改訂新版 世界大百科事典 「フトゥッワ」の意味・わかりやすい解説
フトゥッワ
futuwwa
元来は〈若者らしさ〉〈寛大さ〉を意味するアラビア語で,ムルッワ(男らしさ)の対概念として東方イスラム世界に広く用いられた。10世紀以後になると,これに各種の宗教結社や職業集団の意味が加わり,その語義は多様化した。
初期イスラム時代には,ジャーヒリーヤ時代の伝統を受け継ぎ,高貴で,しかも勇敢な若者をファターfatāと呼んだが,アッバース朝中期ころになると,都市の民衆の間からフトゥッワの徳を理想とするフィトヤーンあるいはアイヤールなどの任俠無頼の徒(俠客)が現れた。フトゥッワは,〈宗教の一房〉といわれるように,イスラム信仰においても重要な徳目とされ,またアラブ騎士道の精神的支柱でもあったから,異民族のマムルーク騎士もポロの競技を通じてその修得に努めた。
アサビーヤは砂漠の遊牧民ばかりでなく,都市においても集団結成の基本原理として機能していたが,これらの集団員にはフトゥッワに従う者であるとの自覚があった。このことからやがて職業や宗派別の集団をフトゥッワと呼ぶ慣行が生まれ,12世紀後半のバグダードにはこの種の集団・結社が五つあったといわれる。アッバース朝カリフ,ナーシル(在位1180-1225)はこれらのフトゥッワを統一して,ウラマー,軍人,高級官僚などをこれに帰属させることにより,かつてのように強大なカリフ権の復活をもくろんだ。その野心的な試みはモンゴル軍のバグダード侵入によって無に帰したものの,ナーシルの理想は小アジアのアヒー(兄弟団)に受け継がれ,13~14世紀へかけて特定の守護聖者をまつる宗教的職業ギルドが多数形成された。一方,このころになるとタリーカ(神秘主義教団)の結成も盛んになり,スーフィーたちは,任俠を貴ぶアイヤールとは異なって,フトゥッワの精神を忍耐と寛容であると解釈し,その実践に努めた。手工業者の職業ギルドとタリーカとの具体的関係は不明であるが,フトゥッワを媒介として両者が緊密な関係にあったことはまちがいないであろう。
ナーシルのフトゥッワは,エジプトでは〈宮廷のフトゥッワ〉として存続した。マムルーク朝スルタンによって,カイロに擁立されたアッバース家のカリフは,バイバルス1世に〈フトゥッワの衣服〉を授け,また彼以後の歴代スルタンはアミールや外国の使節にこの衣服を授与するのがならわしであった。この慣行は15世紀ころまでには廃れてしまったが,しかし民衆レベルでのフトゥッワはその後も強固に生き続けた。オスマン帝国時代の職業ギルドがフトゥッワと呼ばれたこと以外に,18世紀末以降のエジプト,とくにカイロ市民の理想像とされるイブン・アルバラド(町の子)は,本来の意味でのフトゥッワとムルッワの持主でなければならなかった。これは外国人や農民にはない都市民の特徴であったが,その精神は現在でもなおカイロの下町気質として保持されている。
執筆者:佐藤 次高
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報