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マカートニー George Macartney

百科事典マイペディアの解説

マカートニー

英国の外交官。1764年駐ロシア公使,1780年―1786年マドラスの知事を経て,1793年清国に対する英国最初の全権使節として貿易改善のため赴任する。熱河乾隆帝との謁見に成功したが,通商条約締結の目的は果たせず,1794年帰国した。

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世界大百科事典 第2版の解説

マカートニー【George Macartney】

1737‐1806
イギリスの政治家,外交官。アイルランド出身。1793年(乾隆58),イギリス最初の訪中使節団の首席代表として中国を訪れた。その目的は両国の通商関係を条約締結によって改善すること,なかんずく茶貿易を安定させることにあった。おりから熱河に避暑中の乾隆帝に彼は謁見できたが,所期の目的は果たせなかった。しかし,彼や団員たちが残した訪中旅行記はイギリス人による中国研究の出発点となった。【井上 裕正】

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大辞林 第三版の解説

マカートニー【George Macartney】

1737~1806) イギリスの政治家・外交官。1793年イギリス初の中国使節として、熱河で乾隆けんりゆう帝との会見に成功したが、対清貿易の拡大という目的は達成できなかった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

マカートニー
まかーとにー
1st Earl George Macartney
(1737―1806)

イギリスの政治家、外交官。北アイルランドのアルスターに生まれ、1764年駐露公使となり、イングランド下院議員を務めたのち、1780~1785年にかけインドのマドラス知事の任にあった。1793年9月14日、北京(ペキン)に赴き皇帝に謁見すべしというイギリス政府の訓令と、イギリス人が中国沿岸で居住し貿易ができるよう申し入れたジョージ3世の信任状を携え、乾隆(けんりゅう)帝に熱河で謁見した。そこでは三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)ではなく、片膝(かたひざ)をつき信任状を手渡すという方法がとられた。しかし中国側はあくまでも遠方からの朝貢使節とみなし、実質的な交渉のないまま、マカートニーは北京を退去し、帰路は運河沿いに杭州(こうしゅう)に至り、その後も内地旅行を続け広東(カントン)を経て帰国した。彼は詳細な観察日記を残している。その後、上院議員、喜望峰植民地総督となった。[浜下武志]
『マカートニー著、坂野正高訳注『中国訪問使節日記』(平凡社・東洋文庫)』

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367日誕生日大事典の解説

マカートニー

生年月日:1737年4月14日
イギリスの外交家,政治家
1806年没

マカートニー

生年月日:1833年5月24日
清末の中国官界で活動したスコットランド人
1906年没

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世界大百科事典内のマカートニーの言及

【紅茶】より

…18世紀中ごろにおけるヨーロッパ人の茶樹と茶栽培についての知識といえば,日本で17世紀末茶を観察し情報を集めたケンペルの記述に頼っていた程度で,茶は依然なぞに包まれた植物であった。1793年イギリスは初めて中国へジョージ・マカートニーを団長とする使節団を派遣したが,その目的の一つは中国の実情についての情報,とくに茶の栽培・製造に関する詳しい情報を集めることであった。彼は中国から茶樹を持ち帰り,カルカッタで移植を試みたが成功しなかった。…

※「マカートニー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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