改訂新版 世界大百科事典 「俠客」の意味・わかりやすい解説
俠客 (きょうかく)
古代中国では,遊民層のあいだで剣を帯びて徒党を結び,私交に信義をつらぬき,親族知友を辱しめるものには必ず仇を報ずる人々を俠,遊俠,俠客といい,その気風を任俠という。任とは交わりに誠実で,利害生死を顧みずに人の窮境を救い,国禁を犯しても責任をもって人をかくまう意。墨子の学団に任俠の風が強く,孟嘗君(もうしようくん)などの戦国四公子が集めた食客にも多くの俠がおり,漢の高祖劉邦の勢力も遊俠集団を基礎にして成長した。権威を軽視しがちな俠客を法家は国家の害毒とし,統一帝国では抑えられるが,司馬遷は俠の信義を高く評価して〈遊俠列伝〉を立てる。《漢書》は反対に礼法を乱すものとして非難するが,任俠の風は自律的な民間秩序の形成源として生きつづけ,反権力と弱者保護の気風は国家権力と官僚政治の腐敗に反発する民衆に支持されて,《水滸伝》などの任俠的英雄に結晶するとともに,秘密結社にも継承された。
執筆者:川勝 義雄
日本
日本語の俠客は,俠気のある人,おとこ気のある人を意味する。近世に京都,大坂,ついで江戸など都市が繁栄すると,そこに〈かぶき者〉や奴(やつこ)(旗本奴,町奴)などといわれる無頼の徒が横行した。彼らは盟約を作り組を作って,その力を誇示した。江戸幕府は早期からその禁圧に努めた。中期ころからこれらを俠客と呼ぶようになり,歌舞伎等でも俠客物が上演され,とくに幡随院長兵衛は人気が高いが,それらは実体とは離れて美化されたものである。
執筆者:林 亮勝
イスラム世界
9世紀以後,イスラム世界の都市を中心にして活躍した任俠無頼の徒。アイヤール`ayyār,フィトヤーン,シュッタール,あるいはアフダースaḥdāthともいう。アッバース朝中期以降のイラクやイランでは,都市の民衆の間からカリフの補助軍に加わったり,富裕な商人や高級官僚の館を襲ったりするアイヤールの集団が現れ,とくに王朝の権力が弱まった10世紀と11世紀の前半には,一定の自治組織を確立して祭礼をとりしきり,また外部勢力に対抗して街区の防衛に努めた。これに対し,シリアやジャジーラのアフダースは,アイヤールと比べてより公共的な性格をもち,町の警察としての機能を果たすとともに,軍事政権の間隙を縫って行政権を手中にすることもあった。同時代のエジプトでは,アイヤールやアフダースの存在は知られていないが,マムルーク朝後期には,都市下層民のズアルzu`arがマムルークの補助軍を構成するようになった。しかし,ズアルが〈ならず者〉あるいは〈盗人〉の域を脱してフトゥッワと結びつくようになるのは,16世紀以降のことである。
アイヤールやアフダースは,アリーフあるいはライースと呼ばれる長を選出してその指導のもとに軍事力を組織し,財源確保のために市場の商人から保護料を徴収した。彼らはムルッワ(男らしさ)やフトゥッワを行動の規範とし,トルコ軍人と戦ったり,富裕者の財産を略奪したりする一方では,女性や弱者の保護を旨としていた。アイヤールが民衆の支持を受け,その長が町の名士としてふるまっていたことは,11世紀初めにバグダードのアイヤールの長が逮捕・殺害されたことに対して,スーフィーやカーッス(物語師)をはじめとする一般市民が抗議の暴動を起こしたことによく示されている。しかしこれらのアイヤールたちは,ハーラ(街区)間の抗争に走ることがしばしばあり,またスンナ派とシーア派とに分かれて党派心(アサビーヤ)をむき出しにすることも少なくなかった。10世紀に始まるイラクからシリア,エジプトへの人口流出は,アイヤールによって引き起こされた都市生活の混乱がおもな原因の一つであったという。
執筆者:佐藤 次高
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報