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ピアスト朝 ピアストちょうPiastowie

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ピアスト朝
ピアストちょう
Piastowie

ポーランドの初代王朝 (9~14世紀) 。クラクフ地方のウィシラーニェ,グニェーズノを中心としたポラーニェ族を統合した農民出身のピアストが伝説上の創始者とされ,次にシェモートウィト,レストコ,シェモムイシウらが続いた。 10世紀中頃,シェモムイシウの子ミエシコ1世の統治時代にクヤーウィやマゾフシェ地方にも勢力を拡大し,神聖ローマ帝国との友好関係の強化とキリスト教 (ローマ・カトリック) の受容などによってポーランド建国に貢献。ポラーニェ族の統治者はのち全ポーランド支配を実現し,中世の数世紀間はポーランド公家と称され,17世紀以降は「ピアスト家」という名称で呼ばれた。ミエシコの長子ボレスワフ1世 (勇敢王) の国家統一後はクラクフを中心としたマウォポルスカ地方を拠点に国家統合と発展を推進し,次王カジミエシ1世 (復興王) は一時王位を追われたが,ドイツ諸侯と結び,1039年頃ポーランド国土の再統一を実現した。しかしボレスワフ3世 (唇曲王) の治世中,国土は分割され,その子ミエシコ3世 (老王) は再度中央集権体制の復活を企図したが,成功せず,次王カジミエシ2世 (公正王) にいたって一公国の地位にまで衰退した。 14世紀カジミエシ3世 (大王) 没後に断絶をみた。この家系はマゾフシェ地方では 16世紀,シロンスク (シュレジエン) 地方では 17世紀まで存続した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ピアスト朝
ぴあすとちょう
Piastowie

中世ポーランドの王朝。伝説によれば、ピアストという農民がポラニェ人の首長となり、諸部族を統合して王朝を創始したといわれる。史料で確認できる最初の君主はミェシコ1世Mieszko (在位960ころ~992)で、彼の代にキリスト教を受容し、ドイツ人の進出に対抗するため国家を教皇の保護下に置き、その子ボレスワフ1世は領土を拡大し、晩年国王の称号を得てポーランド国家の基礎を固めた。その後、ピアスト朝の諸公への分領によってポーランドは分裂状態に陥ったが、ウワディスワフ・ウォキェテク(ウワディスワフ1世)によりふたたび統合された。その子カジミェシュ3世(大王、在位1333~70)の死後、ピアスト朝の直系は絶えたが、傍系の子孫が、マゾフシェ公国には1526年まで、シロンスク(シュレージエン)には1675年まで公として存在した。[安部一郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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