翻訳|Philadelphia
アメリカ合衆国、ペンシルベニア州の最大都市。大西洋に開くデラウェア湾口から約150キロメートル上流の、デラウェア川とシュイルキル川の合流点に発達し、ニューヨーク、ボストンなどとともに合衆国の発展を担った歴史の古い港湾・工業都市である。人口151万7550、大都市圏人口618万8463(2000)。最盛期には200万を超えた人口は、20世紀後半に至って減少した。地名はギリシア語で「兄弟愛」を意味する。中心部はデラウェア川とシュイルキル川に挟まれた半島状の低地にある。旧市街はデラウェア川に沿って約35キロメートルにわたって北へ延び、河岸には櫛(くし)の歯のように埠頭(ふとう)が並ぶ。地形的にはアパラチア山麓(さんろく)が海岸平野と接する所に位置し、滝線(たきせん)都市の一つとして知られるほか、外洋船もここまでさかのぼることができる。北西部郊外は肥沃(ひよく)な農業地帯が開ける丘陵で、さらにピードモント台地へと続く。
豊かな農業地帯と炭田、高度な技術を備えた繊維・鉄鋼業を背景に、海陸の交通結節点という利点を生かし、18世紀末にはニューヨークと並ぶ商工業都市に発展し、1900年にはニューヨーク、シカゴに次ぐ全米第3位の大都市(人口129万)となった。同時に教育、芸術、音楽、科学など文化の中枢都市となり、伝統あるペンシルベニア大学(1740創立)やフィラデルフィア管弦楽団(1900創設)などもこの時期につくられた。偉大なるベンジャミン・フランクリンもこの地で活躍した。19世紀から20世紀前半までがフィラデルフィアの黄金時代であった。1876年の建国100年祭には主会場となり、シュイルキル河畔に180棟の展示館が建てられ、800万人の入場者を迎えた。テーマは、当時の工業技術と商業貿易を誇示するものであった。
港は世界最大の淡水港として知られ、世界の主要港と結ばれており、造船、繊維、衣料、食品、皮革など多様な工業が活気を呈した。第二次世界大戦後も工業化はますます多様化し、金属、機械、石油化学ではトップにランクされた。また、1950年には人口が史上最大の205万を記録し、依然として全米第3位にあった。20世紀後半から合衆国産業が太平洋岸や西・南部に分散する傾向を示すと、市の繁栄に陰りが生じ始めた。人口も減少に転じ、60年にはロサンゼルスに、81年にはヒューストンに抜かれ、1950年から82年までに約20%(40万人)の人口を失った。失業率も高くなり、港の貨物扱い高でも総トン数で15位、国際貿易では11位に低迷しており、産業の停滞は深刻な課題となっている。
独立戦争では主導的役割を演じ、1790年から10年間は合衆国の首都であった同市は、中心部の古い石畳の道路やれんが造の家並みに、歴史の重みを残している。インディペンデンス・ホール(独立記念館)は元州議会議事堂であり、独立宣言(1776)や憲法会議(1787)の行われたところとして知られ、自由の鐘が所蔵されているなど、観光の中心となっている。市の創始者ウィリアム・ペンの彫像を屋上にのせた豪華な市庁舎、音楽院、美術館なども黄金時代をしのばせる。1951年にジョセフ・クラークが市長になると、中心部のスラムの一掃と再開発が開始された。市庁舎の周辺に広い歩道と近代ビルのあるペン・センターが完成し、ビジネス都心に生まれ変わった。また、近代住宅も整ったため、郊外に移転した人々も戻り始め、この事業は大都市都心部の再開発の先駆として有名になった。しかし、都心部と郊外住宅を除く旧市街地の多くには、衰退した鉄道用地、工場、ドック、老朽住宅などが広く残り、フィラデルフィアは苦悩する現代アメリカ都市の典型といえる。
[伊藤達雄]
アメリカ合衆国ペンシルベニア州南東部,デラウェア川河口の都市。人口146万3281(2005)は同州最大で全米5位。ニューヨークを中心とするアメリカ・メガロポリスの拠点で,デラウェア川沿いには大規模な港湾施設が並び,国内有数の河港であり,衣服を中心に造船,石油精製などの産業が立地する。独立革命期の史跡をはじめ,ペンシルベニア大学,1874年開園の動物園,フィラデルフィア管弦楽団(1900創設)などが有名。フィラデルフィアとは〈兄弟愛〉という意味で,ペンシルベニア植民地の創設者W.ペンが命名した。クエーカー教徒を中心にして開拓され,植民地時代には人口約3万人を擁してロンドンに次ぐ大英帝国第2の都市であった。独立革命期には文字どおりアメリカの中心地として華々しい歴史をもち,独立宣言が採択され連邦憲法案が起草されたインディペンデンス・ホールIndependence Hallがある。第1回大陸会議が開催され,第1回連邦議会が召集されたのもこの地である。1790年から1800年までの間,ワシントンに移るまでのアメリカの首都であり,その後も合衆国銀行の所在地でアメリカの商業活動の中心地として繁栄した。1820年から60年までの40年間に人口が6万余りから56万強にまで増大した。76年には建国100年記念の万国博覧会が開かれ,明治政府も日本の工芸品を海外に紹介するために出品している。
執筆者:五十嵐 武士
パラグアイのチャコ地方の中央部にあるメノー派入植地の中心地。首都アスンシオンの北西約400kmに位置する。オランダ系を中心とするメノー派の人々はロシアからカナダを経て,新天地を求めてパラグアイに入植,1927年メノー,30年フェルンハイム,47年ノイランドの各入植地を建設し,当初6000人余りの入植者を数えた。フィラデルフィアは,それらの入植地の中で酪農の中心地として発展したもので,61年環チャコ・ハイウェーで首都と結ばれた。
執筆者:今井 圭子
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…アンマーンの名称は,聖書におけるアンモンの子孫が建てた都市ラバト・アンモンに由来する。ヘレニズム時代にフィラデルフィアと改称され,その後ローマ時代,ビザンティン時代はこの名称が用いられた。7世紀にビザンティン帝国の支配が崩壊したあと古代の名称が復活したが,その後衰退し,14世紀には遺跡が残るのみと記されている。…
…前582年バビロニアによって征服される。首都のラバト・アンモン(今日のアンマーン)はヘレニズム時代にフィラデルフィアと呼ばれた。【池田 裕】。…
※「フィラデルフィア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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