改訂新版 世界大百科事典 「フメリニツキー」の意味・わかりやすい解説
フメリニツキー
Bohdan Mikhailovich Khmel'nitskii
生没年:1595-1657
17世紀半ばに起こったウクライナ・コサックのポーランドに対する独立戦争の指導者。チヒリン(ロシア語ではチギリン)の古いコサックの家に生まれ,キエフのモヒラ・アカデミーで教育を受けた。1647年チヒリンにあった領地がポーランド軍に襲われたため,フメリニツキーはザポロージエのコサックの本営に逃げ,ポーランドに対する反乱をコサックに呼びかけた。48年ザポロージエのコサックとこれに協力したクリム・ハーン国の軍を率いて北上し,コルスンの戦でポーランド軍を破った。これがいわゆる〈フメリニツキーの乱〉の始まりである。ポーランド軍を破ったフメリニツキーはクリスマスの日にキエフに凱旋し,民族の解放者,正教信仰の守護者として市民の歓迎を受けた。しかし50年のベレステチコの戦でポーランド軍に敗北した彼は新たな同盟者として新興の正教国ロシアと交渉を開始した。54年モスクワのツァーリ,アレクセイとウクライナ・コサックの代表としてのフメリニツキーの間にペレヤスラフ協定が結ばれた。コサックはその自治を維持しつつ,ロシアのツァーリの宗主権を認める内容であった。フメリニツキーは57年病のためチヒリンで死亡した。シェフチェンコ,フランコ,ルイレーエフその他の多くの作家や詩人が,フメリニツキーの乱に題材をとった作品を残している。現在キエフ市内のフメリニツキー広場には馬上の像があり,ウクライナ西部には1954年以来フメリニツキー州が設けられている。なお,ロシアではボグダン・フメリニツキーと呼ぶ。
執筆者:中井 和夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報