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フメリニツキー フメリニツキーKhmel'nitskii, Bogdan Mikhailovich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フメリニツキー
Khmel'nitskii, Bogdan Mikhailovich

[生]1595頃.チギリン?
[没]1657.8.16. チギリン
ザポロージエ (ウクライナ) ・コサックのヘトマン (首領) 。ポーランドで教育を受け,ポーランド軍とともにトルコ軍と戦ったが,ポーランド人総督と衝突して,ザポロージエコサックのもとへ行き,そのヘトマン (1648~57) となった。そこでポーランドの支配に苦しむコサックと農民を率いてポーランドに攻撃をしかけ,しばしば勝利を獲得したが,ついに敗れ,1654年ロシア皇帝アレクセイ1世に保護を求めるにいたった。ロシア軍はそれを受けて,ポーランドと戦い,ウクライナ (ドネプル川左岸) はポーランド支配から脱することができたが,自治の夢は実現されず,代ってロシアによる支配が漸次確立された。

フメリニツキー
Khmel'nitskii

1954年までプロスクーロフ Proskurov。ウクライナ西部,フメリニツキー州の州都。首都キエフの西南西約 280km,南ブーグ川上流部にのぞむ。 15世紀後半から知られ,1795年市となった。変圧器,トラクタ部品,鍛造・プレス機などの製造業,食品工業 (砂糖,乳製品,食肉) ,縫製,製靴などが主要工業である。工科大学交響楽団,郷土博物館などの施設をもつ。鉄道の要地で,リボフオデッサ間,チェルノフツイコロステン間の鉄道が交差する。人口 24万 5000 (1991推計) 。

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世界大百科事典 第2版の解説

フメリニツキー【Bohdan Mikhailovich Khmel’nitskii】

1595‐1657
17世紀半ばに起こったウクライナ・コサックのポーランドに対する独立戦争の指導者。チヒリン(ロシア語ではチギリン)の古いコサックの家に生まれ,キエフのモヒラ・アカデミーで教育を受けた。1647年チヒリンにあった領地がポーランド軍に襲われたため,フメリニツキーはザポロージエのコサックの本営に逃げ,ポーランドに対する反乱をコサックに呼びかけた。48年ザポロージエのコサックとこれに協力したクリム・ハーン国の軍を率いて北上し,コルスンの戦でポーランド軍を破った。

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