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ポクロフスキー ポクロフスキーPokrovskii, Mikhail Nikolaevich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ポクロフスキー
Pokrovskii, Mikhail Nikolaevich

[生]1868.8.29. モスクワ
[没]1932.4.10. モスクワ
ソ連の歴史家。科学アカデミー会員。 1891年モスクワ大学を卒業。 V.O.クリュチェフスキーと P.G.ビノグラドフに師事してロシア史の研究をする一方,1905年ボルシェビキ党に加入。 08年党の仕事でジュネーブに行きレーニンと知合った。 17年8月帰国し,翌年5月新生ソビエト政府の教育人民委員となる。以後死ぬまでソ連を代表する歴史家とみなされていたが,死後,36年「反マルクス的」であるとして批判された。主著『古代からのロシア史』 Russkaya istoriya drevneishikh vremën (4巻,1910~13) ,『ロシア文化史概説』 Ocherk istorii russkoy kul'tury (2巻,15~18) 。

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百科事典マイペディアの解説

ポクロフスキー

ロシア(ソ連)のオペラ演出家。モスクワ出身。メイエルホリドに私淑し,ゴーリキー劇場の芸術監督を経て,1943年−1963年ボリショイ劇場で演出総監督などを務める。

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世界大百科事典 第2版の解説

ポクロフスキー【Mikhail Nikolaevich Pokrovskii】

1868‐1932
ソ連邦の歴史家。1891年モスクワ大学文学部を卒業し,ロシア史家の道を歩んだ。反政府的傾向をつとにあらわし,政府に講義を禁じられた。1905年社会民主労働党に入党し,ボリシェビキに属したが,06年ボグダーノフ派の知識人グループに加わり,レーニンと対立した。反動期に代表作《最古よりのロシア史》5巻(1910‐13)を出し,第1次大戦中に《ロシア文化史概説》2巻(1915‐18)を著した。十月革命後は終生教育人民委員代理の職にあり,マルクス主義に立つソビエト歴史学界の最高指導者となった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ポクロフスキー
ぽくろふすきー
Михаил Николаевич Покровский Mihail Nikolaevich Pokrovskiy
(1868―1932)

ロシア・ソ連の歴史家、政治家、アカデミー会員。役人の子としてモスクワに生まれる。1891年モスクワ大学歴史・文学科卒業。1905年ジュネーブで初めてレーニンに会い、帰国後ボリシェビキに加入し、その新聞の編集に加わった。10~13年『古代よりのロシア史』(5巻・共著)、15~18年『ロシア文化史概説』(2部)を著し、そのなかでロシアにおける商業資本を過大に評価し、ツァーリの専制をその道具と主張した。17年亡命先よりロシアに帰って革命に参加。18年5月から死ぬまでロシア共和国の文部人民委員代理(文部次官)として、文部行政に携わると同時に、歴史研究所の創設や歴史関係の学会誌の発行にも関係した。彼の学説はスターリン時代に批判された。[外川継男]

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