フランシスコ会(読み)フランシスコカイ(その他表記)Franciscan Order

デジタル大辞泉 「フランシスコ会」の意味・読み・例文・類語

フランシスコ‐かい〔‐クワイ〕【フランシスコ会】

フランチェスコ修道会

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改訂新版 世界大百科事典 「フランシスコ会」の意味・わかりやすい解説

フランシスコ会 (フランシスコかい)
Franciscan Order

托鉢修道会の一つで,正称は〈小さき兄弟たちの修道会Ordo Fratrum Minorum〉。広義には分裂後独立したコンベントゥアル会カプチン会をもふくむ。アッシジフランチェスコの福音遵奉精神にひかれて1209年ころアッシジ近傍のポルティウンクラに集まった11人の有志によって発足した。清貧と謙遜の心得を説いた簡潔な〈原初会則〉があったと推測されるが,原文は散逸して伝わらない。10年,彼らの理想と誠実な説教活動を高く評価した教皇インノケンティウス3世により口頭の認可をうけて修道生活を開始したが,フランチェスコには修道会創設の意志はなかったといわれる。この年以後39年の修道会組織構成までの時期は,西欧諸国にわたる会員の激増(13世紀末までには約3万人となる),女子修道会(第二会またはクララ会,1212年)と第三会(平信徒の信心会,1227年)の併設,〈第二会則Regula bullata〉の起草をふくむ組織化の進展などをみた発展期であった。23年会の保護者ウゴリノ枢機卿らの手になる,フランチェスコの精神を根底にした新会則が,教皇ホノリウス3世の教書によって認可され,動産・不動産いっさいの財産取得・所有の禁止条項を盛りこんだ托鉢形式の福音活動が実践されることになった。

 フランチェスコは26年病苦とキリストの神秘の〈まねび〉の内に没したが,彼の人格を慕う無数の弟子たちは灰色の頭巾つき修道服に帯ひもをしめ,はだしにサンダルをはいて苦行にちかい質素な生活を送りながら活動の規模をひろげていった。海外布教にも身を挺し,フランチェスコ自身がエジプトにおもむいた(1219)のをはじめ,リュブリュキのギヨームGuillaume de Rubruquisがモンゴルに派遣される(1253-55)など多くの会員が異教の地で宣教師として活動した。日本にも1593年(文禄2),ペドロ・バプティスタが来て布教を開始した。その後〈第二の創立者〉とよばれるボナベントゥラが第8代総会長在任中(1257-74),フランチェスコの遺志をめぐって争われてきた〈清貧論争〉に中庸の道が示され,説教活動とならんで神学・哲学の研究や大学教育への参加がこの修道会の社会的指導力を高めた。次の世紀にかけて会員中からドゥンス・スコトゥスオッカム(ウィリアム・オブ・オッカム)などの碩学が輩出する。他方,第三会の活動を通じて一般信徒の信仰にも強い影響を与え,〈自己聖化と隣人の魂の救済〉をめざす会則の精神の普及に成功したが,14世紀以降財産所有をめぐる〈厳格派〉と〈穏健派〉の対立は妥協の道を見失い,フラティチェリFraticelli,カプチン会などの分離派を生んだ。
執筆者:

インディアス発見当時フランシスコ会はドミニコ会と並んで多くの人員を擁し,活力に満ちた修道会だった。その内部には一種の終末論があって,同会士の布教への関心は従来にも増して熱っぽいものになっていた。周知のように同会はコロンブスの計画の良き理解者であり終始一貫熱心な支持者だった。コロンブスの帰還報告は同会士の間に大きな反響をよび,彼の2回目の航海には少なくとも2名のフランシスコ会士が参加,サント・ドミンゴ島でインディアス宣教の草分けとなった。1503年に最初の修道院がサント・ドミンゴ市に建ち,その2年後にはサンタ・クルス管区が設立されて同会士による宣教活動は恒久的な組織化への第一歩を踏み出した。

 同会士に限らないが,修道会の主要任務は原住民の教化改宗であり,その活動の場は必然的に中心地域から地方へ,そしてさらに辺境へと拡散していった。これは初期の段階だけでなく,インディアスのスペイン統治時代を通じてつねに認められる現象だった。今日のアメリカ合衆国のカリフォルニア,アリゾナ,ニューメキシコ等が,メキシコから北上するフランシスコ会士によってまずひらかれていったのはその好例である。ちなみに彼らのこうした辺境への進出がヨーロッパ文明圏の拡大をも意味した事実は忘れてはならない。インディアス宣教に関してはフランシスコ会はその先駆者であり,初期の混乱と試行錯誤の中で原住民の保護も含めてきわめて重要な役割を果たした。またその後の活動は数ある修道会の中でおそらくはもっとも広い地域に及んだ。こうしたフランシスコ会がインディアス史の中でもつ意味はおのずから大きく,アメリカ・フランシスコ会史学会Academy of American Franciscan Historyなる機関がワシントンにあって,その歴史研究を推進しているのも決して偶然ではない。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランシスコ会」の意味・わかりやすい解説

フランシスコ会
ふらんしすこかい
Ordo Fratrum Minorum ラテン語
Order of Friars Minor 英語

1209年、アッシジのフランチェスコによって創立された修道会。正式の名称は「小さき兄弟会」。当初はフランチェスコのもとに集まった11人の同志によって発足したが、この会の基本理念は、貧しいキリストの生涯を手本に、その福音(ふくいん)を使徒と同様に忠実に生き、ローマ教皇に従順を誓って、人々に神への回心を説くことにある。とくに貧しいキリストの生き方に倣って、会として個人としていっさいの所有権を放棄し、極貧のうちに手仕事で生計をたて、足りないところを人々の施与に頼ったところから、「托鉢(たくはつ)修道会」ともよばれる。粗衣に甘んじ、金銭を受け取らず、市井に小さな修道院を構え、諸国を行脚(あんぎゃ)しながら福音を伝えた。また、非キリスト教徒への伝道にも力を注いだ。

 フランチェスコの死後、会員数は1世紀間に3万を超えた。13世紀なかばに司祭修道会としての性格を強く打ち出すと同時に、学問の分野でもボローニャでパドバのアントニオ、パリでボナベントゥラの学者を輩出、オックスフォードではロバート・グロステートやロジャー・ベーコン、ドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・オッカムなどが出て、イギリス経験主義哲学の基礎を築いた。その後、会自体の刷新を図って多数の改革派が誕生したが、これらは「小さき兄弟会」「同コンベンツァル会」「同カプチン会」の三派に大別される。宗教改革時にも5万余の会員を数え、18世紀なかばには13万を超えた。1593年(文禄2)にはペドロ・バプチスタがわが国にも来朝、17世紀なかばまでに六十余名が伝道に従事し、そのほぼ半数が殉教(じゅんきょう)した。

 1986年現在の会員数は、第一会の場合、「小さき兄弟会」が2万0094、「同コンベンツァル会」が4091、「同カプチン会」が1万1879を数え、第二会の「クララ会」が1万6780、第三会の「律修会」は約1000、「同修道女会」は17万7000、「在世会」は220万となっている。なお日本でも、第一会が三派合同して約300人が活動している。

[石井健吾]

『石井健吾著『フランシスカニズムの系譜』(1979・中央出版社・フランシスコ会叢書)』

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百科事典マイペディア 「フランシスコ会」の意味・わかりやすい解説

フランシスコ会【フランシスコかい】

アッシジのフランチェスコを中心に発足(1209年ころ)した托鉢(たくはつ)修道会。正称〈小さき兄弟たちの修道会Ordo Fratrum Minorum〉,英語ではFranciscan Order.1223年教皇ホノリウス3世が財産の私有などを禁じた会則を認可した。清貧の精神を説き,布教,説教,教育,愛徳事業に従事。女子修道会(第二会。クララが創立),平信徒信心会(第三会)がある。14世紀以降,〈厳格派〉と〈穏健派〉に分裂,のちカプチン会も独立した。ボナベントゥラドゥンス・スコトゥスオッカムらが輩出,インディアスへの宣教でも知られ,日本開教は1593年,二十六聖人の一人スペイン人ペドロ・バプティスタによる。
→関連項目アウグスティヌスサンタ・クローチェ教会修道会

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「フランシスコ会」の解説

フランシスコ会
フランシスコかい

イタリアのアッシジのフランシスコにより1209年設立されたカトリック托鉢修道会。日本には1593年(文禄2)本会士バウティスタがルソン使節として渡来,京都に布教を開始したことに始まる。87年(天正15)にバテレン追放令が出されたなかで公然と布教活動を始めたため,96年(慶長元)サン・フェリペ号事件を契機に二十六聖人の殉教を引きおこした。また,それまでキリシタンの日本布教を独占していたイエズス会との間に紛争が続いた。1613年の伊達政宗による慶長遣欧使節派遣も,本会の画策であった。きびしい弾圧のなかで38年(寛永15)全滅。1907年(明治40)布教再開。

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世界大百科事典(旧版)内のフランシスコ会の言及

【アッシジ】より

…古代ローマ時代の繁栄は,ミネルバ神殿,円形劇場,フォルムなどの遺跡にしのばれる。しかし,町が知られるのは,フランチェスコがここで生まれ,彼とフランシスコ会ゆかりの聖所が町や近郊に残されているためで,イタリアの主要な巡礼地である。聖人の遺体を安置したサン・フランチェスコ修道院教会(1228‐53)は,上下2堂からなる独特の重層形式による,イタリア初期ゴシック様式を示す。…

【質屋】より

…しかし,この種の庶民金融は一般に短命で,いずれもたちまち破産した。これよりは,イタリアでフランシスコ会系の修道院が始めたモンテス・ピエタティスmontes(mons) pietatis(〈聖なる資金〉の意)のほうが,後世への影響が大きかった。喜捨や遺贈による資金をもとに無利子で,担保を取って少額の融資を行ったもので,15世紀後半から16世紀にかけて,イタリアや南ヨーロッパ一帯にひろく広がった。…

【修道院】より

…労働時間は1日6~8時間で農耕,植物栽培のような戸外作業だけでなく,製粉,パン焼き,台所作業,筆耕,掃除,病人看護などもあった。
[シトー会とフランシスコ会による革新]
 〈ベネディクトゥス会則〉はカロリング時代には広く普及したが,当時の修道院は西欧最初の文化創造運動であるカロリング・ルネサンスにも促進的役割を果たした。9世紀から10世紀にノルマン人(バイキング),マジャール人,イスラム教徒の攻撃で荒廃した修道院は,クリュニー修道院やロートリンゲン地方の修道院改革によって再び活性化し,11世紀後半のグレゴリウス改革にも貢献したが,12世紀以降は修道形態そのものを革新する。…

【托鉢修道会】より

…13世紀初めの西ヨーロッパで革新的なキリスト教信仰生活をめざした新形式の修道会の総称。フランシスコ会ドミニコ会カルメル会アウグスティヌス会などがこれに属する。これらの修道会は,中世初期以来のベネディクト会系の修道院が民衆から隔絶した場所に定住し,しかも有力信者からの寄進を受けて富裕化,世俗化したのに対して,その生活方式を根本的に異にし,個人・共同体ともに財産を所有せず信徒からの喜捨にたよる〈清貧〉の精神を重視した。…

【ラテン・アメリカ】より

…初期の熱っぽい宣教への意欲はその対象を失って後退し,代わって都市部を中心に司教または大司教を長とした教会の組織化が進んだ。この推移の中で初期宣教の主役を担ったフランシスコ会やドミニコ会などの修道士に代わって,司教以下の教区付聖職者がインディアス教会の主導権を握った。この間,両者は司牧権の移行をめぐって激しく対立したが,独立性の強い修道会を敬遠する王権が人事権をはじめ統轄のより容易な教区付聖職者に荷担したために,抗争の勝敗はおのずから明らかであった。…

※「フランシスコ会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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