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ブハーリン ブハーリン Bukharin, Nikolai Ivanovich

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ブハーリン
ブハーリン
Bukharin, Nikolai Ivanovich

[生]1888.9.27. モスクワ
[没]1938.3.15.
ソ連の政治家。教員の家庭に生れ,1906年ロシア社会民主労働党に入党。 11年流刑に処されたが流刑地からドイツに亡命,ウィーン大学に学んだのち,スイス,北欧,アメリカなどで活動,L.トロツキーとともに新聞『ノーブイ・ミール』を発行。

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デジタル大辞泉の解説

ブハーリン(Nikolay Ivanovich Bukharin)

[1888~1938]ソ連の政治家・経済学者。十月革命に参加。党中央委員、コミンテルン議長、「プラウダ」紙編集長として活躍。スターリンと対立して粛清された。

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百科事典マイペディアの解説

ブハーリン

ソ連共産党指導者の一人。若くして革命運動に入り,1911年に投獄されるが,脱走してウィーン大学で経済学を学んだ。《帝国主義世界経済》(1915年)などの論著はレーニンの理論にも影響を与えた。
→関連項目プレオブラジェンスキールイコフ

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世界大百科事典 第2版の解説

ブハーリン【Nikolai Ivanovich Bukharin】

1888‐1938
ソ連邦の政治家。モスクワの教師の家に生まれ,中学校在学中から革命運動に関係,1905年ロシア社会民主労働党に入党,ボリシェビキに属した。11年に投獄され,流刑地から脱走,ヨーロッパへ渡り,ウィーン大学で経済学を学んだ。しだいに亡命ボリシェビキの中で理論家として頭角をあらわした。15年《帝国主義と世界経済》を書き上げ,16年には論文《帝国主義国家の理論によせて》を脱稿,公表した。ともにレーニン帝国主義論,国家論に影響を与えている。

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大辞林 第三版の解説

ブハーリン【Nikolai Ivanovich Bukharin】

1888~1938) ソ連の政治家。「プラウダ」編集長、コミンテルン執行委員などを務め、理論家として影響力を発揮したが、スターリンに粛清された。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ブハーリン
ぶはーりん
Николай Иванович Бухарин Nikolay Ivanovich Buharin
(1888―1938)

ロシアの革命家、ソ連の政治家。モスクワで教師の子として生まれる。1905年革命の影響を受け、1906年にロシア社会民主労働党に入党、ボリシェビキに属した。1907年モスクワ大学法学部経済学科入学。1908年党モスクワ委員会の指導部に入り、逮捕と釈放を繰り返したのち、1911年にアルハンゲリスク県に流刑され、そこから西ヨーロッパに逃走した。ブハーリンはここでレーニンと接触して大きな影響を受け、理論家として頭角を現した。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)後アメリカに渡り、トロツキーらと反戦国際主義派の『新世界』紙を編集し、『帝国主義と世界経済』(1915)、『帝国主義国家の理論によせて』(1916)を執筆。これはレーニンの帝国主義論、国家論形成に影響を与えた。
 1917年の二月革命後、横浜経由で帰国し、モスクワの党とソビエトで活躍。第6回党大会で中央委員(~1934。その後1937年まで中央委員候補)に選ばれた。十月革命後は党機関紙『プラウダ』編集長。ブレスト・リトフスク講和条約締結問題をめぐる党内論争では、ドイツとの革命戦争を主張。またその後の社会主義建設路線をめぐる論争でも左翼共産主義者としてレーニンと対立したが、のち誤りを認めた。1919年のコミンテルン(第三インターナショナル)創設以来、その重職を占めるとともに『共産主義のABC』(プレオブラジェンスキーとの共著、1919)、『史的唯物論』(1921)などを著し、理論家として世界的な名声を博した。ネップ(新経済政策)期に入ると、農民との和解と漸進的な工業化による「一国社会主義」を主張、1924年に政治局員となり、スターリンと党内多数派を形成した。1927~1928年、穀物調達危機に際しての「非常措置」の導入や急激な工業化路線を主張するスターリンと対立、ルイコフ、トムスキー(1880―1936)らと「右翼反対派」を形成したが、1929年にはコミンテルンの役職や政治局から排除され、失脚した。
 1933年には自己批判し、政府機関紙『イズベスチア』の編集長に任命され、1936年の「新憲法」起草に大きな役割を果たしたが、大粛清のなかで1937年2月に逮捕され、1938年3月の公開裁判でファシズムの手先と宣告、処刑された。彼の名誉回復の動きはソ連時代からロシア国内でも広がっていたが、死後50年たった1988年、ペレストロイカに伴い、ソ連最高裁判所は国家反逆罪の判決を撤回、名誉回復がなされた。[藤本和貴夫]
『佐野学編『唯物史観』『帝国主義論』(1929、1930・白揚社) ▽救仁郷繁訳『ブハーリン著作選1 過渡期経済論――転形過程の一般理論』 ▽和田敏雄他訳『ブハーリン著作選2 経済学者の手記――新しい経済年度の開始によせて』 ▽佐藤博他訳『ブハーリン著作選3 世界経済と帝国主義』(1969、1970・現代思潮社) ▽S・F・コーエン著、塩川伸明訳『ブハーリンとボリシェヴィキ革命』(1979・未来社) ▽ロイ・アレクサンドロヴィチ・メドヴェーデフ著、石堂清倫訳『失脚から銃殺まで=ブハーリン』(1979・三一書房) ▽アンナ・ラーリナ著、和田あき子訳『夫ブハーリンの想い出』上下(1990・岩波書店) ▽ソ連司法人民委員部、トロツキー編著、鈴木英夫・菊池昌典訳『ブハーリン裁判』新装版(1991・鹿砦社)』

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世界大百科事典内のブハーリンの言及

【恐慌】より

… その後,トゥガン・バラノフスキーR.ヒルファディングは,固定資本の建設をめぐる需要と供給の変動やその建設に動員される貸付資本の過不足の変動をも考慮に入れながら,基本的には不均衡説的商品過剰論を主張する。これに対し,K.カウツキーN.ブハーリンは,マルクスの再生産表式の均衡条件が資本主義では不可避的な労働者大衆の消費制限によって破壊されざるをえないことを主張し,過少消費説的商品過剰論を説く。剰余価値の実現のためにかならず非資本主義的外囲が必要とされるとみたR.ルクセンブルクの資本蓄積論も,この系譜につらなる。…

【史的唯物論】より

…例えば,ロシア・マルクス主義の父と呼ばれるプレハーノフは,史的唯物論は〈学として現れうべき将来のあらゆる社会学に対するプロレゴーメナ〉であると規定し,社会哲学,ないし,社会諸科学・歴史諸科学に対する認識論的基礎部門として性格づける。これに対して,ボリシェビキきっての〈史的唯物論通〉と呼ばれたブハーリンは,〈史的唯物論はプロレタリア的社会学〉そのものであると規定し,哲学というよりもむしろ社会科学の次元に属するものと主張する。レーニンは,あるおりには〈史的唯物論がはじめて科学的社会学の可能性を創出した〉とプレハーノフに近い規定を与え,別のおりには史的唯物論を〈科学的社会学〉〈唯物論的社会学〉と呼んでブハーリンに近い規定を与えている。…

【ソビエト連邦】より

…この間スターリンはジノビエフカーメネフと協力してトロツキー派を抑え込むことに成功した。次いで一国社会主義論を採ったスターリンとブハーリンは提携して,ジノビエフ,カーメネフ派と争い,27年にはトロツキー派とも組んだこの合同反対派を完全に失脚させた。 この対立の背景には,経済が1926年に第1次大戦前の水準にまで復興し,ネップの漸進主義に対する不満が頭をもたげているという事情もあった。…

【ソビエト連邦共産党】より

…18年には,ブレスト講和問題や食糧問題をめぐって左派エス・エル党はボリシェビキ権力と対立したため,ここにボリシェビキの一党制が確立し,反革命軍や外国からの干渉軍との戦いが本格化する戦時共産主義期を迎えた。
[レーニンの死の前後]
 このころ党内には単一社会主義政権支持者やブハーリンら左派共産主義者,民主的中央集権派らの分派・グループがあったが,戦時共産主義期の終りの第10回党大会(1921)を前に,〈労働組合論争〉を契機として,三つの分派と多くのグループにまたがる厳しい党内論争が展開された。このためレーニンらは一時的に分派の禁止と党員の除名に関する決議によってこれを抑えるとともに,労働者反対派を公に非難した。…

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