ポーランド音楽(読み)ポーランドおんがく

改訂新版 世界大百科事典 「ポーランド音楽」の意味・わかりやすい解説

ポーランド音楽 (ポーランドおんがく)

ポーランド人は西スラブ族に属し,古くからオドラ川東部とカルパチ山脈北部一帯に住んでいた。国家形成は10世紀ころで,966年のキリスト教導入により,芸術音楽は西欧文化と結びついて発展した。

11世紀から15世紀末までは,キリスト教の普及につれてグレゴリオ聖歌が広まり,民族的な宗教歌《ボグロジツァ(神の母)》も生まれた。14世紀には西欧の多声歌も歌われ,オルガンが各地で建造された。15世紀には首都クラクフは中欧の経済・文化の中心地となり,フランス,イタリア,ドイツの音楽が流れこみ,ポーランドの作曲家も育った。とくにラドムのミコワイは流麗な旋律,鋭い和声感覚をもつミサ曲を残した。15世紀後半,ポーランド語による多声歌も生まれ,宗教歌《おお,愛らしい花》や世俗歌《偉大なクラクフ》など作曲者は不明だが,水準の高い作品が残っている。

16世紀に入ると,宮廷楽団や市民楽団の活動が盛んになり世俗音楽が栄えた。クラクフのミコワイは初期の傑出した作曲家でミサやモテットを書いた。1543年に創設されたクラクフ大聖堂付属男声合唱団はM.レオポリタやT.シャデクらポーランド作曲家の宗教歌も歌った。他方,宗教改革派のゴムウカMikołaj Gomółka(1535ころ-1610ころ)は1580年に《ポーランド詩編唱》という記念碑的作品を残した。市民の間ではリュートやオルガン音楽が親しまれ,ポーランドの舞曲や舞踊歌は各国で知られた。

17世紀から18世紀半ばまでのポーランドは,イタリア音楽の影響を受けてはいたが,A.ヤジェンブスキの器楽,M.ジェレンスキやB.ペンキエルの宗教曲が生まれ,宮廷ではイタリアのオペラやバレエが上演された。相次ぐ戦乱や貴族間の抗争で,18世紀には,国運が傾き音楽文化の発展も阻害されたが,グダンスクやクラクフなど各地で建造されたオルガンによりオルガン音楽の隆盛をもたらした。後期バロックを代表する作曲家G.ゴルチツキやS.シャジンスキの宗教曲は注目される。

18世紀後半には合理主義と啓蒙主義によって国家の再建を図ったが,ポーランドはロシア,プロイセン,オーストリアに国土を奪われ,1795年に滅亡する。こういう時代にポーランド国民オペラ,民族的色彩をもつ器楽,闘争歌が生まれた。カミエンスキMaciej Kamieński(1734-1821)のオペラ《幸運な貧困》(1778)は農村生活を描いたが,題材も音楽も最初の国民オペラといえるものはステファニJan Stefani(1746-1829)の《クラクフ市民と山人たち》(1794)である。器楽ではハチェフスキA.HaczewskiやボフダノビチBazyli Bohdanowicz(1740-1817)の交響曲,ヤニェビチFelix Janiewicz(1762-1848)の二つのバイオリンチェロの〈三重奏曲〉,オギンスキMichał Kleofas Ogińskiによる当時の悲劇的社会を反映した感傷的なポロネーズ《祖国よさらば》などのピアノ曲がある。独立運動の中で多くの愛国歌が作られたが,とくに国外で独立のために闘ったポーランド師団の歌《ドンブロフスキマズルカ》は1797年以来広く歌われ,1927年から国歌となった。また愛国歌のほかに市民の間ではオペラのアリアや歌謡曲が歌われ,歌謡曲の《ラウラフィロン》はショパンの《ポーランド民謡による幻想曲》作品13にもとり入れられた。

19世紀,ポーランドのロマン主義音楽は3国による支配への抵抗と挫折の歴史の中で展開された。民族的で革新的なピアノ音楽を書いたショパンと,民族的オペラ《ハルカ》(1847)と《幽霊屋敷》(1864)を残したモニューシュコはこの時代の代表者であるが,その先駆者に指揮者・教育者としても活動したエルスネルJósef Antoni Franciszek Elsner(1769-1854)とクルピンスキKarol Kazimierz Kurpiński(1785-1857)がいる。名バイオリン奏者リピンスキKarol Józef Lipiński(1790-1861)とマズルカ,ポロネーズなどピアノ曲を残した女流ピアノ奏者のシマノフスカMaria Agata Szymanowska(1789-1831)も無視できない。19世紀後半にはポーランド最初の交響詩《草原地帯》(1897)を書いたノスコフスキZygmunt Noskowski(1846-1909)と作曲家・教育家のジェレンスキWładysław Żeleński(1837-1921),歌曲,ピアノ曲のパンキエビチEugeniusz Pankiewicz(1857-98),名バイオリン奏者のビエニアフスキが現れた。またコルベルクOskar Kolberg(1814-90)は約2万6000曲の民謡を収集し研究して《ポーランド民謡集》を生存中33巻出版した。その後,現在まで約60巻出版された。

20世紀初期の作曲家グループ〈若きポーランドMłoda Polska(ムウォダ・ポルスカ)〉はポーランドの音楽を西欧の水準にまで高めようと図って活動した。とくにシマノフスキは民族的な現代音楽の創造者として音楽史上不滅の地位を築いた。1918年独立後のポーランドでは,音楽活動も活発になり,27年にショパン国際ピアノ・コンクール,35年にビエニアフスキ国際バイオリン・コンクールも組織された。K.シコルスキ,P.ペルコフスキ,G.バツェビチらの作曲家が進出し,ピアノ奏者のA.ミハウォフスキ,J.K.ホフマンパデレフスキ,Z.ジェビェツキ,バイオリン奏者のB.フーベルマン,P.コハンスキ,H.シェリング,〈ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団〉の創立(1901)に尽くした指揮者のムイナルスキEmil Młynarski(1870-1935),アメリカに帰化したA.ロジンスキらが内外で活躍した。第2次世界大戦でポーランドは悲惨で破滅的損害を受けたが,人民共和国として再建され,音楽文化の建設に力が注がれた。1956年以降西欧の新技法に目を向けて前衛音楽が生み出され,T.バイルド,K.セロツキ,W.コトンスキ,H.M.グレツキペンデレツキなどの若い世代が現れた。旧世代のB.シャベルスキ,W.ルジンスキ,ルトスワフスキらも新鮮な感覚をもつ作品を書いた。このほかA.ドブロボルスキをはじめ各世代にわたって注目される作曲家が生まれた。国際現代音楽祭〈ワルシャワの秋〉は1956年以来世界の前衛音楽のメッカとさえなった。

ポーランドの民俗音楽は周辺諸国の影響を受けてはいるが,中・西部ではマズルカの3拍子と軽快な長・短調の旋律,南部ではクラコビアクの2拍子の活発な舞曲,北部では各種の拍子とゆるやかなテンポの曲など固有のものが多い。南部の山岳地帯は平野部と異なり,多声的で旋法的な曲が多く,舞踊の型も古いものが残っている。これらの特徴は長い歴史の中で形づくられ,日常生活と結びついた民謡や各種の舞曲を生み出した。ポロネーズやマズルカは農民に起源をもつポーランドの代表的な民俗舞踊である。民俗楽器にはリガフカやバズナという木管トランペット,ガイディやドゥディというバッグパイプ,マザンキやゲンシリキという弦楽器など各種のものがあり,さらにクラリネットやサクソフォーンなど西欧の楽器も古くから使われていた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ポーランド音楽」の意味・わかりやすい解説

ポーランド音楽
ポーランドおんがく

1000年頃キリスト教の伝播とともに 16世紀頃までは,ほぼ西ヨーロッパの音楽と同じように発展した。 16世紀以後は,ポーランドの民俗音楽の舞曲が芸術音楽のなかに浸透し,マズルカ,ポロネーズ,クラコビアークなどが作曲され,西ヨーロッパの音楽にも影響を与えた。 17世紀前後には外国人音楽家,特にイタリア人が活躍し,18世紀中葉以後西ヨーロッパの強い影響下にありながらも,ショパン,S.モニューシュコ,K.シマノフスキらによって民族意識の高まりと相まって新しい国民音楽の創造に向った。第2次世界大戦後になると,ポーランド音楽は K.ペンデレツキを旗手とする急進的,前衛的な傾向を示し,現代音楽における主導的な役割を果している。

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