マムルーク(その他表記)mamlūk[アラビア]

デジタル大辞泉 「マムルーク」の意味・読み・例文・類語

マムルーク(〈アラビア〉Mamlūk)

《所有されるものの意》10世紀ころから西アジア各地で増大した、トルコ人を主とする軍隊奴隷のこと。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「マムルーク」の意味・読み・例文・類語

マムルーク

  1. 〘 名詞 〙 ( [アラビア語] Mamlūk 所有されたものの意 ) 一〇世紀頃から西アジアの各地で増大したトルコ人を主とする軍隊奴隷のこと。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「マムルーク」の意味・わかりやすい解説

マムルーク
mamlūk[アラビア]

黒人奴隷兵(アブド)に対して,トルコ人,チェルケス人,モンゴル人,スラブ人,ギリシア人,クルドなどのいわゆる〈白人〉奴隷兵を指す。グラームghulāmともいう。8世紀初めにアラブ軍がアム・ダリヤ以東に進出してイスラムの支配権を確立すると,多くのトルコ人が戦争捕虜や購入奴隷としてイスラム世界にもたらされた。これ以後,イスラム軍の中にはアラブ以外にトルコ人マムルークも加わるようになったが,大量のマムルークを購入して親衛隊を組織したのは,アッバース朝カリフムータシム在位833-842)であった。彼らの中には軍人としての実力を認められて奴隷身分から解放され,やがて軍団の司令官や地方総督に抜擢される者も現れたが,まもなく国家の支配権を手中にしてカリフの改廃をも左右するに至った。10世紀以降のブワイフ朝セルジューク朝でも軍隊の中核には常にマムルーク軍が存在したし,エジプトのトゥールーン朝ではすでに2万4000騎のトルコ人マムルークが採用され,次のファーティマ朝でもベルベルや黒人奴隷兵とならんでかなりの数のマムルークが用いられていた。

 マムルーク朝アイユーブ朝時代に編制されたマムルーク軍団によって樹立された王朝であるが,この王朝の崩壊後も,マムルーク軍人は在地の支配者として19世紀初頭に至るまでエジプト・シリア実権を保持し続けた。イランのサファビー朝では軍事力強化のためにグルジア人マムルークが採用され,またオスマン帝国でも18世紀初頭に至るまでは奴隷兵としてのカプクル軍団,とりわけ,キリスト教徒の子弟を徴募して編制したイエニチェリ軍が,ヨーロッパやアラブ世界の征服に大きな役割を演じた。

 少年のマムルークの中には将来の出世を見込んで自ら身を売る者があり,奴隷商人の手を経てバグダードやカイロに運ばれると,そこでアラビア語やイスラムについての教育と弓や馬術などの軍事訓練を受けた後,奴隷身分から解放されてスルタンのマムルーク軍団に編入された。この時マムルークには生活の基礎となるイクターが与えられ,都市に住んで農民からの租税を徴収するとともに,やがて軍功を積み重ねて十人長から四十人長,百人長へと昇進していくのが彼らの出世の道であった。奴隷として購入されたことから,主人であるスルタンには篤い忠誠心を抱き,またマムルーク相互の間にも強い仲間意識が存在することによって,十字軍やモンゴル軍をしのぐほどの強固な軍団が形成された。しかし,これらのマムルークはムスリム大衆にとってはやはり異民族支配者であったから,政権を維持するためには,ムスリムの日常生活と深いかかわりをもつウラマーの支持を得ることが必要であった。スルタンをはじめとするマムルーク軍人がモスクや学校を盛んに建設してウラマーとイスラム文化の保護に努めたのは,そうすることによって初めて公正なイスラムの支配者たりうることを理解していたからにほかならない。
奴隷
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マムルーク」の意味・わかりやすい解説

マムルーク
mamlūk

奴隷を意味するアラビア語。複数は mamālīk。一般には,奴隷として購入され,のち解放された軍人エリートの意味に用いられる。マムルークとして購入されたのはトルコ人,キルカシア人を中心にモンゴル人,クルド人,ギリシア人,アルメニア人など。イスラム国家におけるマムルークの採用はアッバース朝ムータシム (在位 833~842) に始り,その後イスラム圏の各王朝はマムルーク軍団をもつようになった。エジプトのアイユーブ朝のスルタン,サーリフ (在位 1240~49) がつくったマムルーク軍団は,やがてスルタンをしのぐ勢力となり,マムルーク出身の将軍たちはエジプト,シリアにマムルーク朝を建てるにいたった。 16世紀にオスマン帝国がアラブ地域を征服したのちも,地方支配の実権は徴税請負人であるマムルーク・ベイが握り,この体制が 19世紀のムハンマド・アリーの時代まで続いた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「マムルーク」の解説

マムルーク
mamlūk

イスラーム世界で「奴隷軍人」をさす。原義は奴隷一般を意味するが,シリア,エジプトでは13世紀頃から奴隷軍人に特定して用いられる。マムルーク朝においては,スルタンアミールが購入した少年奴隷は専門の訓練学校で養育され,軍事技術のほかアラビア語やイスラーム諸学を教育された。解放後は政治・軍事集団として主人に仕えて国政に関与し,また地方領主としての性格も兼ね備えた。マムルーク朝の滅亡後も,主としてエジプトでは19世紀初頭に至るまで社会の特権階級をなした。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「マムルーク」の解説

マムルーク
mamlūk

イスラーム世界に広く存在したトルコ人,スラヴ人,ギリシア人などの白人奴隷
元来「奴隷」を意味するアラビア語であったが,黒人奴隷とは一線を画して使われた。中央アジアやバルカン半島などから奴隷商人の手をへてバグダードやカイロに運ばれ,イスラームの教育と軍事訓練を受けたのち軍団に編入されたが,実力を認められると奴隷身分から解放されて司令官や総督に出世するものも現れた。9世紀のアッバース朝以降,約1000年間にわたってイスラーム諸王朝の軍隊の中核をなし,マムルーク朝のように支配者として君臨する場合もあった。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のマムルークの言及

【イスラム】より

…このようにイマーム論を除き,スンナ派と十二イマーム派との間に融和の余地がないわけではなく,歴史上,十二イマーム派をジャーファルJa‘far派と呼んで,スンナ派の四法学派と並んで位置づける試みも再三にわたってなされたが,結局さしたる効果をあげなかった。【嶋田 襄平】
[近代のイスラム]
 ナポレオン軍に占領されたカイロで,歴史家ジャバルティーは,激動のヒジュラ暦1213年(1798∥99)最大の事件は,エジプトからのメッカ巡礼がやんで,マムルーク朝時代以来毎年の慣行となっていたキスワ(カーバの覆い)が送れなかったことだったと記した。外からの力の衝撃よりも,内的な力の衰弱が重大視されていた。…

【シリア】より

…イスラム側の勢力を統一して十字軍に対抗するにはかなり時間がかかったが,ザンギー朝(1127‐1222)のヌール・アッディーンによってかなり推進されたこの事業を,サラーフ・アッディーン(サラディン)が完成させた。サラーフ・アッディーンはマムルーク(奴隷軍人)の力を結集し,その活動の結果,十字軍は地中海沿岸地方に押し込められた。十字軍時代のシリアは,政治的衝突と戦争の時代であると同時に,奇妙な共存と連合の時代でもあった。…

【奴隷】より

…日本の諸説と比較した場合,時期の設定がはるかに古くなっていることと,総体的奴隷制の考え方があまり適用されていないことが特徴といえるであろう。賤民【岩見 宏】
【イスラム社会】
 アラビア語では,自由人(フッルḥurr)に対して奴隷一般をラキークraqīqというが,通常は男奴隷をアブド‘abdあるいはマムルークといい,女奴隷をアマamaあるいはジャーリヤjāriyaと呼ぶ。イスラム法の規定では,奴隷は異教徒の戦争捕虜か女奴隷の子どもに限られ,債務奴隷の存在は原則として否定された。…

※「マムルーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android