改訂新版 世界大百科事典 「叙事演劇」の意味・わかりやすい解説
叙事演劇 (じょじえんげき)
Episches Theater[ドイツ]
しばしば〈叙事的演劇〉とも訳される。なお,これを〈叙事詩(的)演劇〉と訳す場合もあり,言葉だけからいえばそのような訳も可能ではあるが,〈叙事詩〉の語が強く古典的な文学上の概念そのものを想起させるので,以下に述べるようなこの演劇理念の本意を考えるならば,〈叙事詩(的)演劇〉の訳語はふさわしいとはいえまい。
Episches Theaterという言葉は,1920年代に従来の感情移入に基づいた〈劇的〉な演劇では扱いきれぬ政治的な主題を扱うために,E.ピスカートルの叙事的要素への注目に刺激されたB.ブレヒトが,自己の演劇を特徴づけるために意識的に用いるようになったものである。〈非アリストテレス的演劇〉という言い方も使われるが,これは別に具体的にアリストテレスの演劇論に反対するというのではなく,アリストテレスを淵源とする総体としての伝統的・従来的ヨーロッパ演劇をさして,それを否定するという意味合いのものであった。
事件がいま現実に行われているように錯覚させる〈劇的〉な演劇は,観客を情緒的に舞台に巻き込んでしまうが,事件を物語的,実地教示的に,特定の強調を施して再現する叙事演劇は,観客に舞台から批判的な距離をとらせ,内容について熟考し,認識するきっかけを与える。その手段として,いわゆる異化効果が使われ,身ぶりが重要な意味をもつ。また,叙事化の手段として,字幕,幻灯,ソング,口上なども,劇の流れを中断したり解説するために使用された。〈劇的〉な戯曲が幕構成をとるのに対して,叙事演劇では小場面をつないだ構成が好まれるが,これは複雑な世界像をとらえるために,三統一の法則に忠実な戯曲よりも戯曲の扱う次元を拡げるために行われるのであり,単に場数の多い,筋を絵巻物的に追ってゆく劇とは違う。叙事演劇の各場は独立しており,事件は飛躍的に進むので,例えば前の場で始まった事件は,その過程をいちいちたどることなく,次の場ではすでに結末として次の事件の発端を作る,というような構成になっており,場合によっては一場をそっくり抜かしても,作品全体の構成が崩れることはない。
ブレヒトはオペラ《マハゴニー市の興亡》(1931)の注で,叙事演劇と〈劇的〉演劇とを項目に要約しながら比較対照している。たとえば,〈観客の活動力を消費する〉(〈劇的〉)に対して〈観客の活動力を鼓舞する〉(叙事),〈変わることのない人間〉に対して〈変わりうる,また変わりつつある人間〉,〈思考が存在を決定する〉に対して〈社会的存在が思考を決定する〉などであるが,観客や読者が〈叙事(詩)〉の語の元来の意味などにも引きずられて,この演劇理念を必ずしも意図したように理解しない場合もあったので,晩年には,誤解を避けるために,〈弁証法の演劇〉という呼び方を使うことを考えていたといわれる。それは叙事演劇が,究極的には,形式の問題ではなく,社会の変革をめざすものだからであった。ブレヒトと親交のあったW.ベンヤミンは,この叙事演劇について,〈この舞台はもはや“世界の象徴としてのステージ”(つまり魔力の場)ではなく,有効に配列された世界の展示場である。その舞台にとって観客は,もはや催眠術をほどこされた被験者の群れではなく,局外者ではない人々の集団(彼らは舞台を通してみずからの要求をみたす)を意味する〉と語っている。
第2次世界大戦後,とくに演劇が著しい流動状況にあった1960年代には叙事演劇は国際的に大きな影響を与えたし,また今日においても,このブレヒトの理論と実践は,演劇の社会性を考えるうえで,大きな意味を持ち続けているといってよい。
執筆者:岩淵 達治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報