共和政末期ローマの政治家,将軍。いわゆる第1回三頭政治を行った。スラのもとで武勲をたてた後,前73年の法務官職を経て,前72年スパルタクスの反乱を鎮定し,ポンペイウスとともに前70年のコンスル(執政官)に選ばれ,護民官職権の回復をはかった。金貸し,貸家の所有,鉱山経営,法廷活動などによる致富の道にたけ,財力をもって政界での発言力を増してゆく。前67年から前63年にかけては〈国家の第一人者〉たらんとしてポンペイウスと競ったが,結局,彼の下風に立つことになる。前65年のケンソルとしてポー川の北のガリア人に市民権を与え,エジプト併合をはかるなど地盤の育成にはげみ,さらにはカティリナの陰謀の黒幕となり(反論も有力),若きカエサルの後ろだてとなってこれとも結んだ。前60年にはポンペイウスとカエサルとの連合(第1回三頭政治)が成った。その後もポンペイウスと対立したが,前56年にはルカで3者の盟約を更新して,前55年にはポンペイウスとともにコンスルになり,5年間のシリアの命令権を得た。前55年末,軍事的名声の確立をめざして,シリアで兵を整えて,アルメニア王の助力の下,前53年パルティア戦争に出陣したが,カラエで敗死した。
カエサルやポンペイウスに比べて,政治家・将軍として劣っているとみられてきたが,少なくとも対立・連係をくりかえしつつ,ときには権力的に両者を凌駕したこともあり,現在は再評価が行われている。〈国家の第一人者たらんとする人は自分で軍隊を養えるぐらいの金がなければならない〉という言葉がその生き方を示しているといえよう。
執筆者:長谷川 博隆
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古代ローマ、共和政末期の政治家、富豪。初めスラに味方し、スラによる反対派の没収財産を買い占め、火災にあったローマ市の家などを安く買い取り、また戦争を通して貪欲(どんよく)に富を追求し、ローマ一番の金持ちとなり、富者Divesといわれた。ローマに大きな恐怖を与えたスパルタクスの蜂起(ほうき)を将軍として鎮定し(前71)、翌年ポンペイウスとともに執政官に選ばれた。しかしポンペイウスには対抗意識をもち、ポンペイウス東征中のカティリナの陰謀事件では、カエサルとともにひそかにカティリナを援助した。カエサルがイスパニア総督として赴任する際、多額の負債に苦しんでいたのを保証人となって助け、紀元前60年には、カエサルの仲介で、反目していたポンペイウスとも結び、元老院勢力に共同で対抗し、第一次三頭政治を実現し、ローマの領土をおのおのの勢力範囲に分けた。この結合は前56年のルカ会談で更新されたが、クラッススはカエサル、ポンペイウスに匹敵する武名をも得ようとし、自己の勢力範囲であるシリアを拠点として、パルティア遠征を試み、ユーフラテス川を越えたが、ここでパルティア軍の反撃にあって前53年6月9日戦死した。
[土井正興]
『河野与一訳『プルターク英雄伝』(岩波文庫)』
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前115~前53
古代ローマの政治家,将軍。富裕で知られる。スパルタクスの反乱の平定者。前60年カエサル,ポンペイウスと第1回三頭政治を行ったが,パルティア遠征の途中戦死した。
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…コルネリアを失った後,前67年に再婚した女性)を離婚した。クラッススの後ろだてで債鬼から逃れ,前61‐前60年には〈かなたのスペイン〉の長官としてルシタニ族を討ち,戦利品で部下および国庫を潤し,政治的・軍事的に実力を貯えてゆく。前60年には,ポンペイウス,クラッススと同盟を結んで,私的な結合たるいわゆる第1回三頭政治をはじめ,両者の援助で前59年のコンスル(執政官)に就任した。…
…帝政成立前夜のローマで,有力将軍が連携して元老院を制肘(せいちゆう)し共和政体を空洞化させてゆく際の特徴的政治形態。前43年アントニウス,オクタウィアヌス(アウグストゥス),レピドゥスの三者が民会決議で〈国家再建のための三人委員〉となり,全権を掌握した事態を第2次三頭政治と呼び,前60年ポンペイウス,カエサル,クラッススが私的盟約により国政を牛耳ったのを,〈三人委員〉との類似から第1次三頭政治と呼ぶ。(1)第1次三頭政治 東方遠征から帰還したポンペイウスは退役兵への土地配分等の課題達成のため,前59年のコンスルのカエサル,その後援者クラッススと密約し,彼の勢力を警戒する元老院門閥の妨害を封じた。…
…ローマ軍のたび重なる敗北,12万に達する奴隷軍の存在は,ローマ市民にハンニバルの再来として大きな恐怖をあたえた。元老院はクラッススを将軍に任命し,イスパニアのポンペイウス,トラキアのM.ルクルスを召還して,奴隷蜂起鎮圧に全力をあげた。この間,スパルタクスは海賊と連絡してシチリア渡航を試みたが失敗し,クラッススによってブルッティウム半島にとじこめられた。…
…彼はポントスのミトリダテス6世の反ローマ闘争に協力したが,ローマとアルメニアの対立はやがてパルティアを巻き込み,フラアテス3世Phraates III(在位,前71か70‐前58か57)の時代からローマとの長い抗争の歴史が開始された。前53年,オロデス2世Orodes II(在位,前58か57‐前39)の将軍スーレンSurenはパルティア騎兵隊を率いてクラッススをカラエに大敗させ,前36年にはフラアテス4世Phraates IV(在位,前40‐前3か2)の軍がアントニウスを撃破した。前20年,両国の間に平和条約が成り,ユーフラテス川が国境とされ,アルメニアに対するローマの宗主権が承認された。…
…まず同盟市戦争で,父のもとで軍人としての第一歩をふみだした後,前83年はじめ,独力でピケヌムの地から3個軍団を召集してスラのために活躍し,とくにシチリア,アフリカでマリウス派の残党を討ち,若年かつ無冠にして凱旋式挙行をスラに認められた。スラの死後もスラ体制の護持に尽くし,イベリア半島のセルトリウスを撃破(前77‐前71)した後,前71年,その帰路にはスパルタクスの反乱の息の根をとめて声望を高め,第2回の凱旋式を行い,クラッススとともに前70年のコンスル(執政官)に選ばれ,スラの裁判関係の規定の変革と護民官の権限の回復をはかった。しかし権力の増大とともに元老院と対立し,民衆派と結び,前67年にはガビニウス法により地中海の海賊討伐の大権を与えられて,長年にわたりローマを悩ました海賊を3ヵ月で地中海から一掃した。…
…この変革期を乗り切るために,ローマの支配層は,民会を基礎にして政治を動かそうとする民衆派(ポプラレス)と,元老院の権威を背景に事を進めようとする閥族派(オプティマテス)に分かれて,権力闘争を繰り広げた。こうして,マリウス派を一掃して殺戮し恐怖政治を敷いた閥族派スラ,スラの外征中に一時政権を握った民衆派のキンナ,スラの死(前78)後,再び民衆派路線に復帰した,かつてのスラの領袖ポンペイウスとクラッスス,そして再び元老院に接近したポンペイウスを倒すカエサルらが相次いで現れた。 彼らは権力闘争に勝つための権力基盤を外征にも求めたため,この時期にはかえってローマの支配領域は拡大した。…
※「クラッスス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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