改訂新版 世界大百科事典 「ティムール朝」の意味・わかりやすい解説
ティムール朝 (ティムールちょう)
Tīmūr
中央アジア,イラン,アフガニスタンを支配したトルコ・モンゴル系イスラム王朝。1370-1507年。トルコ化・イスラム化したモンゴル族(チャガタイ族)の子孫として中央アジアに生まれたティムールは,1370年マー・ワラー・アンナフル(トランスオキシアナ)の統一に成功,以後絶えまのない征服戦争を敢行し,95年にはモスクワに迫り,98年にはデリーを席巻,1402年にはアンカラの戦でオスマン軍を撃破するなどの大戦果をあげ,ユーラシア大陸の中心部を覆う大帝国を建設した。ティムールの成功は,中央アジア遊牧民の軍事力とオアシス定住民の経済力の結合を基盤として達成されたが,ティムールの没後も,遊牧民的発想に基づく一族の分封制と,時の真の実力者が君主位を占めるべきだとする遊牧民的君主位継承制が尊重され続けた結果,帝国は政治的分裂を避け難く,マー・ワラー・アンナフルとイランという帝国の最も重要な二つの地域を一つの統一体としてまとめえたのは,わずかに第3代の君主シャー・ルフ(在位1409-47)と第7代の君主アブー・サイードAbū Sa`īd(在位1451-69)の両名にすぎなかった。このようにして,後者の死後,帝国はサマルカンドとヘラートをそれぞれの首都とする二つの政権に完全に分裂し,前者は1500年,後者は07年,ともにシャイバーニー・ハーンの率いるウズベク族によって滅ぼされた。
このようにティムール朝は政治的には必ずしも強力な国家ではなかったが,ティムールをはじめとする諸君主が都市の充実に意を用い,また学問・芸術の愛好者でもあったため,王朝治下の諸地域にティムール朝文化と呼ばれる華やかな宮廷文化が発達した。ビヒザードらの細密画,スルターン・アリー・マシュハディーらの書,アリー・シール・ナバーイー,バーブル,ジャーミーらの文学,そしてサマルカンドやヘラートに今も残る多くの建造物は当時の文化の水準の高さを今日にまで伝えている。
執筆者:間野 英二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報