狭い利益要求を議員に押し付けることに反対して一般代表の理論を唱えた『ブリストル演説』(1774)は、この時期の傑作とされている。フランス革命を迎えて彼は、それがフランスだけではなく全ヨーロッパの旧体制を破壊に導くことを見抜き、『フランス革命の省察』(1790)を著して革命批判を行った。民主主義はすべてを水平化して社会の良風を破壊すること、社会は諸身分を含む「多様性のなかの統一」でなければならず、世襲王政、貴族、国教制キリスト教はすべてなくてはならぬこと、イギリスの伝統的体制はこれらすべてを備えた「すべての学問、技芸、美徳」における完全な体制、すなわち文明社会そのものであること、などがその主張であった。彼自身は反革命の不成功、ひとり息子の死など失意のうちに世を去ったが、『フランス革命の省察』はその後のロマン主義や保守主義の古典として、とくに19世紀前半に、イギリスだけでなくヨーロッパ全体に強い影響を与えた。
[半澤孝麿 2015年7月21日]
『中野好之・半澤孝麿訳『エドマンド・バーク著作集』全3巻(1973、1978・みすず書房)』▽『エドマンド・バーク著、佐藤健志編訳『新訳 フランス革命の省察――「保守主義の父」かく語りき』(PHP新書)』
バーク(Kenneth Burke)
ばーく
Kenneth Burke
(1897―1993)
アメリカの批評家、思想家。ペンシルベニア州出身。シカゴ大学、カリフォルニア大学、ハーバード大学などで教鞭(きょうべん)をとり、プリンストン大学高等研究所研究員も務める。ことばの象徴性が人間の思考、行動様式を決定するという立場から人間のあらゆる精神現象の分析を試み、そこから、文学はことばの象徴活動を用いて作者の問題を「取り囲むencompass」戦略活動であると規定した。また、「行為」「行為者」「場面」「意図」「媒体」を五基語the pentadとよび、人間はいずれかの基語のなかに事象の究極原因を認める習性があり、また一つの基語で他の基語を代行させる営みが思想形成であると考えた。主著は『反対陳述』(1931)、『恒久と変化』(1935)、『歴史への諸姿勢』(1937)、『文学形式の哲学』(1941)、『動機の文法』(1945)、『動機の修辞学』(1950)など。
[森 常治 2015年10月20日]
『森常治訳『動機の文法』(1982・晶文社)』
バーク(Robert O'Hara Burke)
ばーく
Robert O'Hara Burke
(1821―1861)
オーストラリアの探検家。アイルランド生まれ。1853年オーストラリアに移住。ビクトリア警察警部であったが、60年メルボルン市民が企画した初の大陸縦断探検隊を率い、総勢18名、ラクダ25頭など大規模な陣容で同市を8月出発。途中クーパーズ・クリークに基地設営後、副隊長ウィリアム・ウィルズ(1834―61。測量士)ほか2名とともに北上、61年2月カーペンタリア湾近くに達したが、密林、沼沢に阻まれ海に抜けられなかった。バークらの帰りが遅れたため、留守隊は、彼らが帰着する7時間前に基地を引き払っており、キングという隊員以外は死亡した。バークは探検家の資質がなく、ウィルズの残した日記以外、隊の科学的成果はゼロであった。ただその規模と悲劇性から、この国ではもっとも有名な探検である。
[越智道雄]