ピット小(英語表記)William Pitt

改訂新版 世界大百科事典 「ピット小」の意味・わかりやすい解説

ピット[小]
William Pitt
生没年:1759-1806

イギリスの政治家。ウィリアム・ピット(通称大ピット)の次男で,小ピットと通称される。1781年下院議員に選出され,ホイッグ党系の野党シェルバーン派(元来大ピットを指導者とし,チャタム派ホイッグと呼ばれる)に所属。82年7月シェルバーン伯政権の蔵相に抜擢ばつてき)されるが,同政権は1年も続かず,アメリカ独立戦争の講和条約はポートランド公を首相に担ぐフォックス=ノース連立政権の手によって調印された(1783年9月)。しかしこの連立政権はジョージ3世の反発を買って総辞職に追い込まれ,83年12月わずか24歳のピットが首相兼蔵相に任命される。発足当初,ピット政権は下院に十分な支持基盤をもたなかったが,翌84年の総選挙で勝利を得てからは,ジョージ3世治下で最も安定した政権を実現させる。

 ピットは議会改革法案の成立には失敗(1785)したが,財政改革を企て,86年国債の償還をはかるために減債基金制度を発足させた。また彼自身アダム・スミスの自由貿易論に共鳴して,輸入関税の引下げをはかり,英仏通商条約を締結(1786)した。しかし政治家ピットの真価は,フランス革命の勃発に続くヨーロッパの大動乱に直面して発揮された。

 ピットはかつて七年戦争時代に父親が実践して大きな成果をあげた戦略を踏襲し,大陸での戦闘には同盟諸国への軍事援助金の提供以外はできるかぎり介入せず,もっぱら優勢な海軍力による本土防衛と敵国の海外通商拠点あるいは植民地の攻略に重点をおいた。しかし彼の肝いりで93年に結成された第1次対仏大同盟は,予想外に強力なフランス共和国軍の反撃にあって敗北と瓦解を余儀なくされ,98年に再編成された第2次大同盟もナポレオンの軍事力に圧倒され,戦局は泥沼化した。その間国内では,フランス革命に共鳴する急進主義的な結社の言論活動が,議会外の民衆運動として広範に展開するが,議会内では革命の過激化への反発が強まり,94年以降ピット政権に対抗する野党はフォックスの率いる数十名のホイッグ残党のみとなる。ピットは急進主義運動を強力に取り締まり,所得税の新設(1798)によって戦時財政をまかない,1800年にはアイルランド合併を断行する。カトリック解放法案の提出をめぐって国王の支持が得られずに,01年いったん下野するが,アミアンの和約によるつかのまの平和(1802-03)が破れて戦争が再開すると,第2次政権を樹立(1804)して,05年第3次対仏大同盟を結成。同年トラファルガーの海戦でネルソン提督が輝かしい勝利をおさめたが,その直後のアウステルリッツの戦における露墺連合軍の惨敗はピットを大いに落胆させた。翌06年病気により没した。

 対仏大同盟の立役者としてのピットの課題は未達成に終わってしまったが,国内政治においては彼は近代的政党あるいは内閣首相制度の発展史上,重要な役割を果たした。ピットが政権の座についたこの激動期に18世紀のホイッグ,トーリー両党は再編成され,19世紀のトーリー党はピットと彼の率いる政治家集団を源流として新たな展開を遂げる。そして内閣首相の主導権を最初に自覚的に発揮したのもピットであった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のピット小の言及

【ジョージ[3世]】より

…しかしそれまでの間に,首相以下議会寡頭政治家の手にわたっていた官職推挙権は,その大半が国王のもとに奪回されたといわれる。王がフランス革命とその後の対仏戦争を少壮気鋭の首相小ピットの内閣(1783‐1801,1804‐06)のもとで迎えたことは幸運だった。王の全面的な信任を受けて議会内に再建トーリー党の支配を実現させたピット首相のもとで,責任内閣制度はほぼ確立したといえよう。…

※「ピット小」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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