パレスチナ解放機構(読み)パレスチナかいほうきこう(英語表記)Palestine Liberation Organization

精選版 日本国語大辞典 「パレスチナ解放機構」の意味・読み・例文・類語

パレスチナ‐かいほうきこう ‥カイハウキコウ【パレスチナ解放機構】

(Palestine Liberation Organization の訳語) イスラエルからのパレスチナの独立を目的に設立された、パレスチナ人の政治的統合機関。一九六四年、アラブ連盟の下に、パレスチナ難民を代表する合法的組織として創設。七四年、アラブ首脳会議でパレスチナ人の唯一の正当な代表として承認され、国連オブザーバーの資格を得た。九三年パレスチナ暫定自治協定に調印し、ヨルダン川西岸地域自治政府を組織することが認められた。略称PLO。

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デジタル大辞泉 「パレスチナ解放機構」の意味・読み・例文・類語

パレスチナ‐かいほうきこう〔‐カイハウキコウ〕【パレスチナ解放機構】

ピー‐エル‐オー(PLO)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「パレスチナ解放機構」の意味・わかりやすい解説

パレスチナ解放機構
ぱれすちなかいほうきこう
Palestine Liberation Organization

パレスチナ自治区(ヨルダン川西岸とガザ)だけでなく、離散したすべてのパレスチナ人を公的に代表する組織。略称PLO。1974年に国連のオブザーバー組織となり、2012年にパレスチナがオブザーバー国家(非加盟)に格上げされた際の国連総会決議でも、PLOが従来どおり国連におけるパレスチナ人の代表であることを確認している。

 PLOは、最高意思決定機関としてのパレスチナ民族評議会(PNC)、PNCの代理機関のパレスチナ中央評議会(PCC)、内閣にあたる執行委員会などで構成されている。

 1964年エルサレムで開催された第1回PNCで、パレスチナ解放を目的として創設された。設立当時は汎アラブ主義の枠組みのなかでパレスチナ運動を管理下に置こうとするエジプトの大統領ナセルの影響が強く、初代議長も親エジプトのアハマド・シュケイリAhmed Shukhairyだった。また設立当初のPLOパレスチナ民族憲章は、アラブ諸国がヨルダンによるヨルダン川西岸併合を黙認していたこともあって、パレスチナ国家樹立への構想も明確ではなかった。1967年の第三次中東戦争でアラブ側が大敗するとPLOはナセル離れし、1969年にファタハFatah(パレスチナ解放運動を表すアラビア語Harakat al-Tahrir al-Filastiniの頭文字を逆に読んだもの、アラビア語で「勝利」という意味もある)を率いるアラファトが議長に就任した。ファタハは1950年代に結成され、1968年ヨルダンのカラーマKaramaにおける対イスラエル戦で名を馳(は)せたゲリラ組織である。

 さまざまな組織の連合体であるPLO内でファタハがその後も主流派として勢力を維持できたのは、湾岸アラブ諸国からの支援金やパレスチナ人から徴収する資金力による。

 PLOの拠点は、当初パレスチナ人が全人口の半数以上を占めるヨルダンの首都アンマンに置かれたが、イスラエルとの戦争や国内の混乱を懸念したヨルダンは、1970年9月、パレスチナ・ゲリラを追放した(黒い九月事件)。PLOはレバノンの首都ベイルートに本部を移し、南レバノンからイスラエルへ攻撃をしかけるようになった。1982年、レバノンに侵攻したイスラエル軍がベイルートを包囲(レバノン戦争)、パレスチナ・ゲリラはアラブ諸国に離散し、PLO本部もチュニジアの首都チュニスに移された。イスラエルを解体し、パレスチナ全土を解放するという空論から、第三次中東戦争で占領されたヨルダン川西岸とガザにパレスチナ人の独立国家をつくり、イスラエルと共存する現実路線に次第に転換していったのもこの時期である。

 1990年代は、アラファト議長が湾岸危機湾岸戦争でイラク寄りの姿勢をとったために湾岸諸国からの資金援助を失った。これが、苦境に陥ったPLOが1993年、イスラエルとのパレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)に踏み切った要因の一つとなる。このオスロ合意によってパレスチナ暫定自治政府が成立し、1994年からガザ地区とヨルダン川西岸のエリコで先行自治が開始され、PLOの本部も同年ガザに移された。

 1996年1月に行われたパレスチナ自治選挙で、アラファト支持派が圧勝した。同年4月にはPNCがPLOパレスチナ民族憲章から「イスラエル敵視条項(イスラエル破壊条項)」の破棄を決定(1998年12月、ガザを訪問したアメリカのクリントン大統領の立会いのもとで同条項削除を再確認)するなど、実質的な和平への動きがみられた。

 1996年5月に行われたイスラエル初の首相公選で、治安維持を最優先に掲げた右派リクードのネタニヤフ党首が選出されると、和平プロセスは停滞した。クリントン米政権がかかわった1997年1月の「ヘブロン合意」によるヘブロンからのイスラエル軍部分撤退が行われたのちは、1998年10月のヨルダン川西岸地区からのイスラエル軍追加撤退(13%)を定めた「ワイ合意」も第一段階(2%)撤退実施後に凍結された。1999年5月の選挙でイスラエルにバラク政権が誕生すると和平交渉が再開され、同年11月にはエルサレムの帰属問題などを含めた「最終地位交渉」が実質協議に入った。

 しかし、2001年2月のイスラエル首相公選で強硬派のリクード党のシャロン党首が首相の座につくと事態は混乱を深めた。暴力の連鎖はやまず、2002年3月、シャロン首相は大規模な自治区侵攻(防衛の盾作戦)を断行、自治政府議長府にも戦車部隊を送り、1か月にわたってアラファト議長を軟禁した。

 2004年11月にアラファト議長が入院先のパリで死去すると、後任にファタハのマハムード・アッバスがPLO議長に選出された(2005年1月に自治政府議長に選出)。アッバス議長とシャロン首相との首脳会談などを経て、イスラエル軍は2005年9月にガザ地区からの完全撤退を完了した。

 2006年1月の自治評議会選挙で、PLOに参加していないイスラム主義政党のハマス(ハマースとも)が過半数を得て圧勝すると、ファタハとハマスの対立がエスカレートし、翌年6月にはハマスがガザを制圧した。イスラエルへの攻撃を続けるハマスなどの武装勢力に対してイスラエル軍は2008年末から翌年初めにかけて大規模なガザ空爆(ガザ戦争)を行い、2012年11月にもガザで大規模な軍事衝突による多数の死者が出た。

 ハマスは1987年の第一次インティファーダ(民衆蜂起)を機に設立された。イスラエルの存在を認めず自爆テロも辞さない過激武装組織だが、パレスチナでは貧困層への幅広い救済活動で支持を広げてきた。2011年5月、ハマスとファタハは暫定統一政府をつくることを主眼とする和解文書に調印し、同年12月にはハマスがPLOに参加することでも基本合意した。合意内容の履行は遅れているが、和解と統一政府樹立に向けて協議が続いている。

 なお、自治政府の官職名として議長または長官が使われていたが、日本の外務省は2005年のアッバス訪日を機に大統領に改めた。

[勝又郁子]

『臼杵陽著『中東和平への道』(1999・山川出版社)』『エリアス・サンバー著、飯塚正人監修『パレスチナ――動乱の100年』(2002・創元社)』『平山健太郎、NHK「エルサレム」プロジェクト編著『ドキュメント 聖地エルサレム』(2004・日本放送出版協会)』『臼杵陽著『イスラエル』(岩波新書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パレスチナ解放機構」の意味・わかりやすい解説

パレスチナ解放機構
パレスチナかいほうきこう
Palestine Liberation Organization; PLO

パレスチナ解放諸組織の統合機関。1964年第1回アラブ首脳会議の結果,エジプトのガマル・アブドゥルナセル大統領により,パレスチナ人の代表機関を設置し,パレスチナ・ゲリラアラブ連盟のコントロール下に置くことを目指してつくられた。初代議長は,エジプトの忠実な追随者であったアハマド・シュケイリ。1967年の六日戦争(第3次中東戦争)後,Y.ハンムーダが議長となった。1969年カイロで開かれた PLOの議会であるパレスチナ民族評議会 PNCでヤセル・アラファトが議長となり,PLO執行部が一新されてエジプトのコントロールから離れた。しかしイスラエル敵視条項を盛り込んだパレスチナ国民憲章はそのまま継承した。1970年6月の PNCで組織を再編し,中央委員会 (ゲリラ 10団体の代表) と執行委員会 (ファタハ,サイカ,パレスチナ解放人民戦線 PFLPの代表) を設置。ヨルダン内戦後の 1971年7月の PNCで中央委員会と事務局を廃止し,拡大執行委員会を最高機関とした。しかし穏健的民族主義派と急進的革命闘争貫徹派の対立などが深刻であった。1974年モロッコのラバトで開かれたアラブ首脳会議で,PLOはパレスチナに関する独立主権を認められ,同年 11月には国連オブザーバー資格を得た。1976年アラブ連盟の正式メンバーとなった。PLOの軍事組織としてはパレスチナ解放軍 PLAがある。機構の本部は 1970年代を通じてレバノンの首都ベイルートにあったが,1982年7月イスラエル軍のレバノン侵攻を受けて,温存された軍事組織とともにアラブ諸国へ分散撤退した。この頃からアラブ穏健派諸国はイスラエルの存在を認め,イスラエルが六日戦争の占領地から撤退してパレスチナ国家の樹立を認めるならばイスラエルと共存しようという考えを打ち出すようになった(→ミニ・パレスチナ)。PLO内でもアラファト議長を中心とするファタハはその考えに傾いたが,PLO内の強硬派が反発,ファタハの一部もアラファトに反旗を翻した。1987年12月に始まったイスラエル占領地区でのパレスチナ住民の蜂起(インティファーダ)が広がるにつれて,PLOは再び団結し,1988年11月の第19回民族評議会でイスラエルの生存権を認めるとともに,パレスチナ国家の独立を宣言した(→パレスチナ国家問題)。だが,1990年8月に始まった湾岸戦争で PLOはイラク寄りととれる姿勢を示したことで苦境に追い込まれ,1991年10月開幕の中東和平会議には招かれなかった。その後,イスラエル国内でも話し合いによる和解の気運が高まり,1993年9月 PLOとイスラエルとの間でパレスチナ暫定自治協定が成立した。1996年にはパレスチナ暫定自治政府議長と立法評議会議員選挙が行なわれ,アラファト議長とファタハが圧勝した。2004年11月にアラファト議長が死去,マハムード・アッバス PLO事務局長が議長の座についた。(→パレスチナ分割

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知恵蔵 「パレスチナ解放機構」の解説

パレスチナ解放機構

パレスチナ人の政治組織で、1964年のアラブ首脳会議が設立を決定した。当初はパレスチナの解放というよりは、エジプトのナセル大統領がパレスチナ人を管理する組織としての色彩が強かった。しかし67年の第3次中東戦争でアラブ諸国が大敗すると、アラブ諸国に頼るのではなく、パレスチナ人自らの力でパレスチナを解放しようとする動きが高まった。その代表がファタハ(パレスチナ解放運動)の指導者ヤセル・アラファトであった。アラファトは、69年にPLOの議長に就任した。PLOは当初、ヨルダンに拠点を置いたが、70年9月にヨルダン政府軍の攻撃を受け(ヨルダン内戦/黒い9月)、大きな犠牲を払った後、拠点をレバノンに移し、ベイルートを本拠とした。レバノン南部からイスラエルへゲリラ攻撃をかけたため、レバノン南部はファタハランドと呼ばれるようになった。イスラエルは82年夏にレバノンに侵攻、レバノン戦争を引き起こした。イスラエル軍はファタハランドからパレスチナゲリラを一掃し、ベイルートに殺到した。イスラエル軍包囲下のベイルートからアラファト以下のPLOの戦闘員は脱出し、チュニジアの首都チュニスに移った。PLOは一枚岩の組織ではなく、パレスチナ人の多くのグループの合同体である。その中でアラファトが指導力を発揮してきたのは、最大組織ファタハを率いていたからだ。その背景には豊かな資金力があった。ペルシア湾岸で働いていた80万のパレスチナ人が支払う解放税をファタハが握っていたからである。さらに湾岸の君主たちがアラファトに資金援助を行ってきた。ところが湾岸戦争でアラファトがイラク寄りであったことで、湾岸の君主たちはアラファトへの資金の流れを止めた。資金面から、その指導力に陰りが見え始めた。さらにソ連圏の消滅によって、PLOは政治・軍事的なスポンサーをも失い、イスラエルとの和平へと追い込まれた。アラファトは暫定自治を受け入れ、94年パレスチナに戻った。95年4月、パレスチナ民族の最高意思決定機関であるPNC(パレスチナ民族評議会)を開催し、イスラエルの破壊を目標として掲げたパレスチナ民族憲章を修正した。96年1月には自治地域で評議会と自治政府の大統領の選挙が国際監視下で行われ、アラファト支持勢力が圧勝した。PLOは、その実質をパレスチナ暫定自治政府に変身させつつあった。両者の長であったアラファトは2004年に死亡、05年マフムード・アッバスが後継者となったが、06年1月の評議会選挙でPLOに参加していないハマスが圧勝。PLOがパレスチナ人を代表するという主張を根底からくつがえす事件だった。

(高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)

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旺文社世界史事典 三訂版 「パレスチナ解放機構」の解説

パレスチナ解放機構
パレスチナかいほうきこう
Palestina Liberation Organization

パレスチナ人の反イスラエル運動の統一機構。略称PLO (ピーエルオー)
パレスチナ戦争で発生した170万の難民を基盤に,1964年に結成,73年11月にアラブ連盟諸国の承認を受けた。パレスチナ人の民族自決を唱え,武装ゲリラ闘争も展開し,ヨルダンとの対立や内部の過激派ゲリラによる分派活動の悩みはあるが,アラファト議長の指導で組織を充実させた。1974年12月の国連総会により国連オブザーバー代表権が与えられ,レバノンに本部を置いたが,82年イスラエル軍に包囲され各地に分散退去した。1988年パレスチナ独立国家樹立宣言を発表した。1990年の湾岸危機に際してイラク寄りの姿勢をとったため,クウェート撤退後は国際的に孤立した。しかし,1993年,イスラエルと歴史的和解を果たし,その後相互承認,ガザ・イェリコでの先行自治協定の調印と,和平への歩みが続いている。

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