日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペルシア文学」の意味・わかりやすい解説
ペルシア文学
ぺるしあぶんがく
広義では古代ペルシア語、中世ペルシア語(パフラビー語)、近世ペルシア語による文学を意味するが、一般にはイスラム期におけるアラビア文字で表記される近世ペルシア語による文学をさす。古代の文献としてはササン朝時代に編纂(へんさん)されたアベスタ語によるゾロアスター教聖典『アベスタ』と古代ペルシア語の碑文などがある。
パフラビー文学については当該項目(「パフラビー文学」)を参照されたい。次に述べるのは近世ペルシア文学の歴史的展開と特色である。
[黒柳恒男]
沈黙の2世紀
7世紀のなかばにイスラム・アラブ軍に攻略されてササン朝が滅亡すると、イランはアラブの直接支配下に置かれ、9世紀なかばまで2世紀にわたりこの状態が続いた。この間アラビア語が行政語、学術語として用いられ、中世ペルシア語にとってかわって近世ペルシア語が生まれるが、これは実際には話しことばとして用いられたにすぎない。そこでイラン人学者たちもアラビア語で執筆し、イスラム文化形成に大きく貢献したが、ペルシア語による文献はいっさいない。政治的、言語的に独立性を失ったこの時代は「沈黙の2世紀」とよばれる。
[黒柳恒男]
黎明期
アラブの支配力が弱まり、イランのイスラム化が強化された9世紀なかばごろから、イランに地方王朝ながら民族王朝が相次いで樹立された。それら宮廷にペルシア詩人が現れ始め、幾たりかの詩人が活躍したと伝えられるが、断片的な詩が現存するだけである。しかし9世紀がペルシア文学の黎明(れいめい)期であったことは事実である。
[黒柳恒男]
ペルシア文芸復興
9世紀末から10世紀末までブハラに首都を置き、中央アジア、東部イランを支配した民族王朝サーマーン朝は民族文化振興政策をとった。そしてペルシア詩人の保護奨励に努めたためペルシア文学は非常に栄え文芸復興期を迎える。この時代の文学の特色は宮廷貴族文学としての頌詩(しょうし)と民族意識に基づく民族叙事詩で、それぞれの分野に大詩人が現れた。ペルシア詩人の父ルーダキーと大民族詩人フィルドウスィーがその代表的存在である。この時代、ペルシア古典詩の主流を形成するホラサーン・スタイルの基礎が築かれた。
[黒柳恒男]
古典黄金時代 11~15世紀
11世紀以降15世紀末まで長年月にわたりイランはトルコ系、モンゴル系など異民族に支配されたが、これら支配層はイラン文化に同化され、ペルシア詩人を保護したので、ペルシア文学はますます隆盛した。11世紀前半ガズナ朝スルタン、マフムードの宮廷には400人もの宮廷詩人が仕えたと伝えられ、ウンスリーをはじめ三大詩人が頌詩の分野で活躍し、ホラサーン・スタイルを確立した。11世紀後半から13世紀前半におけるセルジューク朝、アターベク諸王朝の時代にペルシア文学、イラン文化は最盛期を迎え、ペルシア詩の領域は内容面で従来以上にはるかに豊かになった。この時代の特色として、アンワリー、ムイッズィーらセルジューク朝宮廷詩人のほか、地方王朝の宮廷詩人の活躍が顕著で、神秘主義が導入され、サナーイー、アッタールの二大神秘主義詩人がこの分野の基礎を築いた。サーマーン朝時代の素朴な表現に比べて、この時代には多くのアラビア語彙(ごい)が用いられ、文体が華麗になったのが大きな特色といえる。『ルバイヤート』の詩人ウマル・アル・ハイヤーミーが活躍したのもこの時代である。10世紀ごろ、ペルシア詩は中央アジアと東部イランに限られていたが、この時代にはイラン全域にわたってペルシア詩人が輩出。とくに西部のアゼルバイジャン地方ではハーカーニー、ニザーミーら優れた詩人により、ホラサーン・スタイルに対してイラク・スタイルによる詩作が行われた。
10世紀に詩とともに基礎が築かれたペルシア散文学も、この時代に隆盛期を迎え、さまざまな分野にわたり注目すべき作品が生まれた。13世紀後半から14世紀前半にかけてモンゴル軍の侵入、支配により一時的にペルシア文学は停滞するが、その後復活し、13世紀には二大詩人ルーミー、サーディーが現れ、歴史の分野でいくつかの優れた作品が数えられる。14世紀後半から15世紀末にかけてティームール朝時代にペルシア文学はしだいに衰えをみせる。しかし14世紀には最高の叙情詩人とうたわれるハーフィズが現れ、15世紀にはヘラート宮廷を中心に文化が栄え、古典時代の最後を飾るにふさわしい大詩人ジャーミーが神秘主義の分野で活躍、散文においても歴史書、詩人伝などが執筆された。
[黒柳恒男]
衰退時代
16世紀、国民王朝サファビー朝が創設されると、シーア派を国教に制定、政治面のみならず美術工芸の分野で栄えたが、ペルシア文学は王朝の政策とかみ合わず急速に衰退、この沈滞が18世紀末まで続いた。この間、インドのムガル朝宮廷がペルシア詩の中心となり、イランの詩人でインドに移住する者が続出、インド・スタイルという作風で作詩が行われるようになり、イランにも影響を及ぼした。
[黒柳恒男]
近・現代文学
19世紀カージャール朝の時代にカーアーニーら宮廷詩人によるペルシア詩の伝統が復活し、古典スタイルによる作詩が行われた。19世紀なかばからしだいに西欧思想、文学が導入され、とくに19世紀末から20世紀初頭の立憲革命運動時代には新聞が多く刊行され、啓蒙(けいもう)文学が盛んになった。その後ジャマール・ザーデ、ヘダーヤトらによって小説の基礎が築かれ、俗語を駆使した文学大衆化が叫ばれ、社会の下層階級をテーマとした多くの作品が現れた。詩の分野では愛国詩人バハール、女流詩人パルビーンらによる伝統的な古典詩スタイルを経て、ユーシージによる自由詩が注目を浴びるようになった。古典文学研究も20世紀の大きな特色である。1979年のイラン・イスラム革命後は革命を謳歌(おうか)した詩、イスラムに関する宗教文献が多く現れたが、注目すべき文学作品はまだ現れていない。
[黒柳恒男]
『黒柳恒男著『ペルシア文芸思潮』(1977・近藤出版社)』