翻訳|Tory Party
イギリスの保守党の前身。ピューリタン革命期の王党派にその起源を求めることもできるが,通常は1670年代末に国王チャールズ2世の後継者をめぐる対立のなかで,血統による王位継承と国王大権とを擁護しようとした党派をさす。彼らは,カトリックに傾斜しつつあった王弟ヨーク公(のちのジェームズ2世)を王位継承から排除しようとする野党ホイッグ党に対抗した。トーリーという名称はアイルランドの追剝の名をとって反対派が名づけたもの。その有力な支持基盤は在地の地主層とロンドンの特権商人層で,宗教的には英国国教会の支持者であった。
1685年に即位したジェームズ2世が公然とカトリックに改宗し,フランスの支援を得て専制政治の復活を企てると,トーリー党も国王支持を断念,ホイッグ党と結んでオランダのオラニエ公ウィレム招聘に踏み切り,両者の協力の下に名誉革命を成功させた。しかし,オラニエ公をウィリアム3世として即位させることには抵抗を示し,これを摂政にとどめようとしたが失敗。トーリー党の一部はウィリアムの王位を認めず,ジェームズ2世またはその子と孫を呼び戻す工作をつづけた。これらの人びとをジャコバイトという。一方,党内にはウィリアムの王位を認める人びとも現れ,ウィリアム3世の後を継いだアン女王のもとで,一時党勢を回復した。アン女王の死後成立したハノーバー朝に対しては,これを認める人びとがしだいに党の大勢を占めるにいたり,彼らはハノーバー派トーリーといわれる。しかし,ハノーバー朝のジョージ1世即位の翌1715年,ジャコバイトの反乱が失敗したことも手伝い,トーリー党は完全に押さえこまれ,以後60年代までホイッグ党の優位がつづいた。60年にジョージ3世が即位し,62年にビュート伯が首相に任命されてからトーリー内閣が復活する。これは,トーリー党の勢力回復というよりは,ホイッグ党の内部が保守派と改革派とに分裂し,保守派がトーリー党に接近したためであって,むしろ政界再編成というべきものである。以後,アメリカの独立,フランス革命などの影響で急進主義が高揚すると,支配層はいっそう保守化し,ピットなどの指導下にトーリー内閣がつづいた。
1820年代から産業革命による工業の発展と自由主義思想の広がりの影響をうけ,トーリー党内部にも自由主義派が生まれ,リバプール内閣(1812-27)のもとで自由主義政策をとるにいたり,ホイッグ党との差はあいまいになった。30年グレー内閣の成立によりホイッグ党へ政権を譲り渡すが,このころからトーリー党という名称に代わって保守党という名称が用いられるようになる。
→保守党
執筆者:浜林 正夫
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イギリスの政党。保守党の前身。1680年ごろ、王弟ジェームズ(後のジェームズ2世)を王位継承者から除こうとする動きに反対した人々が、アイルランドの無法者を意味する「トーリー」Tories(単数形ではTory)の名でよばれたことに由来。国王への無抵抗、王権擁護の立場をとったが、カトリック教徒のジェームズ2世が即位後、国教制を破壊しようとしたため、王権の制限を主張するホイッグ党と協力、名誉革命を行った。地方の地主層を基盤とするトーリー党は、ホイッグ党による商人優遇策や非国教徒への寛容政策に反対した。1714年以降、外来のハノーバー王朝支持派と、それに反対するジャコバイト派に分裂し弱体化したが、ジョージ3世即位(1760)ののちは勢力を回復。とくに1780年代以降ピット(小)政権の与党として新たな発展を遂げ、フランス革命期には革命、改革の危険から「国教会と国王」を守る保守政党という性格を固めた。以後半世紀にわたり政権をほぼ独占したが、1820年代にはカニングなど党内自由主義派と保守派の対立が表面化し、30年には選挙法改正を主張するホイッグ党に政権を奪われた。このころからトーリー党は保守党とよばれ始めるが、「トーリー」の名も用いられている。
[青木 康]
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…正式名称=グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国The United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland面積=24万4792km2人口(1996)=5848万9975人首都=ロンドンLondon(日本との時差=-9時間)主要言語=英語通貨=ポンドPoundヨーロッパ大陸の西方に位置する立憲王国。正式の国名は〈グレート・ブリテンおよび北アイルランド連合王国〉で,〈英国〉とも呼ばれる。…
…また地理的には,スコットランド高地地方がジャコバイトの最有力地盤であった。トーリー党政治家たちの間にも,王位世襲の原則を逸脱し,君主に対する臣下の抵抗権を事実上発動させた名誉革命を是認できない者がおり,彼らがジャコバイトないしはその同調者となって,1701年のジェームズ2世の没後も,息子のジェームズ・フランシス・エドワード(イギリス史上老僭王と呼ばれる)とひそかに接触を保った。しかしながら,ジェームズ2世や老僭王がカトリック教を信奉し続けたこと,またルイ14世治下のフランスの助けをかりて復位を企てたことが,ジャコバイト勢力の拡大を阻む要因となった。…
…イギリスの場合,のちの保守党,自由党へと発展していくトーリー派とホイッグ派の対立は,17世紀に始まる。そして18世紀初頭のR.ウォルポールや,18世紀末から19世紀初頭のW.ピット(小)の活躍により,議会内の多数派が政権を担当する議院内閣制が確立するに至り,さらに1830年の総選挙でのトーリー党の敗北によって,50年ぶりにホイッグ党が政権に復帰し,32年の選挙法大改正前後のころから保守党と呼ばれるようになったトーリー党とホイッグ党の交互の政権担当により,〈議会主義の黄金時代〉が現出されることになった。この間に,ホイッグ党は,19世紀半ばころから自由党と呼ばれるようになるが,やがて19世紀から20世紀への移りめの時期における,労働者階級に基盤をおく政党の急速な台頭によって,イギリス政党制は新しい段階に入ることになる。…
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[言葉の成立と用語法]
保守主義という言葉は,フランスのロマン主義者シャトーブリアンが,1818年に自分の政治雑誌に《保守主義者Le Conservateur》と命名したのが最初の使用とされている。しかし一般化するのは,イギリスで1830年代初めに第1次選挙法改正問題をめぐって,その時のトーリー党の中で,それまでの旧弊固持者というイメージを脱して秩序ある変革の擁護者としてのイメージに転換するべきだと考える人々が,〈保守党〉という名前を提唱し,それが1834年以降正式の党名に採用されてからであった。イギリス以外のヨーロッパ大陸で保守を名のる政党が多く成立するようになるのは19世紀後半以降であるが,この言葉の元来のイメージは,イギリスも含めてそれら保守党のイデオロギーと結びついた政治的なものであった。…
…なお集権的な内務・警察機構や常備軍の発達が微弱だったことから,過激な対抗運動に対して実力弾圧の余地が少なく,かつ相対的に富裕で開明された貴族・地主には,買収や譲歩などの政治性の濃い対応余地の大きかったことが,保守党に柔軟な漸進主義を許容する土譲となった。 発生の直接起源は,選挙法改正要求に代表されるような改革運動の急進化のみならず,これに反発して過剰な現状維持に走る頑迷派トーリーにも対抗するため,E.バークの保守的政治哲学やフランスから輸入された〈保守の党parti conservateur〉の概念をよりどころに,R.ピールが中心となりトーリー党が保守党に再編された1834年にさかのぼる(もっともそれ以降もトーリーという呼称は保守党と同義で頻繁に用いられる)。46年の穀物法撤廃を契機に,ピールら党中枢議員と一般議員・農村支持層との対立が激化し,非ピール派の党本体は一時〈保護主義党Protectionist Party〉を名のって翌年の総選挙以降分裂が表面化する(非ピール派に近代保守党の起源を求める有力な見解もある)。…
※「トーリー党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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