デジタル大辞泉 「フランス革命」の意味・読み・例文・類語
フランス‐かくめい【フランス革命】
[補説]スローガンは「自由、平等、博愛(Liberté, Egalité, Fraternité)」。
18世紀末にフランスで生じた革命。1787年に王権に対する貴族の反抗で口火が切られ,89年から全社会層を巻き込む本格的な革命になり,絶対王政を倒して,立憲王政から共和政へとしだいに急進化したが,94年のテルミドールの反動ののち退潮に向かい,99年にナポレオンの政権掌握をもって終わる。単に政治上の変革であるにとどまらず,前近代的な社会体制を変革して近代ブルジョア社会を樹立した革命であるので,世界史上,ブルジョア革命(市民革命)の代表的なものとされる。
革命前のフランスの体制は一般にアンシャン・レジーム(旧体制)と呼ばれているが,それは,政治的には絶対王政が支配し,社会的には身分制と領主制とが存続しているような体制であった。絶対王政のもとでは,政治権力は国王とその官僚機構に集中され,国家を構成する市民(公民)の基本的人権や参政権は確立されていなかった。また,身分制としては,聖職者,貴族,平民(第三身分)の3者の区別が基本的であり,前2者は免税特権をはじめとする各種の特権を与えられていたが,聖職者の上層部はほとんど貴族の出身であったから,実際には貴族と平民との差別が最も重要であった。これら3身分の内部はさらにいくつもの階層に区分され,地方ごとの特権も存続していたから,国民的統一は実現されていなかった(身分制社会)。さらに,領主制というのは,領主がその所領を支配する中世以来の制度で,農民をはじめとして所領に属する領民は,領主に対して,年貢などの諸貢租を納めたり領主裁判権に服したりする義務を負っていた。領主がその所領で行使する領主的諸権利(諸貢租の徴収権や領内の経済規制権など)は,農業や商工業の自由な発展を著しく阻害するものであった。そして領主の多くは貴族身分に属していたから,貴族と平民との対立は領主と領民との対立に重ね合わせになっていた。
これに対して,18世紀の30年代からフランスの経済は好況に恵まれ,産業の発展に伴って,第三身分の中から,富裕な商工業者や大借地経営農民など,新しい資本主義的生産様式を担う市民階級(ブルジョアジー)が興隆してきた。彼らは,自分たちの権利を認めずに重税をかけてくる絶対王政や,身分的特権をもって自分たちを差別している貴族の支配や,自由な経済活動を阻害する領主制など,旧体制のいっさいに対して強い不満を抱き,その不合理を批判する啓蒙思想の影響を受けて,旧体制の打倒を目ざすようになった。フランス革命の基本的な原因は,こうしたブルジョアジーの旧体制に対する反抗にある。
しかし,旧体制に対してさらに強い不満を抱いていたのは,国民の大多数を占める農村の小農民や都市の民衆(小手工業者,職人など)であった。彼らは,領主の徴収する貢租と国王の徴収する租税との二重の負担に苦しみ,しだいに貧窮化しつつあったから,みずからの生活を守るためにも旧体制に対する反抗を強めつつあった。彼らは,旧体制に対立する限りでブルジョアジーと同盟しえたが,その他の点ではブルジョアジーとは異なる利害をもっていた。なぜなら,ブルジョアジーの推進する資本主義が発展するにつれて,民衆や農民はプロレタリアートに没落する危険にさらされていたからである。こうして,革命前夜のフランスでは,旧体制下の支配者としての貴族と,新興のブルジョアジーと,没落しつつある民衆や農民と,三つの社会層がそれぞれ独自の利害をもって三大陣営を構成しており,それらの対抗関係が革命の背景をなしていた。
なお,フランス革命の歴史的背景としては,以上のような国内の問題のほかに,国際的な関係をも考慮しなければならない。すなわち,18世紀初頭以来,世界市場をめぐる国際的争覇戦において,フランスはイギリスに対して決定的な劣位に立たされていた。とくに七年戦争以後,世界市場を独占したイギリスが産業革命を開始するようになると,フランスの経済的劣勢は顕著となり,1786年のイギリス・フランス通商条約によってイギリスの商品が大量に流入したことは,フランスの経済的危機をもたらした。このような状況のもとで,イギリスに対抗するためにも国内の近代化を図らなければならなくなったことが,フランス革命の重要な背景をなしているのである。
1774年にルイ16世が即位したころから,王国の財政はしだいに窮迫の度を強めていった。それは,単に宮廷費や行政上の費用のためばかりではなく,累積した公債の利子の支払いや,宮廷に寄生する貴族への年金の授与などにもよるのであり,さらに,アメリカ独立戦争への援助が財政の窮迫に拍車をかけた。A.R.J.チュルゴやJ.ネッケルによる改革の試みも功を奏さず,すでに平民への課税は限界に達していたので,財政を改善するためには,それまで免税とされてきた特権身分,とくに貴族に対しても課税することが不可避となり,国王の大臣たちは貴族への課税を含む財政改革案を作らざるをえなくなった。貴族はもちろんそれに反対であった。もともと貴族は,絶対王政のもとで特権身分として社会的には支配的な地位を占めてはいたが,政治的権力のほとんどすべてを王権に吸収されてしまっており,そのことに強い不満を抱いていた。そこで貴族は国王が窮地に立ったことを利用して,旧来の権力を取り戻そうと,王権に対する反抗を開始した。彼らは,王令を登録する権利をもっていた高等法院を拠点にして,あらゆる改革案に反対した。そのため財務総監C.A.deカロンヌは87年2月に名士会を召集して,貴族への課税を含む財政改革案への同意を求めたが,名士会はかえってカロンヌを罷免させた。こうして絶対王政は行き詰まり,王権は貴族の反抗によって麻痺してしまった。フランス革命は,貴族の反抗によって口火を切られたのである。
名士会がなんの効果もあげずに解散すると,財政改革案の審議は全国三部会にゆだねられるものとされ,175年間も開かれていなかった全国三部会が1789年に召集されることになった。しかし,その全国三部会の構成と議決の方式をめぐって,貴族と第三身分との対立があらわになった。すなわち,貴族は3身分がそれぞれ別個に会議を開くことを主張したが,第三身分は3身分の合同と頭数制の議決とを要求していた。89年5月に全国三部会が開かれると,初めから議決方式をめぐる紛糾が生じ,第三身分の議員たちはみずから〈国民議会〉と名のり,憲法の制定までは解散しないことを誓った(テニスコートの誓い)。その固い決意をみて,国王もやむなく聖職者と貴族に国民議会への合流を命じ,全国三部会は89年7月に〈憲法制定国民議会〉という名称をとることになった。しかし,国王を取り巻く宮廷と大多数の貴族は,第三身分との妥協をそのまま認めようとはせず,武力で第三身分を屈服させようとして軍隊を集結しつつあった。こうした貴族の動きを察知して,民衆や農民は貴族が議会と第三身分を武力攻撃しようとしているという〈貴族の陰謀〉の観念を抱くにいたった。その陰謀をくじくために,広範な民衆と農民が実力を行使して革命に介入することになった。
89年7月14日,パリの民衆は蜂起してバスティーユの牢獄を占領し,議会を守って旧体制に反対する意志を明らかにした。すでにこの年の春から各地で蜂起し始めていた農民も,このころ〈大恐怖〉と呼ばれる全国的なパニック現象を伴いながら,蜂起の火の手を広げて各地で領主の館を襲い,貴族や領主の支配を実力で粉砕する意志を示した。こうした状況を前にして,旧体制の維持が不可能であることを悟った〈自由主義的貴族〉は,第三身分と妥協して一定の改革を実施することを認めざるをえなくなった。その結果8月4日の夜に,議会は〈封建制度を廃棄する〉という決議を採択し,身分制と領主制を廃止して国民的統一と市民社会の実現を図ることを決定した。こうして民衆と農民の実力による介入を得て,旧体制を根本的に変革しようとする革命の方向が定まった。
同年8月26日,それまでに達成された革命の成果を要約してその諸原理を明示するために,議会は〈人権および市民権の宣言〉を採択した。この人権宣言は,人間の自由(思想,言論,信教の自由など),権利の平等,国民主権,所有権の絶対,などを明らかにしたものであり,旧体制が消滅したことを宣言するとともに,革命の理念を明示したものであった。しかし,この宣言によって示された諸原理をどのような形で具体化するかについては,二つの方式が可能であった。その一つは,ブルジョアジーの保守的な部分と自由主義的貴族とが同盟して,妥協的な形で革命を終結させようとする方式であり,もう一つはブルジョアジーの急進的な部分が民衆や農民と同盟して,革命を徹底的に推し進めようとする方式である。そして,89年の末から92年8月までの時期には前者の方式が実現され,妥協的な立憲王政が成立したのである。
国王ルイ16世は,8月4日の夜の決議や人権宣言を直ちに裁可しようとはしなかったが,10月に再びパリの民衆が蜂起してベルサイユ宮殿に押しかけ,国王と議会をパリに移転させたので,国王もやむなく8月の諸決定を裁可した。そこで議会は,89年末から新生フランスの諸制度,諸政策を次々に決定し,それらを総括して91年9月にフランス最初の憲法を制定した。この憲法で定められたフランスの政体は,一院制の議会をもつ立憲王政であったが,そこでは国民の参政権は非常に制限されており,一定額の直接国税を支払う者にしか選挙権が与えられず,被選挙権はさらに制限されていたから,貧しい民衆や農民を排除した有産者寡頭支配体制が樹立された。また,ギルドの廃止や囲込みの自由などをはじめとして,商品生産および流通の自由(経済的自由主義)が確立されたことは,ブルジョアジーの要求を実現するものであったが,貧しい民衆や農民にとっては自由競争の中でさらに没落する危険を増大させるものであった。また,農民の求めていた領主制の廃止は部分的にしか実現されず,年貢を免れるためには領主に多額の補償金を支払わねばならないことになった。そして財政を救うために,聖職者および教会の財産を国有化して売却することが決定され,その国有財産を担保にしてアシニャassignatという紙幣が発行されたが,それはやがてインフレーションを招いて民衆の生活を苦しめることになった。
そのころ,議会と宮廷との間はH.G.R.ミラボーなどの仲介で一応の安定を得ていたが,反革命派の貴族は続々と国外に亡命してオーストリアやプロイセンの援助のもとに革命の打倒を図り,国王の一家も,91年6月にひそかに国外へ逃亡しようとして国境近くのバレンヌで発覚してパリに送還され,それ以後,王家は国民の信用を失った。92年の春,こうした反革命派を支援するオーストリアなどとフランスとの間の緊張が高まり,4月に戦争が始まった。この戦争は立憲王政を崩壊させる契機になった。すなわち,国境の危機を救うために全国から義勇兵がパリに参集したが,その義勇兵とパリの民衆は,出陣に先立って国内の敵を一掃する必要を痛感し,同年8月10日,王宮を襲ってついに王政を廃止させるにいたったのである。
92年8月10日は,革命の路線を大きく変えるいわば第2の革命であった。単に王政が廃止されただけではなく,ブルジョアジーと自由主義的貴族との同盟によって革命を妥協的な形で終結させようとする方式そのものが破産し,内外の強力な反革命勢力を前にして,ブルジョアジーは,民衆や農民の力を借りざるをえず,それらとの同盟によって革命を徹底的に推し進めるほかはなくなったのである。同年9月,さきに91年の憲法によって成立していた議会(立法議会)は解散され,新たに普通選挙によって国民公会が召集され,9月22日をもって共和政が樹立された(第一共和政)。国民公会に代表されていたのは依然としてブルジョアジーであったが,その内部には,民衆や農民との同盟を拒否してブルジョアジーだけの利害を守ろうとする右翼のジロンド派と,革命遂行のためには民衆や農民との同盟が不可避であることを認める左翼の山岳派とがあり,後者は,パリに本部を置き全国に下部組織をもつジャコバン・クラブと密接につながっていた。
ジロンド派と山岳派との対立がしだいに激化するなかで迎えた1793年は,生まれたばかりのフランス共和国が内外両面にわたって深刻な危機にさらされた年であった。国内においては,インフレーションの進行や食糧の不足などによって民衆の不満が高まり,また,バンデーなど各地で王党派の扇動による反革命内乱が発生した。国外では,同年1月にルイ16世が処刑されたことによってオーストリアなどヨーロッパ諸国の国王たちが反フランスの態度を強め,また,フランス軍のベルギー地方への進出によって脅威を感じたイギリスもフランスに敵対し,やがて第1次対仏大同盟が結成されるにいたった。こういう危機に際して,ジロンド派はなんら有効な政治指導をなすことができず,民衆や農民の不満は高まるばかりであった。そこで同年5月末から6月初めにかけて,山岳派は民衆蜂起の力を借りて国民公会からジロンド派を追放した。こうして権力を握った山岳派は,大衆の革命的エネルギーを政治的リーダーシップのもとに結集して祖国の防衛と革命の遂行とを図ると同時に,国民公会に代表されているブルジョアジーの利害と議会外の民衆や農民の諸要求とをなんらかの方法で調整しなければならないという,まことに困難な課題を背負っていた。その課題を果たすための手段が,一方では強力な権力の集中による革命的独裁の樹立であり,他方では一定の社会政策の実施による民生の安定であった。
まず山岳派は,〈社会の目的は公共の福祉にあり〉という原則を掲げた新憲法(普通選挙を含む)を制定したが,内外の非常事態を前にしてこの憲法の実施を延期し,憲法によらない非常政治体制としての〈革命政府〉を樹立した。この体制は立法権と行政権とを分立させず,立法府たる国民公会のなかのいくつかの委員会,とくに公安委員会に強力な行政的な権限をも集中して敏速な政治指導を行おうとする一種の独裁体制であって,公安委員会において最も指導的な役割を果たしたのが,パリのジャコバン・クラブを背景とするロベスピエールであった。この独裁体制は,旧体制を徹底的に一掃するとともに内外の反革命勢力の攻撃から革命を擁護するための非常手段であるという意味で,革命的独裁と呼ばれうる。しかし,そういう独裁的な政治指導は,民衆運動の自律性を認めず,民衆のエネルギーをすべて公安委員会の統制のもとに置こうとするものであったから,民衆運動としだいに対立するようになった。つまり民衆は,人民主権の原理を徹底させて民衆の要求を直接に議会に反映させようという直接民主主義を目ざしていたから,山岳派の独裁的政治指導を逸脱する傾向をもっていたのである。したがって山岳派独裁は,いわゆる恐怖政治によって王党をはじめとする反革命派を容赦なく処刑しただけではなく,民衆運動を背景とした〈過激派(アンラジェ)〉やエベール派などの最左翼をも弾圧することになった。
93年から94年にかけて,民衆や農民は領主制の完全な廃止をはじめとする旧体制の一掃を求めるにとどまらず,資本主義の発展によって自分たちが無産者に没落していくのを阻止しようとして,経済活動の無制限な自由や富の不平等を攻撃し,私的所有の制限や土地の分割をも要求するにいたった。そこで山岳派は,93年7月に領主制を完全に無償で廃止したが,民衆や農民の反資本主義的な要求を認めることはできず,これとブルジョアジーの利害とを調整するために,臨時の措置として一連の社会政策を実施した。すなわち,山岳派は生活必需品の〈最高価格制〉,物資の買占めの禁止,食糧の強制的出荷命令(徴発)など経済統制を実施して民生の安定を図り,さらに94年春,ロベスピエール派は反革命容疑者の財産を没収して貧しい愛国者に分配するという〈バントーズ法〉さえをも提示した。しかし,こうした社会政策はブルジョアジーの離反を招き,山岳派内部にも分裂をもたらした。つまり右翼のダントン派は,社会政策に反対するとともに恐怖政治の緩和を求め,左翼のエベール派は社会政策の徹底と恐怖政治の強化を求めた。そこでロベスピエールは,94年春にエベール派とダントン派とを相次いで処刑したが,その結果はロベスピエール派の支持基盤を狭めるだけであった。おりしも,国内の反革命内乱はほとんど鎮定され,国境の軍事的危機も共和国軍の勝利によって薄れつつあったから,独裁的非常体制や恐怖政治の必要性そのものが解消した。こうしてブルジョアジーの利害を代表する議員たちは,94年7月27日国民公会においてテルミドールの反動と呼ばれるクーデタを成功させ,ロベスピエールはその一党とともに翌日処刑された。
テルミドールの反動とともに,革命の流れは大きく変わった。それまで革命を推進してきたのはブルジョアジーと民衆や農民との同盟関係であったが,ブルジョアジーは,この同盟を維持しようと努力してきたロベスピエールを倒すことによって,民衆や農民との同盟関係を解消し,みずからの階級的利害を貫徹して,〈持てる者によって統治される国〉を実現しようとした。経済統制は直ちに廃止され,国民公会の左翼議員は追放され,ジャコバン・クラブは閉鎖され,復活した右翼によって報復的な〈白色テロル〉が荒れ狂った。95年8月に制定された新憲法では,普通選挙制も廃止されて,二院制の議会と5人の総裁から成る総裁政府が樹立された。しかし,この総裁政府は左右両翼からの脅威にさらされていた。すなわち,96年には,民衆運動の思想を一種の共産主義にまで高めて〈財産と労働とをともにする共同体〉を実現しようとするバブーフの陰謀が発覚し,その翌年には,王党が勢力を増大して政府を脅かすまでになった。これら左右両翼からの脅威を前にして,権力の座に就いたばかりのブルジョアジーは,みずからの財産を守りブルジョア的な秩序を維持するためには,ただ,軍隊とその指導者の力に頼るほかはなかった。こうして,おりしもイタリア遠征で輝かしい勝利を収めたナポレオン・ボナパルトが登場する。ブルジョアジーだけではなく,革命によって解放されるとともに保守化した広範な小土地所有農民もまた彼を支持し,戦勝によるナショナリズムの高揚がこの国民的英雄を権力へと導く。総裁政府の動揺と第2次対仏大同盟の結成を知って遠征中のエジプトから帰国したナポレオンは,99年11月9日(ブリュメール18日)にクーデタを断行した。ここに国家権力は彼の軍事的独裁にゆだねられ,フランス革命はその幕を閉じた。
フランス革命は市民の基本的人権を確認するとともに,資本主義に適合した社会を生み出したから,市民革命ないしブルジョア革命の代表的なものとされるが,同時にそれは,広範な民衆や農民の参加のもとに遂行されたから,国民の平等な政治参加への道を開く民主主義革命の一つと呼ばれるに値する。そして革命の原理を明示した人権宣言が,フランス人の権利の宣言であるにとどまらず,普遍的な人間の権利の宣言であったことにも示されているように,フランス革命は国境を超えた普遍性をもち,世界的に大きな影響を及ぼした。その主要な成果がナポレオンによって継承されて,直接にヨーロッパ大陸に広められただけではなく,19世紀の自由主義と国民主義の運動や,1848年に至るヨーロッパの諸革命は,フランス革命を継承し完成させようとするものであったといえよう。日本においても,1890年(明治23)に作成された最初の民法草案(旧民法)は,フランス革命の成果を継承したフランス民法典(ナポレオン法典)を模範とするものであったが,それゆえにこの旧民法は施行されずに終わった。しかし,フランス革命の原理は,中江兆民らによって伝えられ,自由民権運動にかなりの影響を及ぼしたのである。
執筆者:遅塚 忠躬
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1789~99年にわたるフランスの市民革命。アンシャン・レジーム末期,フランスは経済的に急激な発展をとげたにもかかわらず,ブルジョワと国民大衆は第三身分として政治的権利を認められず,身分制度や封建的諸関係は近代的発展をさまたげていた。絶対主義政府が財政整理について名士会を召集すると,自由主義貴族は三部会開催を要求したため,89年5月,三部会がヴェルサイユで開催された。第三身分議員は特権議員と対立したが,6月,他部会議員参加のもとに国民議会の成立を宣言し,7月には憲法制定議会となった。バスティーユ事件,農民の運動などの影響のもとに,8月,封建制廃止宣言,人権宣言が行われ,立憲君主制を規定する,91年憲法が制定された。91年10月,立法議会が開会されると,フイヤン派,ジロンド派が指導し,92年4月,オーストリアに宣戦したが,戦局の不利と経済危機にいらだつパリ市民は同年8月,国王をテュイルリ宮殿に襲って捕え,王権を倒した。同年9月,国民公会は共和政を宣言し,93年1月,ルイ16世を処刑した。議会ではパリのサン・キュロットと結ぶ山岳派とジロンド派の対立が続いたが,5~6月,山岳派は後者を追放して独裁権を握り,公安委員会,革命裁判所などの革命的機関によって恐怖政治をしき,革命政府を樹立し,経済統制をはじめ社会的立法を行った。しかしテルミドール9日のクーデタ後,革命政府は解体され,95年,総裁政府が樹立されたが,なお左右勢力の対立のなかに政治的安定を得ることができず,バブーフの陰謀も行われた。ここに対外的防衛,ブルジョワ的安定を図るために強力政府の出現が希望され,ナポレオンがブリュメール18日のクーデタによって独裁政治を開いた。
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…また,階級間関係は定義によって相互に不平等な関係であることから,他階級に対する敵対感情,自階級内部での連帯感情をともなうことが多く,これが階級意識と呼ばれるものである。
[サン・シモンの階級論]
階級論への着目は,西ヨーロッパ諸国における近代化革命,とりわけフランス革命をつうじて形成され,初めにサン・シモン,次いでマルクスとエンゲルスによって一つの理論へと定式化されるにいたった。 最初の定式化を示したサン・シモンは,その著《産業者教理問答Catéchisme politique des industriels》(1823‐24)の中で,フランス革命以前のアンシャン・レジームの下では,フランスは貴族・ブルジョア・産業者の3階級から成っていたとし,貴族を支配する階級,産業者を服従する階級,そしてブルジョアを中間階級とした。…
…独立宣言に先立つバージニア権利章典(1776)以来,すべての人は生来ひとしく自由かつ独立であることが強調され,公立・無償の学校への道が開かれた。ついでフランス革命期には,ジロンド派憲法草案(1793)で〈初等教育は,すべての者の需要であり,社会は,すべての構成員に対し,平等にこれを引き受けるものである〉とされ,同年のモンタニャール派(山岳派)憲法でも,教育はすべての者の需要であるとしたうえで,〈社会は,その全力をあげて一般の理性の進歩を助長し,教育をすべての者の手の届くところに置かなければならない〉とされていた。ジロンド派に属し革命後の教育計画をたてようとしたコンドルセは,教育の自律性確保のため,教育を宗教的権威から独立させると同時に行政的権力からも独立させようと試み,教育行政権を学者・知識人の互選による国立学術院にゆだねるとの構想をたてた。…
…そのような一般的な意味では,テロリズムともいう。だが,歴史的には,フランス革命期の1793年から94年にかけて行われた革命的独裁政治が,断頭台などによる大量処刑を伴ったために恐怖政治と呼ばれており,狭義の恐怖政治は,この時期のフランスの政治形態を指す。 フランス革命期の恐怖政治は,革命の敵と見なされた者に対する民衆の自然発生的な殺害や暴行に端を発し,1793年秋からは,革命政府の手で反革命派ないし政府反対派に対する広範で組織的な投獄・処刑が強行されるにいたったが,そのような事態が生じた背景には,外国軍の侵入と国内の反革命内乱の発生という深刻な危機的状況があった。…
…しかし,イギリスでのこの概念の展開は,比較的に無意識的,漸進的であった。 それを意識的,急進的に樹立したのは,フランス革命であった。そこでは,〈国民(ナシオンnation)主権〉の原理からこのような概念が体系的に展開されていた。…
…
[歴史]
ヨーロッパにおいて政教分離は一回的できごとではなく,歴史過程のなかで徐々に進行したが,巨視的に見れば三つの画期を指摘することができる。聖職叙任権闘争,宗教戦争,およびフランス革命である。 中世世界においては,国家と宗教(キリスト教)の区別は未知の事柄であった。…
…革命の途中で,レベラーズは,農民の土地保有権強化,没収地の細分売却,共有地の平等分割の方針((2)(3)(4)と逆)を提起し,また,ディガーズは貧民による荒地の共同耕作を試みたが,いずれもクロムウェルの勢力によって抑圧された。
[フランス革命の土地改革]
イギリス資本主義は,18世紀中葉に国際的覇権争いでフランスを劣勢に追い込むまでに発展し,この危機のなかでフランス革命が起こる。ここでは16世紀以降商人の〈市民的土地所有〉が発生し,その零細小作への貸付けによって領主制とは異質の〈寄生地主制〉も展開していた。…
…反動とは,物理学的には作用に対する反作用という意味であるが,政治の世界で反動の概念が生まれたのは,フランス革命をもって嚆矢(こうし)とする。自由・平等・博愛という普遍的価値を前面に出して遂行されたこのイデオロギー革命は,その進展とともに革命に反対する運動を呼び,これが反動派réactionnairesを形成することになった。…
…
【地域性】
[プロバンスとレジヨン]
フランスは,さまざまな見方によって諸地域に分けられる。現在最も広く用いられている地方名は,フランス革命以後に設定された95の県(デパルトマンdépartement)名ではなく,むしろそれ以前の旧州(プロバンスprovince)またはそれを援用した22の〈地域〉(レジヨンrégionと呼び,数県をまとめたもの)の名前である。たとえば,ブルターニュは,旧州にあたる5県を指す場合と〈地域〉を構成する4県のみを意味する場合とがある。…
※「フランス革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
カスタマー(顧客)とハラスメント(嫌がらせ)を組み合わせた造語「カスタマーハラスメント」の略称。顧客や取引先が過剰な要求をしたり、商品やサービスに不当な言いがかりを付けたりする悪質な行為を指す。従業...
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