ムハンマドアリー(英語表記)Muḥammad `Alī

デジタル大辞泉 「ムハンマドアリー」の意味・読み・例文・類語

ムハンマド‐アリー(Muḥammad ‘Alī)

[1769~1849]近代エジプトムハンマドアリー朝の開祖。オスマン帝国エジプト太守。在位1805~1848。マケドニア生まれ。エジプト国内を統一し、近代化に尽くす。1841年には太守の世襲権が承認され、事実上の独立を達成。メフメット=アリー。

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改訂新版 世界大百科事典 「ムハンマドアリー」の意味・わかりやすい解説

ムハンマド・アリー
Muḥammad `Alī
生没年:1769-1849

エジプト総督,ムハンマド・アリー朝の創立者。在位1805-48年。マケドニア地方の都市カワーラに生まれた。出自は定かではないが,アルバニア系といわれる。1801年ナポレオンのエジプト占領時に,オスマン帝国によってアルバニア人傭兵隊将校としてエジプトに派遣された。ナポレオン退却後の政局混乱に乗じて頭角を現し,05年ウラマー,カイロ市民の支持を背景に総督(ワーリー)に任命され,オスマン帝国もこれを追認した。以後,旧支配階層マムルーク勢力を一掃し,西欧軍事技術,徴兵制の実施による近代的軍隊の創設,行政改革,西欧技術修得のための各種専門学校の設立,検地の実施による一元的農民支配の強化,農作物の作付指定と専売制度,近代工場の設立など,一連の富国強兵殖産興業政策を実施し,エジプトにおける支配権を固めた。とりわけ,可耕地増加を目的とした通年灌漑体系の整備,商品作物綿花の栽培奨励策は,その後のエジプト経済に大きな影響を与えた。また,対外的には,ワッハーブ派掃討のためのアラビア半島への出兵(1811-18),スーダン征服(1818-20),ギリシア独立戦争におけるオスマン帝国支援(1824-26),第1次・第2次シリア戦争(1831-33,39-40)などを通して,領土拡張政策をとった。こうした領土拡張政策,とりわけシリアの領有権の主張は,いわゆる東方問題を引き起こし,西欧列強の介入による40年のロンドン四ヵ国条約締結によって,スーダンを除く征服地の放棄,およびエジプト国内市場の開放を余儀なくされたが,その代償として,ムハンマド・アリー一族によるエジプト総督世襲を認められた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムハンマドアリー」の意味・わかりやすい解説

ムハンマド・アリー
むはんまどありー
Muammad ‘Alī
(1769―1849)

近代エジプト、ムハンマド・アリー朝の創立者(在位1805~48)。メフメット・アリーはトルコ語読み。マケドニア地方の都市カワーラに生まれる。アルバニア系といわれる。1801年ナポレオンのエジプト占領時に、アルバニア傭兵隊将校としてオスマン・トルコ帝国によりエジプトに派遣された。ナポレオン退却後の政局混乱に乗じ、1805年エジプト総督(ワーリー)に任命された。以後、旧支配階層マムルーク勢力を一掃し、近代的軍隊の創設、行政改革、検地、農作物の専売制度、近代工場の設立など、一連の富国強兵・殖産興業政策を実施した。これによって近代国家エジプトの基礎を築き、その国力を背景として、中部アラビア、スーダン、シリア方面などに領土拡張政策をとった。彼の一連の政策、とりわけシリアへの領土拡張政策は、いわゆる東方問題を引き起こし、ヨーロッパ列強の介入による1840年のロンドン四国条約の締結によって、スーダンを除く征服地の放棄と国内市場の開放を余儀なくされた。しかし、その代償として、彼の一族によるエジプト総督世襲が認められた。

[加藤 博]

『三木亘著『オスマン帝国のアラブ支配とその解体』(『岩波講座 世界歴史21 近代8』所収・1971・岩波書店)』『石田進著『帝国主義下のエジプト経済――19世紀エジプトの植民地化過程の分析』(1974・御茶の水書房)』『岩永博著『ムハンマド・アリー』(清水書院・清水新書)』

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百科事典マイペディア 「ムハンマドアリー」の意味・わかりやすい解説

ムハンマド・アリー

エジプト最後の王朝ムハンマド・アリー朝の始祖(在位1805年―1848年)。アルバニア系といわれ,傭兵出身。ナポレオン1世のエジプト侵入に抗戦し,1805年オスマン帝国からエジプトのパシャ(太守)に任ぜられ,事実上の独立を獲得。教育,行政,軍隊を西欧風に改革し,産業を奨励してエジプト近代化を推進した。→イスマーイール・パシャ
→関連項目エジプト(地域)エジプト・トルコ戦争カバラハルツームロンドン条約

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ムハンマドアリー」の解説

ムハンマド・アリー
Muḥammad ‘Alī

1769~1849(在位1805~48)

ムハンマド・アリー朝の初代君主(形式上はオスマン帝国のエジプト総督)。マケドニア生まれのアルバニア人で,1801年ナポレオンエジプト遠征軍と戦うオスマン軍部隊の一員としてエジプトに渡った。フランス軍撤退後の混乱のなか,政敵を排除してエジプト総督となり,在地のマムルーク勢力をも一掃。以後は富国強兵,殖産興業を進めてスーダンを征服した。31年にシリアに進出してオスマン帝国に大勝,東アラブ世界の大半を獲得する。さらに39年,自立をめざして再びアナトリアに侵攻しオスマン軍を撃破したが,東地中海の軍事バランス崩壊を恐れる列強の圧力を受けて,エジプト,スーダン以外の地からは撤退した。41年エジプト総督位の世襲を認められたものの,晩年は精神病に冒されて引退した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムハンマドアリー」の意味・わかりやすい解説

ムハンマド・アリー
Muḥammad `Alī

[生]1769. カバーラ
[没]1849.8.2. アレクサンドリア
オスマン帝国のエジプト太守 (在位 1805~48) ,ムハンマド・アリー朝の始祖。トルコ風にメフメット・アリと発音される場合も多い。ナポレオン軍撤退後のエジプトでマムルーク勢力を追い落して次第に頭角を現し,1805年エジプト太守となった。 11年マムルークの勢力を壊滅させ,11~18年アラビア半島のワッハーブ派 (→ワッハーブ派運動 ) を鎮圧,20~21年にはスーダンを征服した。 24~27年ギリシアの独立戦争と戦うオスマン帝国に味方して活躍,クレタを与えられたが,満足せずシリアに出兵。その結果 40年ヨーロッパ諸国の介入を招きシリア,クレタは失ったが,エジプト太守の世襲が決り,ムハンマド・アリー朝が成立。彼はナイル川デルタの灌漑,土地制度,税制の改革などエジプトの政治,経済の近代化をはかった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ムハンマドアリー」の解説

ムハンマド=アリー
Muhammad‘Alī

1769〜1849
オスマン帝国下のエジプト太守にして,ムハンマド=アリー朝の祖(在任1805〜49)。トルコ語ではメフメト=アリー
マケドニア生まれのアルバニア人。ナポレオンのエジプト遠征による混乱時,オスマン軍の傭兵副隊長として出陣。1805年太守に任じられ,イギリス軍をも撃退して自立し,内政・軍制を改革してエジプトの近代化につとめた。ギリシア独立戦争でオスマン帝国を助けてクレタ島・キプロス島を獲得した。戦後,参戦の代償としてシリアを要求し2度にわたるエジプト−トルコ戦争を闘うが,列国の干渉で失敗した。1840年ロンドン4国条約で太守の地位の世襲制は認められたが,領域をエジプト・スーダンに限定され,完全な独立を獲得できなかった。

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世界大百科事典(旧版)内のムハンマドアリーの言及

【エジプト】より

…【佐藤 次高】
【近代】
 18世紀のエジプトは,オスマン帝国の支配のもとに実質的にはマムルークの将領たちが実権を握って党争を続けており,他方国際商業と結びついた農工業の商品生産が展開しつつあったが,1798‐1801年のナポレオン軍の侵略・占領は,オスマン帝国とマムルーク軍を粉砕してこの構造の変容の道を開いた。フランス軍撤退後の混乱期には,カイロのウラマーや商人の一部が大衆を武装させて一種のコミューンを形づくり,1805年には,これに接近してきたオスマン帝国軍のアルバニア人傭兵隊長ムハンマド・アリーを総督(ワーリー)に擁立して,帝国政府にこれを認めさせた(ムハンマド・アリー朝の成立)。 ムハンマド・アリー(在位1805‐48)は,権力を握ると,カイロの市民勢力を分裂させてこれを武装解除し,他方残存するマムルーク勢力を虐殺して,国の再編成に乗り出した。…

【シリア】より

…巡礼行路の安全を確保するのはオスマン中央政府の威信にかかわる問題であり,エジプトのマムルーク勢力に討伐を命ずると,恭順を装いながら好機を狙っていた彼らマムルークは勇躍する。なかでもナポレオンのエジプト侵略のときに討伐軍として派遣され,以後エジプトの実権をにぎったムハンマド・アリーは,ワッハーブ撃退にも勲功をあげ,そのままシリアに居座りを試みる(1833)。しかし農民蜂起と西欧列強の介入で撤退を余儀なくされた(1841)。…

【ナイル[川]】より

…これを水源として確証したのはスコットランドの探検家ジェームズ・ブルースで1770年10月のことである。 1820年,エジプト総督ムハンマド・アリーはナイル水系調査隊を派遣し,隊は白ナイルと青ナイルの合流点ハルツームまでを調査した。さらに同総督は1839年から42年にかけて3回にわたって調査隊を派遣した。…

※「ムハンマドアリー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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