ペルシア文学(読み)ペルシアぶんがく

改訂新版 世界大百科事典 「ペルシア文学」の意味・わかりやすい解説

ペルシア文学 (ペルシアぶんがく)

ペルシア語は,歴史的には古代・中世・近世ペルシア語から成るが,現在一般にペルシア語といえば,7世紀半ばにイラン(ペルシア)のササン朝がアラブ・イスラム軍に滅ぼされ,イラン全土が征服された結果,国教ゾロアスター教に代わってイスラムが台頭し,このイランのイスラム化に伴い成立した近世ペルシア語を指す。ここでは,ペルシア語の歴史に沿って,時代をイスラム以前と以後の二つに大きく分け,ペルシア文学の歴史とその特徴を概観する。

早くから文字を発達させ,膨大な量の粘土板を残したメソポタミア文明と接していながら,イランは長らく文字記録をもとうとしない国であった。イスラム以前のペルシア文学の特徴としてあげられることは,まず,(1)失われた文学であり,また内容的にすでに失われたものに関する文学であること,(2)碑文を除き,口承によって伝えられてきたために,内容が幾重にも重層し,その年代と作者が不詳なのがむしろ通例であること,さらに,(3)今日残されているものの大半が宗教文献であること,の3点である。以下,便宜上,時代的に古代イラン期(最初期よりアケメネス朝末),中世イラン期(パルティア期からササン朝を経て,アラブ支配初期の9世紀末まで)の2期に分けたうえで,宗教文学,非宗教文学のジャンル別に,主要作品のみを指摘することにする。

この期の文献で今日まで伝えられているのはごくわずかである。宗教文学としては現存するのはゾロアスター教の聖典〈アベスター〉のみである。この聖典に含まれる,ゾロアスター自身の手になる《ガーサー》(〈詩編〉の意)は,イラン語最古の文献であり,ホメロスの叙事詩や《リグ・ベーダ》と共通するインド・ヨーロッパ語の伝統的詩的技法を駆使した難解な韻文である。その年代についてはなお定説が得られておらず,前2千年紀半ばころから前7~前6世紀にわたる諸説がある。〈アベスター〉には,このほかに,同じく詩形をとり,内容的にはインド・イラン共通時代にさかのぼる,神々への賛歌集《ヤシュト》が含まれており,その一部にはササン朝下で《フワダーイ・ナーマグ》に集大成されることになる英雄叙事詩の素材が見られる。非宗教文学としては,アケメネス朝ダレイオス1世のビストゥン碑文ビストゥン)が,文字の形で残されているイラン最古の文献である。自分の即位の経緯と即位後の征服戦を記録している。すべて失われてしまっているが,この項で忘れてはならないのが,メディア王国や北方のスキタイ人たちの間に,口承の英雄叙事詩や神統記が存在していたという事実である。

この期の新しい傾向としては,(1)口承によって伝えられてきた〈アベスター〉をはじめとする,ゾロアスター教聖典の集大成化と文字化,(2)ギリシア語とサンスクリット文献の翻訳,が指摘できる。宗教文学としてまず取り上げるべきものは,《ブンダヒシュン(原初の創造)》と《デーンカルト(宗教の行為)》の2書である。ともに,当時のゾロアスター教聖職者階級の所有していた知識の集大成であり,とくに後者は,現存のパフラビー語(中世ペルシア語)文献中最大の量を誇る,一種の百科事典である。この項に入れてよいものに〈霊感・啓示文学〉がある。《アルダー・ウィーラーズ・ナーマグ(アルダー・ウィーラーズの書)》は,主人公がマング(大麻)の力をかりて,7日間天国・地獄・煉獄を巡り,因果応報の恐ろしさを説くもので,ダンテの《神曲》と比較対照される。啓示文学では,《ザンド・イー・ワフマン・ヤシュト(ワフマン・ヤシュト注釈)》や《ジャーマースプ・ナーマグ(ジャーマースプの書)》以下があり,この世の終末についての予言を含んでいる。

 非宗教文学としてまず〈教訓文学(アンダルズ)〉には,《ダーデスターン・イー・メーノーグ・イー・フラド(知恵の霊の判断)》,《パンドナーマグ・イー・ザルドゥシュト(ザルドゥシュトの忠告の書)》などがあげられる。珍しく詩形をとる《ドラフト・イー・アスーリーグ(バビロニアの樹)》のような,問答形式,謎解き形式のものも便宜上ここに含めることができよう。〈世俗文学〉には,サンスクリットより訳出された《カリーラとディムナ》,のちの《千夜一夜物語》に結びつけられる《シンドバード・ナーマグ(シンドバードの書)》,《ハザール・アフサーン(千の物語)》などがあった。同じ世俗文学でも〈歴史・伝記文学〉に属するものに,《フワダーイ・ナーマグ(王の書)》がある。フィルドゥーシーの《シャー・ナーメ》に基本的素材を提供したのは,本書であったと考えられている。伝記文学では,ササン朝の創始者アルダシール1世の出生から即位までを,伝統的モティーフを取り込みながら物語る《カールナーマグ・イー・アルダシール・イー・パーパガーン(パーパクの子アルダシールの行伝)》がよく知られている。吟遊詩人,宮廷詩人としてバールバドBārbad以下の名が伝えられているが,作品は残されていない。パルティア期に由来する英雄叙事詩《アヤードガール・イー・ザレーラーン(ザレールの回想)》は,彼らの手によって語り継がれてきたものである。

 以上のササン朝期の文献は,このほとんどがササン朝末,とくにアラブ支配下の9世紀に集大成,文字化されたものである。すでにこの頃には,パフラビー語は変質し,徐々に古典ペルシア語(近世ペルシア語)の様相を呈しだしていた。ゾロアスター教文献を中心として発達してきたペルシア文学の遺産は,そのまま10世紀以降の古典ペルシア文学に受容され,やがて豊かに開花することになる。
イラン神話
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アラビア文字で表記される近世ペルシア語は,1000余年の長い歴史を有し,数多くの優れた作品を生み,10世紀以降北インド,中央アジアからトルコに至る広大なペルシア文化圏を形成し,その地域の言語・文学に多大の影響を及ぼした。時代的には10~15世紀の古典文学時代(黄金時代),16~18世紀の衰退時代,19世紀から現代に至る近代文学時代に分けることができ,内容的には詩と散文から成るが,近代以前においては詩が主流を占めた。この時代区分に従って大きな流れをたどってみよう。

2世紀余のアラブ支配下にイランはイスラム化し,9世紀までには中世ペルシア語を母体とした近世ペルシア語が成立したとはいえ,当時,アラビア語が行政・宗教・文化・学術語として用いられ,ペルシア文学が台頭する余地はなかった。しかし9世紀前半にイラン東部ホラーサーン地方に民族系地方王朝が樹立されると,しだいにペルシア詩人が現れ始め,ターヒル朝,サッファール朝に仕えた詩人たちが名をとどめている。しかし9世紀は揺籃期で,10世紀にブハラを都として中央アジアとイラン東部を支配したサーマーン朝が民族文化政策を採り,ササン朝滅亡以来絶えていた宮廷詩人制度を復活させ,ペルシア詩人の保護・奨励に努めた結果,〈ペルシア文芸復興〉が起こり,この時代にペルシア文学の基礎が確立された。〈ブハラ宮廷の華〉とうたわれたルーダキーは10世紀を代表する大詩人で,頌詩(カシーダqaṣīda),叙事詩(マスナビーmathnavī),抒情詩(ガザルghazal),四行詩(ルバーイーrubā`ī)などペルシア詩の主要な詩形をすべて用いて作詩し,後世〈ペルシア詩の祖〉と仰がれた。この時代の大きな特色は宮廷詩人による頌詩と民族叙事詩の勃興で,ともに時代精神の反映であった。10世紀後半に先駆的詩人ダキーキーの後を継いで,イラン建国からササン朝滅亡に至る神話,伝説,歴史をテーマに作詩に着手し,30余年をかけて約6万句に及ぶ大民族叙事詩《シャー・ナーメ(王書)》を完成させたのがイラン最大の民族詩人フィルドゥーシーである。

 11世紀初頭から13世紀にかけてトルコ系ガズナ朝,セルジューク朝の支配が続いたとはいえ,これらの王朝も文化的には完全にイラン化してサーマーン朝以来の伝統的文化政策を踏襲したため,異民族王朝支配下においてもペルシア詩は隆盛の一途をたどり,11世紀前半ガズナ朝スルタン,マフムードの宮廷には400人ものペルシア宮廷詩人が仕えていたといわれ,桂冠詩人の制度が設けられ,ウンスリー`Unṣurī,ファッルヒーFarrukhī,マヌーチフリーManūchihrīらの頌詩詩人が活躍し,ペルシア古典詩の主流になった〈ホラーサーン・スタイル〉を確立し,アラビア語彙を多く採り入れて表現をさらに豊かにした。11世紀後半から12世紀前半にかけてのセルジューク朝支配時代にはペルシア詩は質量ともに最高潮に達し,宮廷詩人としてはムイッジーMu`izzīをはじめ,頌詩の最高詩人アンワリーが現れた。異端イスマーイール派を信奉した神学・哲学詩人ナーシル・ホスローや,ペルシア詩の代表詩人として世界的に有名な《ルバーイヤート(四行詩集)》詩人ウマル・ハイヤームが活躍したのもこの時代である。

 10世紀以来ペルシア詩人の活躍地域は保護者たる王朝の版図の関係上,中央アジアからイラン東部に限られていたが,11世紀後半からセルジューク朝の勢力拡大に伴い,ペルシア詩人の活動地域もしだいにイラン全域に広がり,とくにカスピ海西方地域アゼルバイジャン地方では,12世紀後半にホラーサーン派詩人と覇を競う優れた詩人たちが輩出し,アゼルバイジャン派詩人と呼ばれ,〈古典ホラーサーン・スタイル〉を脱して新しい〈イラク・スタイル〉を生み,ペルシア詩の発展に多大の貢献をした。同派の代表的な詩人は頌詩詩人ハーカーニーKhāqānīと,ロマンス叙事詩人ニザーミーで,とくに後者はロマンス叙事詩を完成させた最高詩人で,代表作として《ハムセ(五部作)》と呼ばれる長編ロマンス詩を作詩した。

 12世紀半ばから頌詩,叙事詩とともにペルシア詩の主流を占めるようになったのは神秘主義詩(スーフィー詩)である。中世イスラム世界の精神界で支配的影響をもつようになった神秘主義は,現世への欲望を断ち,自我を消滅して〈神人合一の境地〉への到達を究極の目的としたが,この境地や神への愛が最も情熱的・官能的に表現されたのはペルシア詩においてであった。サナーイーアッタールらの優れた神秘主義詩人がこの分野における基礎を築いた。

 13世紀前半からモンゴル族のイラン侵入が始まり,ペルシア文化は致命的な打撃を受けたが,文化的伝統は保持された。同世紀半ばから14世紀前半に至るモンゴル系イル・ハーン国時代には,同朝の政策により宮廷詩人は活躍の場を失って頌詩は著しく後退し,それに代わって世の不安・無常が痛感されるにつれて現世逃避,安心立命への願望が高まり,時代を反映して神秘主義詩がますます盛んになり,さらにこの時代に,それまで主として宮廷貴族文学であったペルシア詩は性格を大きく変え,都市庶民文学がしだいに台頭したが,その大きな表れが抒情詩の隆盛であった。13世紀を代表する二大詩人はルーミーサーディーである。神秘主義最高の詩人ルーミーの代表詩集《精神的マスナビー》は〈ペルシア語のコーラン〉とも評され,熱情的な神秘主義の抒情詩集も高く評価されている。サーディーは不朽の名作《薔薇園(グリスターン)》と《果樹園》を作詩した教訓詩の最高詩人として名高い。

 イル・ハーン国没落後,英雄ティムールの出現まで各地に地方王朝が栄えて宮廷詩人も復活したが,14世紀にシーラーズにおいて活躍した抒情詩の最高詩人ハーフィズは酒,恋,美女などをテーマに象徴主義手法を用いて作詩し,神秘主義思想と現実の両意に解釈できるように表現し,抒情詩を最高・完成の域に達せしめた。15世紀のティムール朝時代に文化の中心になったヘラートにおいては,古典時代の最後を飾る偉大な神秘主義詩人ジャーミーが現れ,神秘主義長編叙事詩《七つの王座》を作詩した。

 散文学は10世紀にアラビア語史書・宗教書のペルシア語訳で始まり,その後ますます興隆して教訓,歴史,詩人伝,地理,神学,物語,旅行記などきわめて多岐にわたる作品が現れ,〈鑑文学〉で知られる《カーブースの書》(カイ・カーウースKay Kā'ūs作)や《政治の書》などは高く評価されるが,全般的に詩に比べると二次的存在であった。しかし13世紀から15世紀にかけてジュワイニーラシード・アッディーンワッサーフハーフィズ・イ・アブルーらの偉大な歴史家たちによる作品はきわめて高い位置を占めている。

16世紀初頭に創設されたサファビー朝は,イスラム期イランにおける最大の民族王朝として,政治面のみならず文化面においても,美術,工芸,建築の分野において最も輝かしい時代であったが,ペルシア文学に関する限り,衰退時代に入った。これは同朝が国教に定めたシーア派(十二イマーム派)のイマーム礼賛を重視して,数世紀間にわたりペルシア詩人の精神的支えであった神秘主義を無視,抑圧する政策を採ったためである。イランに保護者を見いだせなくなった詩人たちは新たな保護者を求めて国外に移住し,とくにインドのムガル帝国宮廷に仕える者が多くなり,ペルシア詩の中心はこの時代にインドに移った。インドの風土,伝統に即した〈インド・スタイル〉が生まれ,ペルシア詩の第3のスタイルになった。18世紀前半にサファビー朝は滅び,アフシャール朝,ザンド朝の2王朝が相次いで台頭したが,文学の衰退傾向は続いた。18世紀後半にイランに新しい文学運動が興り,〈インド・スタイル〉を脱してペルシア詩本来の姿に戻ろうとする〈復帰運動〉が提唱され,この運動は19世紀に実を結んだ。散文学の分野では,衰退時代に歴史,詩人伝に関して注目すべき作品が現れたといえよう。

19世紀カージャール朝支配下において,10世紀以来の伝統的な宮廷詩人が復活して頌詩が再び台頭し,同世紀の代表的な詩人カーアーニーQā'ānī(1808-54)が桂冠詩人として活躍した。西欧思想の導入はペルシア文学の詩,散文の両分野に大きな影響を及ぼし,とくに19世紀後半から20世紀前半にかけて起こった社会改革,イラン立憲革命運動においては文学が大きな役割を果たした。バーブ教運動における女流詩人クッラトゥル・アイン,近代詩人イーラジ・ミールザー,革命詩人エシュキーEshqī,愛国詩人バハールなどが目覚ましい活躍をした。立憲革命運動と近代文学運動において新聞と雑誌が重要な役割を果たし,さらに啓蒙文学としての社会小説は政治・社会改革思想の鼓吹,普及や支配者層への批判,風刺に利用され,これら一連の作品は〈立憲革命文学〉と呼ばれる。

 20世紀前半から散文学においては苦悩する現代社会をテーマとした短編小説が主流を占めた。その基礎を築いたのはジャマールザーデであり,短編小説集《むかしむかし》は現代ペルシア散文学の出発点である。彼に続く多くの作家の中でとくに名高いのはサーデク・ヘダーヤトで,20世紀最大のイラン作家とも評され,多くの口語,俗語を駆使した新文体により主として下層社会の諸問題をテーマとし,中編小説《盲目のふくろう》では優れた心理分析を行った。彼の流れを汲むサーデク・チューバクジャラール・アーレ・アフマドボゾルグ・アラビーらの短編小説も注目されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペルシア文学」の意味・わかりやすい解説

ペルシア文学
ぺるしあぶんがく

広義では古代ペルシア語、中世ペルシア語(パフラビー語)、近世ペルシア語による文学を意味するが、一般にはイスラム期におけるアラビア文字で表記される近世ペルシア語による文学をさす。古代の文献としてはササン朝時代に編纂(へんさん)されたアベスタ語によるゾロアスター教聖典『アベスタ』と古代ペルシア語の碑文などがある。

 パフラビー文学については当該項目(「パフラビー文学」)を参照されたい。次に述べるのは近世ペルシア文学の歴史的展開と特色である。

[黒柳恒男]

沈黙の2世紀

7世紀のなかばにイスラム・アラブ軍に攻略されてササン朝が滅亡すると、イランはアラブの直接支配下に置かれ、9世紀なかばまで2世紀にわたりこの状態が続いた。この間アラビア語が行政語、学術語として用いられ、中世ペルシア語にとってかわって近世ペルシア語が生まれるが、これは実際には話しことばとして用いられたにすぎない。そこでイラン人学者たちもアラビア語で執筆し、イスラム文化形成に大きく貢献したが、ペルシア語による文献はいっさいない。政治的、言語的に独立性を失ったこの時代は「沈黙の2世紀」とよばれる。

[黒柳恒男]

黎明期

アラブの支配力が弱まり、イランのイスラム化が強化された9世紀なかばごろから、イランに地方王朝ながら民族王朝が相次いで樹立された。それら宮廷にペルシア詩人が現れ始め、幾たりかの詩人が活躍したと伝えられるが、断片的な詩が現存するだけである。しかし9世紀がペルシア文学の黎明(れいめい)期であったことは事実である。

[黒柳恒男]

ペルシア文芸復興

9世紀末から10世紀末までブハラに首都を置き、中央アジア、東部イランを支配した民族王朝サーマーン朝は民族文化振興政策をとった。そしてペルシア詩人の保護奨励に努めたためペルシア文学は非常に栄え文芸復興期を迎える。この時代の文学の特色は宮廷貴族文学としての頌詩(しょうし)と民族意識に基づく民族叙事詩で、それぞれの分野に大詩人が現れた。ペルシア詩人の父ルーダキーと大民族詩人フィルドウスィーがその代表的存在である。この時代、ペルシア古典詩の主流を形成するホラサーン・スタイルの基礎が築かれた。

[黒柳恒男]

古典黄金時代 11~15世紀

11世紀以降15世紀末まで長年月にわたりイランはトルコ系、モンゴル系など異民族に支配されたが、これら支配層はイラン文化に同化され、ペルシア詩人を保護したので、ペルシア文学はますます隆盛した。11世紀前半ガズナ朝スルタン、マフムードの宮廷には400人もの宮廷詩人が仕えたと伝えられ、ウンスリーをはじめ三大詩人が頌詩の分野で活躍し、ホラサーン・スタイルを確立した。11世紀後半から13世紀前半におけるセルジューク朝、アターベク諸王朝の時代にペルシア文学、イラン文化は最盛期を迎え、ペルシア詩の領域は内容面で従来以上にはるかに豊かになった。この時代の特色として、アンワリー、ムイッズィーらセルジューク朝宮廷詩人のほか、地方王朝の宮廷詩人の活躍が顕著で、神秘主義が導入され、サナーイー、アッタールの二大神秘主義詩人がこの分野の基礎を築いた。サーマーン朝時代の素朴な表現に比べて、この時代には多くのアラビア語彙(ごい)が用いられ、文体が華麗になったのが大きな特色といえる。『ルバイヤート』の詩人ウマル・アル・ハイヤーミーが活躍したのもこの時代である。10世紀ごろ、ペルシア詩は中央アジアと東部イランに限られていたが、この時代にはイラン全域にわたってペルシア詩人が輩出。とくに西部のアゼルバイジャン地方ではハーカーニー、ニザーミーら優れた詩人により、ホラサーン・スタイルに対してイラク・スタイルによる詩作が行われた。

 10世紀に詩とともに基礎が築かれたペルシア散文学も、この時代に隆盛期を迎え、さまざまな分野にわたり注目すべき作品が生まれた。13世紀後半から14世紀前半にかけてモンゴル軍の侵入、支配により一時的にペルシア文学は停滞するが、その後復活し、13世紀には二大詩人ルーミー、サーディーが現れ、歴史の分野でいくつかの優れた作品が数えられる。14世紀後半から15世紀末にかけてティームール朝時代にペルシア文学はしだいに衰えをみせる。しかし14世紀には最高の叙情詩人とうたわれるハーフィズが現れ、15世紀にはヘラート宮廷を中心に文化が栄え、古典時代の最後を飾るにふさわしい大詩人ジャーミーが神秘主義の分野で活躍、散文においても歴史書、詩人伝などが執筆された。

[黒柳恒男]

衰退時代

16世紀、国民王朝サファビー朝が創設されると、シーア派を国教に制定、政治面のみならず美術工芸の分野で栄えたが、ペルシア文学は王朝の政策とかみ合わず急速に衰退、この沈滞が18世紀末まで続いた。この間、インドのムガル朝宮廷がペルシア詩の中心となり、イランの詩人でインドに移住する者が続出、インド・スタイルという作風で作詩が行われるようになり、イランにも影響を及ぼした。

[黒柳恒男]

近・現代文学

19世紀カージャール朝の時代にカーアーニーら宮廷詩人によるペルシア詩の伝統が復活し、古典スタイルによる作詩が行われた。19世紀なかばからしだいに西欧思想、文学が導入され、とくに19世紀末から20世紀初頭の立憲革命運動時代には新聞が多く刊行され、啓蒙(けいもう)文学が盛んになった。その後ジャマール・ザーデ、ヘダーヤトらによって小説の基礎が築かれ、俗語を駆使した文学大衆化が叫ばれ、社会の下層階級をテーマとした多くの作品が現れた。詩の分野では愛国詩人バハール、女流詩人パルビーンらによる伝統的な古典詩スタイルを経て、ユーシージによる自由詩が注目を浴びるようになった。古典文学研究も20世紀の大きな特色である。1979年のイラン・イスラム革命後は革命を謳歌(おうか)した詩、イスラムに関する宗教文献が多く現れたが、注目すべき文学作品はまだ現れていない。

[黒柳恒男]

『黒柳恒男著『ペルシア文芸思潮』(1977・近藤出版社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ペルシア文学」の意味・わかりやすい解説

ペルシア文学
ペルシアぶんがく
Persian literature

近世ペルシア語で書かれた文学作品の総称。広義ではアケメネス朝時代の古代ペルシア語と,パルティア帝国,ササン朝時代の中世ペルシア語による文学をも意味するが,一般的にはアラビア文字で表記され,アラビア語からの借用語も多い9世紀以降のイスラム期近世ペルシア語による文学をさす。韻文文学 (詩) と散文文学に分れ,中世以来,詩が主流を占めている。7世紀にササン朝がイスラム・アラブに征服された結果,イスラム教が国教のゾロアスター教などの既存の宗教に代ってイランの支配的な宗教を占めるようになり,法律や文化の分野でもアラビア語が主体になった。しかし9世紀になって,イランの政治的復権とともに,ペルシア語による文学が登場した。特に近世ペルシア語として知られるイラン北東部の地方語が文学表現に使用されるようになり,やがてイラン全域と北インドでペルシア語の文語として確立した。
近世ペルシア文学の初期の作品は称賛や歓喜を韻文で表現したもので,そこにはアラブ的な要素はごく少い。しかしアラビア語の散文作品の翻訳が進むにつれ,次第にアラビア文学の影響を受けて修辞学的に洗練され,多くの語彙や文法的技法が導入されたのである。最初期のペルシア詩の主要な分野は賛辞と挽歌で,ともにカシーダ (定型の頌詩) で書かれた。サーマン朝のナスル2世 (在位 913~943) 時代に活躍したルーダキーは 10世紀を代表する大詩人である。続いてガザルと呼ばれる,カシーダより短い詩型の抒情詩が生れ,酒を賛美する詩や,のちには恋愛詩にも用いられた。カシーダとガザルはともに単韻詩であったが,やがて押韻対句,マスナビー詩型の導入により単韻詩の制約から解放され,叙事詩や長編教訓詩が作られるようになった。マスナビーはルバーイー (4行詩) と同じように純粋にペルシア的なものである。特にルバーイーはほかの詩型と異なり,アラビア語で書かれたものは知られていない。民族叙事詩ではフィルダウシーが偉大な作品を完成した。 11世紀トルコ系ガズニー朝時代にも多くの宮廷詩人が輩出し,ペルシア詩ホラーサーン・スタイルを確立した。 12世紀セルジューク朝時代にペルシア詩は興隆をきわめ,イランの東西にわたって一流詩人が活躍し,内容も拡大されて神秘主義詩,ロマンス詩などが多く書かれた。 13世紀なかば,モンゴルの来襲,支配でペルシア詩は全般的に停滞したが,ルーミーサーディーら偉大な詩人が現れ,抒情詩も盛んになり,14世紀にハーフィズによって完成された。ペルシア詩は 10~15世紀が古典黄金時代で,それ以降衰退を続け,19世紀以降次第に復活して今日にいたっている。
散文文学の基礎も,詩と同様にサーマン朝時代に築かれた。マンスール1世の宰相バルアミーは,963年にアッバース朝の歴史家タバリーの有名な年代記『預言者と諸王の歴史』をペルシア語に抄訳した。同じ頃,トランスオクシアナの神学者たちはタバリーのもう1冊の大著『コーラン解釈論集』をペルシア語に翻訳し,ペルシア語が宗教関係の著述にも適していることが立証された。マンスール1世はまた,ヘラート出身のアブー・マンスール・ムワッファクに命じて,ペルシア語による最初の薬物学書『治療の正しい基礎の書』を執筆させた。ペルシア語を哲学や科学の著述に用いるには,微妙な言い回しを含む幅広い専門用語の語彙を作る必要があったが,青年時代をサーマン朝の宮廷で過したイブン・シーナーがそれに関する顕著な業績をなしとげた。その後,歴史,伝記,物語,旅行記,神秘主義などを主題とした作品が多く作られ,19世紀末,立憲革命運動時代には注目すべき啓蒙文学が次第に現れた。 20世紀には民衆の生活に基づく短編,長編小説が盛んになった。

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