ロマン主義は,18世紀末から19世紀前半にかけてイギリス,ドイツ,フランスを中心にヨーロッパ各地で展開された文学・芸術・思想上の自由解放を信奉する革新的思潮であり,合理主義の普遍的理性に対抗して個々人の感性と想像力の優越を主張し,古典主義の表現形式の規制を打破して自我の自由な表現を追求しようとした文芸運動である。その展開の中で,既成の社会体制への反抗と自然の中への逃避,情熱的かつ絶望的な恋愛と自殺への志向,不合理なもの,神秘的なものへの憧憬,等々を主題とし,鋭敏な感受性の主体としての自我への執着を特徴とするきわめて主観的な作品が生み出された。このような傾向の文学作品は,近代以前にも,中国,日本,イスラム世界,インドなど,長い芸術的伝統をもつ世界の諸地域の文学史にしばしば現れるが,ここでは歴史的な文芸思潮としてのヨーロッパのロマン主義に限定して記述する。この汎ヨーロッパ的な文芸思潮は,基本的には産業革命やフランス大革命をへて近代市民社会へと変貌する激動期のヨーロッパ社会の思想表現であったが,各国における社会的・文化的状況の差によって異なった様相を呈した。
ロマン主義romanticism(ロマンティシズム(英語)),ロマンティスムromantisme(フランス語)の語は,ある特定の時期の文芸運動とその主張を指すのみならず,時代を超えた作家や作品の特質を示す語でもある。この語は語源的には,中世の物語を意味するロマンスromance(英語)あるいはロマンroman(フランス語)から派生し,中世騎士道物語の伝奇的・空想的な特徴や,主人公の純粋な愛と理想探究の精神主義的な性格を示す形容詞ロマンティックromantic(英語)から作られた。この形容詞に,自然美に対する情感を主とする内容(〈ロマンティックな森や湖〉)を与えたのは,17世紀中ごろの自然賛美と感情表現を重視した一連のイギリスの詩人たち(J.トムソン,T.グレイ,E.ヤング等)であり,彼らの作品を特徴づける霧と墓場と夜の情景の憂愁と夢想などが,ロマン主義的な文学の抒情的傾向を予示し,対応するフランス語romantiqueの語義にも影響を与えた。
1800年前後のロマン主義文学理論の提起に先立ち,ロマン主義的(ロマンティック)な傾向をもった作家や作品を総称して遡及(そきゆう)的に前期ロマン主義と呼ぶこともあるが,イギリス文学と類似の徴候は18世紀中ごろのドイツやフランスの文学にも見いだされる。とりわけルソーの書簡体小説《新エロイーズ》や自伝的な作品《告白録》がその代表とされる。恋愛を中心とする自己の感情の起伏や精神的苦悩を主人公に仮託して描く自伝文学は,ロマン主義文学の中でも主要な位置を占め,ゲーテの《若きウェルターの悩み》,シャトーブリアンの《ルネ》(1802),セナンクールの《オーベルマン》(1804),コンスタンの《アドルフ》へと継承され,ミュッセの《世紀児の告白》(1836)へと受け継がれる。この系譜の中からは,激変する社会の現実と自己の存在との乖離(かいり)を感じ,愛に満たされず何かを求め続け現実から逃避していく〈世紀病mal du siècle〉を病んだロマン派的魂の典型が浮かび上がる。
イギリスにおけるロマン主義は,1800年ころにワーズワースとコールリジを中心に提唱され,1810年から20年にかけてバイロン,シェリー,キーツ,あるいはブレークらの詩人の登場によって頂点を迎えた。個々の作家はロマン主義的な思想と主題とを豊かに展開しているとはいえ,ロマン派としての運動体を形成することはなかった。しかし,その影響力は大きく,例えばバイロンのギリシア解放戦争への参加と死はヨーロッパに衝撃を与え,ギリシア独立支持運動と古代ギリシア文学愛好熱高揚の引金となった。一方,スコットランドの過去の歴史をよみがえらせ,中世騎士道精神と郷土愛を賞揚するスコットの一連の歴史小説Waverley Novelsは,歴史学と小説に中世賛美の機運を興し,過去の時代の精確な生き生きとした描写を目ざす一種のロマン主義的写実主義とも称すべき傾向を生み,ユゴーの《ノートル・ダム・ド・パリ》やメリメの《シャルル9世年代記》,あるいはミシュレの《フランス史》等に影響を与えた。
ドイツでは,1770年ころからフランスの文化支配を脱し,啓蒙主義に対抗して個人の感性と直観を重視する反体制的な文学運動シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)が展開されたが,そのほぼ20年後にシュレーゲル兄弟,ティーク,シュライエルマハーらによって提唱されたロマン主義文学理論は,この運動の主張を継承し,フランス古典主義に対抗するものとしてのロマン主義を明確に定義づけ,古代古典文学の再評価とドイツに固有の国民文学の創造を主張した。フィヒテやヘーゲルの観念論哲学と密接な関係をもったドイツ・ロマン主義文学は,自我の内的活動の探究,夢と現実あるいは生と死の境界領域の探索,イリュージョンの形成と自己破壊(アイロニー)などを主題とするきわめて観念論的かつ神秘主義的な色彩を帯び,ノバーリス,J.P.リヒター,ホフマンらの幻想的な作品を生み出した。
フランスにおけるロマン主義は,ルソー以来の前期ロマン主義の精神風土の上に,スタール夫人のドイツ文学理論の紹介《ドイツ論》や,ゲーテやバイロンの作品の翻訳の刺激を受けて,両国に比べやや遅れて始まったが,よりいっそう激しい華やかな展開を見せた。伝統的な古典主義を信奉する人々とロマン主義者たちとの間の文学論争や党派抗争の様相を呈し,1820年から30年にかけてユゴーとサント・ブーブを中心にロマン派が形成され,ロマン主義運動が展開された。この運動は,七月革命と軌を一にして1830年のユゴーの《エルナニ》上演によって勝利を収め,1843年の同じくユゴーの《城主》上演の不成功によって幕を閉じた。その華々しい側面においては古典悲劇形式の打破という演劇運動の観を呈したが,他の分野においても根底的な変革をもたらした。1820年のラマルティーヌの《瞑想詩集》から始まるロマン派の抒情詩の創作は,題材,語彙,詩型に関するあらゆる規制から詩を解放し,多種多様な革新と実験を試みるべき創造的な個性の表出の場として詩と詩作を方向づけた。小説の分野においても,情熱的な人間像の創造と同時代の社会の精確な描写を特徴とするスタンダール,バルザック,サンドらの社会小説が生まれる一方で,ドイツ文学の影響下にノディエ,ネルバル,ゴーティエらの幻想的な小説が創作された。そして,いずれの分野においてもユゴーは傑出した才能を示し,彼の存在そのものがフランス・ロマン主義の象徴となっている。
その他の国々では,ロマン主義は多くの場合国家統一へと向かうナショナリズムの進展と並行し,国民的な意識の高揚を目ざす国民文学運動として展開された。例えば,イタリアではリソルジメントと呼応しマンゾーニやレオパルディが文学運動を推進し,あるいはロシアではプーシキンやレールモントフらが,フランス文学の影響を排してロシア固有の文学の創造を目ざす国民文学運動としてのロマン主義を展開した。
この汎ヨーロッパ的な文芸運動も19世紀中ごろにはほぼ終わり,リアリズム等の旗印のもとに各国の社会状況に即した文芸思潮が登場した。ロマン主義の極度の自我崇拝や感傷主義そして現実逃避などは次代の批判を受ける。しかし基本的主張である文芸における自由革新の理念や個性と独創性の尊重の思想は,20世紀初頭に同様に汎ヨーロッパ的な文芸革新の運動となったシュルレアリスムとして再生し,根強く20世紀の文芸をも支配しているのである。
→古典主義 →ナショナリズム →ロマン派演劇 →ロマン派音楽
執筆者:田村 毅
美術におけるロマン主義は,文芸思潮の場合とほぼ並行して,18世紀の後半から,まずイギリスにおいて,次いで大革命とナポレオン戦争の動乱を体験したフランスにおいて豊かな開花を示し,さらに,ドイツや北欧諸国においても,ほぼ同時発生的に新しい芸術表現を生み出した。その背景としては,ギリシア以来の古典的伝統に基づく普遍的な〈理想の美〉に対して,地域的,民族的,時代的,さらには個性的なさまざまな〈多様な美〉を求めようとする美学理念があったため,その表れ方もきわめて多様であり,ひとつのまとまった様式をもっているとは言いがたい。しかし,理性の優位に対する感情の復権の要求,古典的伝統に対する地域的,民族的伝統の主張,合理主義的世界観に対する非合理の世界の探求,さらには自我の拡大への欲求や新しい自然感情,神秘的世界への憧れと異国趣味(エキゾティシズム)など,ロマン主義運動全体に共通する特色は,美術の世界でもはっきりと認められる。その意味では,ロマン主義は,美術も含めて,18世紀末から19世紀にかけての西欧の大きな精神的変動としてとらえることができる。
この新しい動きは,美術においては,まず新しい主題の発見として表れた。フュッスリの《夢魔》やブレークの幻想的絵画は,人間の心の無意識の世界にひそむ非合理的なものの探求として,やがてゴヤに受け継がれていく。バークやカントによって唱導された〈崇高〉の感情は,人間の支配を超えた恐ろしい自然の発見と結びついて,嵐,雪崩,難破船,洪水など,ターナーが好んで取り上げた災厄のテーマを生み出した。ダビッドの弟子であったジロデ・トリオゾンの《大洪水》や,ドイツのフリードリヒの《希望号の難破》なども,同様の自然の恐ろしさを主題としたものである。また,ホメロスやオウィディウスなどのギリシア・ローマの文学的遺産に対して,北方の民族的伝説を歌い上げた《オシアン》は,アングル,ジロデ・トリオゾン,ジェラールなどに霊感を与え,ナポレオンのエジプト遠征(1798-99)によって強められたオリエンタリズムは,グロの《ジャファのペスト患者を訪れるナポレオン》やアングルの《オダリスク》などの華やかな異国趣味の世界を生み出した。
しかしながら,これらの画家たちは,主題の扱い方においては新しいロマン主義的傾向を強く見せているが,表現様式においては,なお多くの点で,古典主義の伝統を受け継いだ新古典主義の枠内にあった。上に挙げた画家たちのうち,ゴヤは晩年の〈黒い絵〉シリーズにおいて,ターナーは後半生の輝くような色彩表現において新しい方向に向かっていくが,新古典主義とはまったく別のロマン主義の表現様式を確立したのは,フランスのドラクロアである。ドラクロアは,先輩のジェリコーが劇的な内容の《メデューズ号の筏》(1817)において人びとに強い衝撃を与えたその後を受けて,《ダンテの小舟》(1822),《キオス島の虐殺》(1824),《サルダナパロス王の死》(1827-28)等によって,1820年代にはっきりとロマン主義絵画の旗手となった。《ダンテの小舟》は,《神曲》地獄篇に主題を得,地獄の川を渡るダンテとウェルギリウスを描き出したもので,そのドラマティックな主題の扱いにすでに明瞭に新しい感受性がうかがわれる。続いて,ギリシア解放戦争のエピソードに想を得た《キオス島の虐殺》と,イギリスの詩人バイロンの詩劇に基づく《サルダナパロス王の死》では,思いきって激しく劇的な主題を,動きの多いダイナミックな構成と強烈な色彩によって熱っぽく歌い上げ,デッサンを主体とする冷たい新古典主義様式に,正面から対決する表現を生み出した。ドラクロアのこのような色彩表現は,その後も,32年のモロッコ旅行によってさらに強調され,補色の効果の意識的な利用や,さまざまな種類の色を並列することによって輝かしさを生み出すやり方など,やがて後の印象派の色彩解放につながる新しい手法を確立するにいたる。ドラクロアのその強烈な色彩表現は,シャセリオーやフロマンタンのようなオリエンタリズムの画家に受け継がれ,世紀後半のモローにまで影響を及ぼしている。
ほかにイギリスでは,ターナーと同世代のコンスタブルが,主題においてはごく平凡な日常の田園風景を取り上げながら,微妙な変化をこまかな色のタッチによって表現する詩情豊かな風景画をつくり出し,ドイツでは,フリードリヒと並んで,ルンゲが象徴主義的傾向の強い神秘的な生命賛歌を生み出した。
ロマン主義は,このようにさまざまな面でそれまでの伝統的な絵画に対して新しい価値基準を提出したため,しばしば社会から攻撃され,否定されるという事態をも招いた。多くの熱烈な支持者を得ていたドラクロアでさえ,美術アカデミーに入会を認められたのは,最晩年になってからのことである。その点では,世間を離れてローマ郊外で共同制作を試みたドイツのナザレ派や,ロセッティ,ミレーを中心とするイギリスのラファエル前派も,ロマン主義の流れを引くものと言ってよいであろう。
絵画と比べて,彫刻におけるロマン主義は,それほど華やかな成果を見せてはいないが,パリのエトアール凱旋門の《義勇軍の出発》の作者リュードや,《怒れるオルランド》のデュセニュール,《戦争》のプレオーなどが挙げられる。
日本においては,文学において明星派や島崎藤村の活躍した明治30年代に,藤島武二や青木繁が,歴史趣味や華やかな幻想性に満ちた華麗清新な作品をつくり出したが,日本における西欧文化輸入の時代のずれにより,そこには,西欧の世紀末的雰囲気が色濃く反映されている。
執筆者:高階 秀爾
明治期の日本の文学は,ヨーロッパのロマン主義の影響を強く受けた。ただ,ヨーロッパのロマン主義に対する文学史的理解を,そのまま,日本のそれに当てはめるといろいろと無理な解釈が生まれる。その理由の一つは,ヨーロッパのロマン主義が,資本主義の形成,ブルジョアジーの興隆を背景として,個人主義的な自我の拡大,人間的な感情の解放,精神や思想の自由を求めたのに対して,日本のロマン主義は,そのような近代的な思想として成立するための社会的な基盤を十分にもっていなかったところにある。前近代的な遺制を多く残している明治の社会は,文学者の個我の覚醒や,それにもとづく人間的感情の解放を困難にしたのである。ここにヨーロッパのロマン主義と,日本のそれを同視することの危険がある。これを考慮しないと,日本のロマン主義の創始者を誰に見るか,という最初の問題で混乱が起きる。たとえば佐藤春夫は,明治ロマン主義の元祖であり,主体であるものとして,森鷗外をあげている(《近代日本文学の展望》)。彼はロマン主義の本質を,未知な世界や異常な事物などに対する好奇心などの伝奇性に求めているが,そこから森鷗外元祖説は導かれているのである。これに反対して,勝本清一郎は,〈正統なロマン主義〉の性格が,〈自由を求める精神,形式を破壊する精神,保守的勢力に対して革命的な精神,動的な自己主張の精神〉(〈《文学界》と浪曼主義〉)にあると考え,北村透谷の劇詩《楚囚之詩(そしゆうのし)》(1889)から《蓬萊曲(ほうらいきよく)》(1891)へ展開する過程に,その顕著なあらわれを見ている。この勝本の立場からは,佐藤春夫がロマン的作品として高く評価する鷗外青年期の訳詩集《於母影(おもかげ)》(1889)や小説《舞姫》(1890)は,その静的な形式美,節度,保守,妥協への希求,抒情への傾向において,酷評されざるをえない。しかし,ここにある対立は,単にヨーロッパのロマン主義のどこに文学史的な範型を求めるかの差にすぎない。ロマン的な特質において,透谷と鷗外は,そうした対立面だけでなく,同質面をも共有するのである。《蓬萊曲》と《舞姫》は,共に個我に苦しむ主人公を設定して,日本の近代的な自意識の不安を表象しており,また,《於母影》のもつ,清新な感情の解放は,透谷や島崎藤村の詩に深い影響を与えた。
これ以外に,日本固有の精神風土から内発したロマン主義という観点に立って,杉山平助のように,幸田露伴をその先駆者としてあげる例もある(《文芸五十年史》)。杉山は,露伴の仏教を主とする東洋的な運命観を根底にした理想主義に,リアリズムと対抗するロマン主義の誕生を見たのである。いずれにしても,明治期におけるロマン主義文学の特質は,鷗外,透谷,露伴が体現している傾向性を,排他的に考えるのではなく,むしろ,それらの相互的な影響と,展開のうちにとらえられるべきだろう。
こうして明治20年代なかばから,30年代にかけてのロマン主義の最初の高揚は,透谷,藤村らの《文学界》の活動や,宮崎湖処子(こしよし),国木田独歩,田山花袋,松岡(柳田)国男ら《抒情詩》(1897)を刊行したグループのそれによって示された。このうち,後者における独歩や国男には,独自な位置が認められるが,後代にめざましい影響を与えたのは《文学界》であった。透谷は自由民権運動を原体験としてもち,形式破壊や旧制度否定,そして,文学の自立性を掲げる過激なロマン主義を体現した。それに対して藤村は,現実に対する態度としては数歩後退したが,より成熟した新体詩型を可能にした。彼の《若菜集》(1897)により,明治の青年の鬱屈した自意識や恋愛感情は,官能のよろこびにうちふるえるロマン的な声となった。
しかし,透谷がその過激な思想によって,自分を破るように自殺してからの《文学界》のロマン主義は,しだいに観照的・芸術至上主義的な方向に転回をとげる。それは藤村から上田敏,薄田泣菫,蒲原有明の象徴主義に至る過程でもあった。むしろ,透谷の急進的なロマン主義は,国権主義的,日本主義的なそれに思想の軸心を変えながら,与謝野鉄幹,高山樗牛に引き継がれていくのである。明治30年代から40年代にかけては,鉄幹の主宰した新詩社の機関誌《明星》や伊良子清白(いらこせいはく)らの《文庫》派に,その流れを見ることができる。なかでも,ロマン主義詩歌のもっともはなやかな舞台となったのは,《明星》である。短歌革新を中心にしたこの雑誌で,与謝野晶子の艶麗な情感,奔放な情熱をたたえた短歌は花開いた。ここから窪田空穂,高村光太郎,石川啄木,木下杢太郎,北原白秋なども出てきたのである。また,30年代は泉鏡花の神秘的ロマン主義があやしい幻夢を織りなした時代でもある。これは,40年代の《スバル》《三田文学》などの永井荷風,谷崎潤一郎,佐藤春夫の耽美的なロマン主義にも通じている。
執筆者:北川 透
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ロマン主義ということばには、時代や地域を超える「永遠のロマン主義」と、ある時代に限定される「歴史的ロマン主義」が含まれる。しかし、前者は後者の派生概念にすぎず、正確には、後者すなわち18世紀末葉に西欧に生じ19世紀中葉までほぼヨーロッパ全域およびその文化圏である南北アメリカに波及した、文芸・芸術運動ないし現象を意味する。ロマン主義という語のもとをなす形容詞ロマンチックromantic(英語)、romantique(フランス語)はもともと俗化したラテン語を、ついでその言語によって書かれたすべての作物をさしたフランス語のロマンromanに由来するが、時代が下るにしたがってロマンは初め韻文で、のちには散文でも書かれた騎士道物語に対して用いられ、とくにイギリスではロマンスromanceとよばれるようになった。ロマンチックの初出は17世紀中葉のイギリスであり、すこし後れてほぼ同時期にドイツ、フランスに入り、主として小説的で幻想的な印象を与える風物や芸術作品の形容詞に用いられていたが、やがて18世紀最末葉から19世紀初頭にかけて文学・芸術の革新が叫ばれるに及んで、伝統文化をよぶクラシックclassic(古典的)の対立語として定着するに至った。
[加藤民男]
18世紀の主要なヨーロッパ諸国は17世紀フランスに確立された古典主義をおおむね継承すると同時に、理性を認識の唯一至上の手段とする啓蒙(けいもう)主義に支配されていた。古典主義は普遍絶対的な美の観念に立脚し、すべて良識にあわぬものを退け、厳しい規則を設けて、複雑より簡明を、動より静を、土俗性より都会性を、露骨より優雅さを、破格より均斉を重視する貴族的文化であった。しかし18世紀も中ごろになると、絶対王政の弛緩(しかん)やブルジョアジーの勃興(ぼっこう)とともに人間をありのままにとらえようとする欲求が生じ、一方、啓蒙主義そのもののなかから理性による非合理の発見がなされると、それまで軽視されてきた感覚の諸現象に人間性の真実を探り、同時に古典主義が範としてきたギリシア・ラテンの古典古代から自国の過去へと目を転じて、そこに新たな文化の源泉をみようとする気運が高まってきた。イギリスではヤング、グレーらが夜や墓地を歌う一方、古ケルトの吟遊詩人オシアンの翻訳と称するマクファーソンの詩が流行し、フランスではディドロ、とりわけルソーが自然感情や社会と対立する個人の内面を赤裸に告白し、ドイツではクロプシュトック、ヘルダー、若い時代のゲーテ、シラー、それに「シュトゥルム・ウント・ドラング」の作家たちが、フランス伝来の文化を排して自国の歴史・伝説に立ち返るとともに、自然感情や個人の叙情性を称揚し、ディドロの影響を受けて演劇の刷新も行われた。
18世紀中葉から末にかけてのこのような感性の風土を一般にプレ(前)・ロマン主義とよんでいるが、要するにそれは個人のレベルでも民族のレベルでも個の独自性の認識への目覚めといってよく、時代・風土に応じて文化が異なるように各人それぞれに独自の価値があるとする相対性の確認であって、一見逆説的に聞こえるが経験にたつ啓蒙主義の一側面から必然的に導出された結果ということができる。そしてこのプレ・ロマンチスムを本来のロマン主義に転化せしめたものがフランス革命であった。1789年のこの革命は革命戦争、ナポレオン戦争を通じて各地に波及し、ヨーロッパ全土に未曽有(みぞう)の政治・社会・文化的大混乱を引き起こした。人心に与えたその最たる影響は深甚な幻滅感であった。啓蒙主義の最高の成果として理性による非合理な政治体制の打破であったはずのものが、恐怖政治のような人間の醜悪面を露呈させるのを目の当たりにして、初めこの革命に賛同した多くの青年たちは絶望に陥らざるをえなかった。彼らは四囲のめまぐるしい変化にとまどい、あらゆる原理の崩壊をみていっさいに対する不信感を植え付けられた。この精神の廃墟(はいきょ)のうえに自らの心性に即した文化を築こうとするのがロマン主義精神の本質であり、それはなによりもまず唯一確かなものとしての自我の確認とその内部への沈潜に始まる。内面にこそ真実があると主張して、1798年ドイツのイエナでウィルヘルムとフリードリヒのシュレーゲル兄弟が『アテネーウム』誌を創刊し、同年にイギリスでワーズワースとコールリッジが自然の観照のうちに想像力によって宇宙との霊的合一感を歌う『叙情民謡集』を刊行して、それぞれ自国の、と同時にヨーロッパのロマン主義の嚆矢(こうし)となったのは、こうした事情に基づいている。
[加藤民男]
ドイツはもともと形而上(けいじじょう)学的思考を好む国民性があるだけに、ロマン主義はいっさいを自我の所産とするフィヒテの絶対的観念論やシェリングの神秘的な自然哲学に大きく影響されながら深化し、芸術家の自己創出であるとともに自己超克でもある「ロマン的イロニー」の概念を中心に絶対・無限なるものへの憧憬(しょうけい)を難解な詩(ポエジー)理論、というより一種の哲学に結晶させた。ノバーリス、ティーク、ついでブレンターノ、アルニム、クライスト、ヘルダーリン、ジャン・パウル、それにアイヒェンドルフ、ホフマン、シャミッソーなどの幻想作家や若きハイネなどがロマン派に数えられる。
[加藤民男]
イギリスではシェークスピアを生んだ国柄から想像力の文学は特別な運動も理論化もなく自然に開花し、シェリーとキーツにおいて叙情性と理想主義と、それにロマン主義の一性格たる社会不正の告発が斬新(ざんしん)なイメージに表現されて至純な詩世界を結実させ、バイロンは近代社会に反抗して不安と絶望にさいなまれる魂を激烈に描出してその生き方ともどもまさしく反逆的ロマン主義の化身となった。他のロマン派としては、中世を舞台とする歴史小説を開拓したスコット、ブレイクとバーンズの両詩人、ラム、ハズリット、ディ・クウィンシーなどの散文家がいる。
[加藤民男]
フランスでは早くスタール夫人が北方のロマン主義文学の移入を説き、シャトーブリアン、セナンクール、コンスタンによって革命後の社会に生きる青年の苦悩が深刻に表現されながら、古典主義の牙城(がじょう)であったために、ラマルチーヌは別にして、ユゴー、ビニー、ミュッセ、デュマ、ネルバルらのロマン主義が勝利を収めるには約20年にわたる闘争を必要とした。戦いは詩歌、とくに演劇の革新をめぐって展開され、世界を全的に表現しようとするロマン主義劇の成立をみた。さらに芸術の自由は政治の自由と結び付き、七月革命以後はブルジョア体制批判の姿勢を強めてロマン主義的社会主義を生み出すに至る。特筆すべきは、スコットの影響を受けて歴史小説が流行すると同時に、その手法で人間を社会との関連において描写する発想が生じ、ノディエ、ゴーチエらの幻想作家とは対照的にスタンダール、バルザック、メリメら現実を直視する小説家が、後の写実主義への道を切り開いたことである。これはイギリスのディケンズにもまた当てはまるであろう。
[加藤民男]
南ヨーロッパにもフランスを媒介にしてロマン主義は伝播(でんぱ)し、とくにイタリアではオーストリアからの独立・国家統一運動(リソルジメント)と一体となって強い政治色を帯び、自由主義とキリスト教に裏打ちされた愛国的文学の確立へと高揚した。マンゾーニの歴史小説はその頂点である。ほかにペッリコを中心とするミラノの『調停者(コンチリアトーレ)』誌に拠(よ)るブレーメ、ビスコンティなどがあげられるが、レオパルディも手法こそ古典的ではあるが、感情の深さによってロマン主義の先駆者と考えてよい。
[加藤民男]
北ヨーロッパのロマン主義はオランダでは低調であったが、スカンジナビア諸国において概して活発に展開され、ロシアではプーシキン、レールモントフを生み出すことによってこの国に近代文学の誕生をもたらした。ミツキェビッチに代表されるポーランドのロマン主義は、列強による国土分割、さらにはロシアの支配という悲運を直接に反映して、イタリアの場合同様、民族主義的で愛国的な政治色を帯びている。
[加藤民男]
最後に南北アメリカに目を転じると、南米ではそれぞれの宗主国からの旅行者や亡命者によってロマン主義がもたらされ、とりわけアルゼンチンとブラジルにおいては先住民インディオを正しく理解しその習俗を描出しようとしたところに特徴をもつが、北米のアメリカ合衆国では反逆すべき既成の芸術原理に欠けていたうえに、ピューリタニズムと功利精神に阻まれて開花が遅れた。しかしスコット流のクーパーの小説やエマソンの超絶主義のほかに、アービング、ロングフェロー、ホーソン、ホイットマン、メルビルらに独特のロマン主義的傾向を認めることができる。ポーはロマン主義的というより、むしろボードレールに先行する近代性(モデルニテ)の詩人である。
[加藤民男]
このように、それぞれの国ないし民族の事情に応じて多種多彩に花咲いたロマン主義の本質を、明確に定義することは容易ではない。むしろ定義しえぬところにその最大の特徴があるとさえいわれるほどである。しかし、ただ一つ確言できるのは、それがフランス革命直後の西欧の市民社会形成期に発生した文学・芸術であるという事実である。この革命は自由と平等を高く掲げて非合理な秩序を打破し、生の深い現実に根ざした真実を希求する理想主義を高揚させた。ところが、その理想主義がたちまち直面したのは、出生による不平等にとってかわった富による不平等であり、その結果、解放されながら抑圧された自我は、精神の尊厳をかざして功利主義的体制に反逆するのでなければ、いたずらに不安、倦怠(けんたい)、無為、焦燥を徴候とする「世紀病」に冒され、あるいは想像力を無限に発動させて現実のかなたに自己充足しうる絶対境を打ち立てようとした。ロマン主義に感情の過多や表現の誇張と同時に、超越ないし逃避的性格が生じたゆえんである。したがって、自ら生み出した抑圧的な市民社会の真っただなかで、なお自由を希求する個的精神の苦闘というのがロマン主義の根幹といってよく、まさしくその自己矛盾ゆえに、逆にこの運動は近代文明に対する鋭い批判の刃(やいば)になりうるのである。
[加藤民男]
日本のロマン主義(浪漫主義)は、封建的社会から近代市民社会への転換期を背景に生まれた。それゆえ、自我の確立と拡充、思想と感情の自由を急進的に求めたところに特色をもつ。それは、西欧文化とキリスト教思想の受容による、前近代的な儒教倫理や封建的習俗への反逆となって現れた。また伝統的な美意識による、西欧的な合理思想・功利主義への抵抗となって現れた。この二つの相反する動きのはざまを母胎として、日本の浪漫主義は成立している。
その先駆けは、森鴎外(おうがい)『舞姫(まいひめ)』(1890)などの三部作や、『文学界』(1893~98)に拠(よ)った北村透谷(とうこく)の評論、島崎藤村の詩である。彼らは美と自由を主張し、人間性の解放と主情的真実を探り、自我の確立を目ざした。ついで明治20年代末に登場した高山樗牛(ちょぎゅう)は自我の充足と拡大を唱え、浪漫主義の理論的裏づけを行った。
本格的な浪漫主義は、明治30年代の詩歌全盛の時代とともに開花する。主流となったのは、与謝野鉄幹(よさのてっかん)・晶子(あきこ)夫妻を中心とする『明星(みょうじょう)』(1900~08)である。好んで星と菫(すみれ)を歌い星菫(せいきん)派と称された。その本質は、奔放な情熱による自我の解放と恋愛至上と空想的唯美の世界への陶酔にあった。藤村の『若菜集』(1897)の流れをくむ薄田泣菫(すすきだきゅうきん)、蒲原有明(かんばらありあけ)、伊良子清白(いらこせいはく)らの浪漫(ろうまん)的情緒がそれに続いた。小説では、幻想と神秘の泉鏡花(きょうか)、自然の永遠性を渇望する国木田独歩(どっぽ)、翻訳では、鴎外の『即興詩人』(1892~1901)、評論では綱島梁川(つなじまりょうせん)の神秘的宗教論などがその実質を形成している。このロマン主義の流れは、明治40年代に入って、異国情緒とデカダンスを重んじる傾向へと変質していく。この傾向を新ロマン主義とも、耽美(たんび)派とも称する。
[浅井 清]
『H・G・シェンク著、生松敬三・塚本明子訳『ロマン主義の精神』(1975・みすず書房)』▽『小浜俊郎・後藤信幸訳『アルベール・ベガン著作集1 ロマン的魂と夢』(1972・国文社)』▽『C・シュミット著、橋川文三訳『政治的ロマン主義』(1982・未来社)』▽『F・O・シュレーゲル著、山本定裕訳『ロマン派文学論』(1980・冨山房百科文庫)』▽『加藤民男著『大革命以後――ロマン主義の精神』(1981・小沢書店)』▽『吉田精一著『浪漫主義の研究』(1970・東京堂出版)』▽『日夏耿之介著『明治浪漫文学史』(1951・中央公論社)』▽『笹淵友一著『浪漫主義文学の誕生』(1958・明治書院)』
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19世紀前半から後半にかけてヨーロッパで強まった思想,芸術の傾向。フランス革命が自由と平等の理想を実現できなかったことへの幻滅から,18世紀に支配的であった啓蒙思想に対する批判として始まる。すなわち,啓蒙思想の理性と合理主義に対しては感情と非合理性を強調し,その伝統と歴史の軽視に対してはむしろその擁護を唱え,また普遍主義,世界主義に対しては個性主義,国民主義を標榜した。18世紀のドイツの「疾風怒濤(しっぷうどとう)」に始まり,文学,美術,音楽へと広まったが,ロマン主義者の現実の政治に対する姿勢には,民族の解放を志向するものから反動体制を支持するものまで,広がりがあった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…ただし,ドイツでは,近代市民社会の未成熟という条件をいわば逆手にとって,思想の展開の時間だけをひとり促成栽培的に早めるといった現象が18世紀末から19世紀はじめにかけて見られる。この結果,この時期のドイツは,啓蒙思想への批判としてのロマン主義の花をどの西欧諸国よりもみごとにひらかせるという栄誉をになうことになったのである。以下,部門別に啓蒙思想の一般的特徴を概観しよう。…
…韻文で書かれた伝承的英雄物語(叙事詩)や,韻文で書かれた運命劇(劇詩)は,かつてはそれぞれ詩の重要な一部門をなすと考えられていたが,今日ではむしろ,詩としてよりも物語として,演劇としての特性から評価される傾向にあり,詩はもっぱら抒情詩を中心として考えられるようになった。この傾向は,文芸思潮史の上では,西欧の18世紀後半から19世紀にかけてのロマン主義以降に顕著となったもので,時代的にははるかに遅れて発足した日本の新体詩においても,その最初期にこそ叙事詩や劇詩,さらには教訓詩などが試みられたものの,ロマン主義思潮の導入とともに同じ傾向を示すようになった。これはロマン主義が,韻律をはじめとする文芸の客観的規範を離れて,個人の内面にある主観的な情念を制作者(詩人)から享受者(読者)へと直接伝えることを重んじ,さらにそのあとに現れた象徴主義が,文芸の基材としての言語の成立ちそのものについて,それまでの一般的理解を解体してしまったためである。…
…だがこれは時代思潮の特質を語る概念でもあり,理性や秩序や調和を尊重する時代の反動として個人の感情や自由を謳歌する立場が生じるとき,これを総称するために用いられる。18世紀の啓蒙主義に対抗して現れたルソーの立場はその典型的な例であり,悟性偏重に反抗する19世紀のドイツ・ロマン主義の活動や,実証主義の時代を経て19世紀末から20世紀にかけて現れた〈生の哲学〉に流れる基調もこれに含められる。【細井 雄介】 そもそも〈センチメンタル〉なる英語がひろく用いられるようになるきっかけは,18世紀のイギリスの作家L.スターンの《センチメンタル・ジャーニー》(1768)であった。…
…ミュンヘンの絵画館アルテ・ピナコテーク(1826‐36)もクレンツェの設計になったもので,このほかザイドルGabriel von Seidl(1848‐1913)のバイエルン国立博物館(1896‐1900)やゼンパーのドレスデン国立絵画館(1846‐52)が知られる。また歴史的関心は中世にまでも及び,19世紀初頭のロマン主義思想の流れを引いてケルンやウルムの大聖堂が完成され,ノイシュワンシュタイン城(E.リーデル,1868‐86)やウィーンの奉献教会(H.vonフェルステル,1856‐79)のようなロマネスクやゴシックを模した中世様式建築も造営された。この歴史主義とたもとを分かって新しい方向を模索したユーゲントシュティールの運動から世紀末のゼツェッシオン(分離派)が興り,やがて20世紀最大の建築家の一人グロピウスが登場する。…
…12世紀に,宮廷風騎士道物語と呼ばれる新しいジャンルが現れた背景には,〈アーサー王伝説〉をはじめ,ケルト系の伝承が大きな形成力として働いている。近代になってからも,ケルト的な魂の神秘性に対する関心は,イギリス・ロマン主義を経由して,フランス・ロマン主義のなかにも流れこんでいるのが看取される。また,たとえば,〈俺はゴール人の祖先から青白い眼と,小さい脳味噌と,組打ちの不手際を受け継いだ〉というアルチュール・ランボーの詩句にみられるように,いわゆる大陸のケルト人の中核として,ローマの進出以前からガリアに先住していたゴール人の気質のなかに,自然さ,闊達さ,粗野ともいえる飾り気のなさ,原初的な荒々しい力を見いだし,それをフランス人の本来的な美徳の祖型として,あえて顕彰してみせた詩人もいる。…
…このため,この時期の文学は歴史,書簡,詩,演劇などに限られていた。この時代の注目すべき作品としては,ガルシラソ・デ・ラ・ベガの《インカの起源に関する真実の記録》(1609‐17),解放者シモン・ボリーバルの《カルタヘナ宣言》(1817)などの一連の政治評論のほか,ホセ・マリア・エレディアに代表されるロマン主義の詩が挙げられる。 独立時代に入っても,イスパノ・アメリカは政治的独立を達成したものの,文化的・精神的自立からはほど遠く,文学の面でもいぜんとして新古典主義やロマン主義の影響を受けた作品が支配的であった。…
…その意味で,同じ思考基盤に立つ法学,政治学,言語学などにも歴史学派の名称を冠する場合がある。
[思想的背景]
歴史学派の思考方法を特徴づけ,この学派の血となり肉となっているのがロマン主義であり,またそれを一つの世界観に昇華させた歴史主義である。ロマン主義は啓蒙主義に対する対抗運動として,みずからの立場を徐々に明確にしていき,フランス革命を契機にしてその政治的立場をあらわにしていったもので,反理性が思想的中核をなしている。…
…ロマン主義とはおよそ18世紀の末から19世紀の前半にかけて,ドイツ,フランス,イギリスなどのヨーロッパ各地で展開した文芸・思想上の革新的思潮であり,その特徴は大まかに言えば,〈文化〉に存在する多くの規制を打破して,さまざまなレベルでの自由で統合的な表現を追究したことにあった。ここで言うところのロマン派演劇あるいはロマン主義演劇とは,このような革新的思潮の一環としての演劇運動を指して言ったものである。…
…その点では諸芸術中で最も内面的な,ロマン的性格の芸術とされる。 上記の認識自体,ロマン主義芸術観の所産であった。ティーク,E.T.A.ホフマンら多くの作家が,音楽のうちに詩(ポエジー)の究極的理想像をみている。…
※「ロマン主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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