フィレンツェ共和国(読み)ふぃれんつぇきょうわこく

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イタリア中部の都市フィレンツェの前身で、1532年まで存在した都市国家。11世紀後半、有力市民による自治組織があったが、コムーネ(自治都市)の成立は1123~25年のころとされる。この時期の執政官(貴族)が1193年司法長官(外国人貴族)にかわり、1250年には市民総監が新設されるなど、貴族に対する商人・職人の力が強まった。1282年の憲法改正で共和国政体の基礎が築かれ、93年の「正義の規定」で貴族は厳しい規制を受けた。この10年間がフィレンツェ共和国の成立期と考えられる。

 時代により多少変更があるが、政府執行部は同業組合(その数は大組合と小組合とで17~21)から選出される代表委員(6~9名で任期2か月)により構成され、うち1名が「正義の旗手」、すなわち統領となった。法案は二院の議会で審議・議決され、とくに重大な決定にあたっては総議会、すなわち有権者全員の会議が招集された。1342年アテネ公グアルティエーリが終身統領となり、共和制が脅かされたが、彼は1年足らずで追放された。1378年、毛織物工業の下層労働者が起こした「チョンピの乱」の直後、政治参加基盤が広がったが、その後は大組合中心の傾向が強まり、領地拡張戦、市内での政争を通じて大商人による寡頭支配が進んだ。その頂点が1434年のコジモ・デ・メディチによる政権奪取である。以降1494年まで、フィレンツェ共和国の歴史はメディチ家の歴史とすらいいうる。コジモの孫ロレンツォ・イル・マニフィコ(1449―92)などは内外で君公同然の処遇を受けた。彼の死後、同家は追放され(1494)、サボナローラの主導で民主化が行われたが、この修道僧の処刑(1498)後、寡頭政治に戻り、1502年にはベネチアのドージェ(最高執政官)を手本に終身統領制が敷かれた。1512年メディチ家がフィレンツェに復帰、憲法が廃止されて共和制は一時とだえるが、27年再度メディチ家が追われ、共和国が復活した。しかし1530年、フィレンツェはスペイン軍と教皇軍に包囲され陥落した。1531年、メディチ家のアレッサンドロが首長の座につき、その地位は世襲制となり、翌32年、彼がフィレンツェ公に叙され、フィレンツェ共和国は消滅、公国となった。

[在里寛司]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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