フランスの昆虫学者、博物学者。『昆虫記』の著者として知られる。南フランスのサン・レオンに生まれ、生活は貧しかったが、勉学欲に燃え、昆虫に対する関心を抱いた。アビニョンの師範学校を卒業し、小学校教師となったが、その後もモンペリエ大学で物理学、数学の学士の資格をとり、コルシカ島の中学校物理教師、アビニョンの高校教師となった。家族も多く生活は苦しかったが、31歳のときに昆虫学者レオン・デュフールJean Marie Léon Dufour(1780―1865)のカリバチに関する論文を読んで感動し、本格的に昆虫研究を始めた。翌年にはツチスガリについての論文を博物学年報に発表、以後多くの論文を書いた。やがてアビニョンの博物館長に任命され、1868年にはレジオン・ドヌール勲章を受けるなど、やや安定した生活もあった。しかし、正統な教育を受けなかったファーブルは、官学派からの攻撃を受け、教会も彼の科学教育を非難し、その結果公職から退くことを余儀なくされた。それまで彼を支持したJ・S・ミルも死去し、愛息の一人を失うなど、つらい日々が続いた。しかしファーブルは昆虫研究の志を捨てず、1878年にセリニアンのアルマスに転居してからは昆虫観察に専念し、翌1879年から1910年にかけて不朽の名著『昆虫記』全10巻を次々と出版した。1908年ごろからはいっそうの貧窮に悩まされたが、哲学者ベルクソン、文学者F・ミストラルらが中心となって、国際的なファーブル救援の会が開かれ、フランス政府は勲章ならびに年金を贈った。ただしファーブルは、世界中から寄せられた救援金はすべて送り返した。1915年に92歳で没。その自然観察の方法と態度はその後の生物学に多大な影響を与えた。終生C・R・ダーウィンの進化論に反対したが、ダーウィンはファーブルを「たぐいまれな観察者」とよんで称賛した。
[八杉貞雄]
『J・H・ファーブル著、日高敏隆・林瑞枝訳『ファーブル植物記』(1984/2007・上下・平凡社)』▽『山田吉彦・林達夫訳『昆虫記』全20巻(岩波文庫)』▽『ルグロ著、平岡昇他訳『ファーブル伝』(1960・白水社/講談社文庫)』
ベルギーの美術家。アントウェルペン生まれ。『昆虫記』の著者ジャン・アンリ・ファーブルは彼の曽祖父に当たる。1970年代後半、アントウェルペンの王立芸術アカデミー、王立美術工芸学院でビジュアル・アートを学び、その後も同市を拠点に活躍する。1978年同市のヨルダエンシュイ・ギャラリーで初個展を開催したのを機に美術家として本格的な活動を開始。デウェー・アート・ギャラリー(東フランドル州オテルヘム)、ロニー・ファン・デ・フェルデ・ギャラリー(アントウェルペン)、ジャック・ティルトン・ギャラリー(ニューヨーク)などで多くの個展を開催する。初期のころよりベルギー現代美術の旗手として注目され、代表的作家の一人と目された。
ファーブルが初期のころより一貫してつくり続け、またすべての作品のベースとなっているのが青いボールペンを用いたドローイングである。そのドローイングは小さな紙片から室内の壁全体や城を覆う規模まで多様である。モチーフとしては動物、とりわけ昆虫を好み、青い画面の上に描かれたそれらの生物は独特な表現となっている。夜行性の昆虫から得たこれらのドローイングをファーブルは「青の時間」と呼び、「深い沈黙の短い時間、嵐の前の凪(なぎ)の時間であった、夜の生物が眠りについてから昼の生物がよみがえるまでの間である。この沈黙こそ私の表現したいものだ」とその目的と性格を述べている。また舞台演出も手がけるファーブルはドローイング作品と同じモチーフを演劇やオペラでも展開する。92年のドクメンタでは、ドローイング作品とオペラの両方が披露されたほか、大作『昇り行く天使たちの壁』(1993)はダンテの『神曲』をモチーフに選び、新たな展開を示した。
2000年にはワルシャワ博物館、ロンドン自然史博物館で個展が開催されるなど、21世紀を迎えてもその活動は精力的である。日本には92年(平成4)の「アナザーワールド――異世界への旅」展(水戸芸術館)で紹介されたのを皮切りに、94年には横浜ポートサイドギャラリーで、2001年には丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で個展が開催された。
[暮沢剛巳]
『「ヤン・ファーブル」(カタログ。2000・丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)』
フランスの詩人ラ・フォンテーヌの『寓話(ぐうわ)集』。三部、12書からなり、1668、78、94年発表。主としてイソップの動物寓話を美しいフランス語に移し換えたもので、ほかに自作の詩や、コントや、哲学談義を述べた詩もある。第二集には、インドの寓話作家ピルペイPilpayの寓話の改作も加わって、もっとも力が充実した詩が多い。全体はイソップ寓話と同じ処世哲学の教訓の詩がおもであるが、詩人は寓話詩のなかで、貪欲(どんよく)、エゴイズムなど人間の生来の悪癖を指摘したり、ルイ14世の宮廷や世相を風刺したりしている。彼はむしろ短い詩のなかで、人生についての自由な談義を楽しんでいる。その自然で清澄な詩句は完璧(かんぺき)な詩の技巧の作品であるといえる。
[河合 亨]
『市原豊太訳『ラ・フォンテーヌ寓話』全二巻(1951・白水社)』
フランスの昆虫研究家,博物学者。南仏アベロン県の寒村サン・レオンに貧農の子として生まれ,幼時より自然に親しむ。苦学の末,アビニョン師範学校を出た後,アビニョン小学校,コルシカのアジャクシオ中学,次いでアビニョン中学で教師をする。向上心の旺盛な彼は,向学心に満ち貧困の中にあって,独学で物理,数学,自然科学の学士号と理学博士号を取るが,大学教授の席は得られなかった。この間,植物学者ルキアン,博物学者モカン・タンドンに会い,博物学にしだいに集中していく。1854年,レオン・デュフールのフシダカバチに関する研究を読み,実地に調査した結果,昆虫の生活史と本能の研究という,おのが天職を知る。71年教職を退き,自然科学の啓蒙書(《子どものための科学の本》など)を書く。79年以降セリニャンのアルマスに隠棲して《昆虫記》10巻(1879-1910)を完成する。南仏の詩人ミストラル,ルーマニーユらとともにプロバンス語を深く愛し,《プロバンス語小品集》がある。《植物記》もある。
執筆者:奥本 大三郎
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1823~1915
フランスの昆虫学者。多くの昆虫,ことにクモ,ハチ,マグソコガネなどの生態を詳細に観察し,1879~1907年『昆虫記』10巻を刊行した。なお同書は各国語に翻訳されている。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…会話が多く用いられていて口演者が声色を使い身ぶりを交えて語ったことを推測させる。ファブリオーという名称は〈ちいさなファーブルfable〉という意味で,ピカルディーの方言形であり標準語(フランシャン)ではファブローfableauであるが,ベディエが北フランスに多いこの作品群をピカルディー方言形で呼ぶことを提案して以来ファブリオーというようになった。 ファーブル(寓話)は話の終りに寓意を示す道徳的格言をもつことが多いが,ファブリオーの末尾も教訓的格言をもつことが多い。…
…フランスの博物学者ファーブルの主著。全10巻。…
…アメリカでは全博物図鑑中の最大傑作といわれるJ.J.オーデュボン《アメリカの鳥類》がほぼ同時期に出版されている。一方,博物学書は文芸作品と同じ感覚でも鑑賞されるようになり,G.ホワイトの《セルボーン博物誌》を先駆けとして,J.H.ファーブル《昆虫記》やE.T.シートン《動物記》のような人気作品が書かれた。 20世紀にはいると博物学は,生物学プロパーというよりもむしろ専門家でない自然愛好者が手がける分野と考えられるようになり,記述の学あるいは自然観察の学の全般的衰退をみるに至った。…
※「ファーブル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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