日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ベルリーナー・アンサンブル
べるりーなーあんさんぶる
Berliner Ensemble
ドイツの国立劇場。1949年、亡命から帰ったブレヒトが妻のヘレーネ・ワイゲル主演で『肝っ玉おっ母とその子供たち』を上演、その成果によって新しい劇団結成を認められ、同年秋から東ベルリンのドイツ座と同居の形で活動を開始した。ブレヒトの作品を数多く上演して、彼の演劇理念を舞台化した。演出家エンゲル、俳優ブッシュなどが中核となり、ブレヒトの薫陶を受けた多くの若手演出家や俳優が育っていった。54年にシッフバウアーダム劇場を本拠として与えられ、その舞台は国際的な注目を集めた。ブレヒトの死(1956)後も、パリッチュ、ウェクウェルト、ベッソンなどの中堅演出家、カイザー、シャル、ターテなどの俳優陣が水準の高い舞台をつくって、ブレヒトの遺産を継承した。70年に創立メンバーが多く劇団を去り、女性演出家ベルクハウスが代理監督に招かれた。ワイゲルの死(1971)以後、監督となったベルクハウスの形式的実験に走りすぎる方向が顕著になったが、77年にウェクウェルトが監督として復帰、テンシェルト、シャルを中心として第4期の活動に入った。この時期は演目も多彩となり、ブラウン、ザイデルのような作家、トラーゲレーン、シュレーフのような演出家が生まれた。
ドイツ統一後は、ウェクウェルトが退陣し、また公立劇場の統廃合が行われるのを見越して、有限責任会社制をとった。総監督も五頭制をとり、ラングホフ、ハイナー・ミュラー、パリッチュ、ツァデーク、マルクヮルトが交替で代表になる案を実現したが、1993年には辞任者が出て、ツァデークが退いたあと、喉頭(こうとう)がんの手術後に復帰したハイナー・ミュラーが単独で監督に就任し、ブレヒト、シェークスピアと自作を柱とする活動方針を打ち出し、ウートケ主演でブレヒトの『アルトゥロ・ウイの興隆』のすばらしい舞台をつくった。一方自作『ワイマールの西ドイツ人(オッシー)』がベルリーナー・アンサンブルで上演されたが、その演出家シュレーフに抗議していた劇作家ホーホフートが、ベルリーナー・アンサンブルの土地所有権を奪われていたユダヤ人の権利を代行するという問題が起こった。そういう混乱のなかで、ベルリーナー・アンサンブルの新たな中核と期待されたハイナー・ミュラーが95年末に死亡。96年に俳優ウートケが総監督に就任したが、ベルリン州政府の援助金が少なすぎることに抗議して辞任、監督の大空位時代を迎えた。しかし98年のブレヒト生誕100年の催しを乗り切り、その間にブルク劇場の総監督で力量ある演出家であるパイマンを総監督に迎えることを決定した。99年からパイマンの時代がスタートしたが、彼はシェークスピアの『リチャード2世』などで、ベルリーナー・アンサンブルの新路線を期待させている。
[岩淵達治]