マラータ王国(読み)マラータおうこく(英語表記)Marātha

精選版 日本国語大辞典 「マラータ王国」の意味・読み・例文・類語

マラータ‐おうこく‥ワウコク【マラータ王国】

  1. ( マラータはMarāṭha ) 中世インド王国。一七世紀中ごろシバージーが建てたヒンドゥー王国。一八世紀初頭から、マラータ族諸国の政治的連合体(マラータ同盟)を支配してインド最大の勢力となり、イスラムイギリス勢力に抵抗したが、三度にわたるマラータ戦争に敗れ、一八一八年滅亡した。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「マラータ王国」の意味・わかりやすい解説

マラータ王国
まらーたおうこく
Marātha

インド中央部、デカン高原を中心として、1674年シバージーによって創始されたヒンドゥー王朝。17世紀前半のデカン地方には、いわゆるデカン・ムスリム諸王朝が割拠していたが、在地には主として郷主(デーシュムクDeshmukh)とよばれる人々を中心とする土豪的勢力が成長していた。ビジャープールのアーディル・シャーヒー王国の有力な武将であったシャーハジーの次男に生まれたシバージーは、1840年代から、父の封地のあったプーナ(現、プネー)地方を拠点として、これらの在地豪族層を組織し、アーディル・シャーヒー王国と敵対し始めた。プーナ周辺には「十二谷地方」(バーラー・マーワル)とよばれる山岳地帯があり、シバージーはここを本拠として山岳ゲリラ戦を行いながら勢力をしだいに拡大していった。当時、北からのムガル帝国による圧迫にも苦しんでいたビジャープール王国は、シバージーの活動を抑えるだけの実力をもっていなかった。こうしてスワラージャとよばれる本領を確立したシバージーは、1674年ラーイガルの山城でヒンドゥーの作法にのっとって即位の灌頂(かんちょう)を挙行し、マラータ王国を建国した。1680年シバージーが死ぬと、ムガル帝国の圧迫がさらに強まり、その子サンブージーSambhaji(1657―1689)は1689年ムガル軍に捕らえられて処刑された。その後サンブージーの弟ラージャラームが第3代王(在位1689~1700)となり、ムガルの攻撃を逃れてはるか南方のジンジに移って抵抗を続けた。1699年ごろになると、マラータの在地勢力はムガルを押し返し始め、ラージャラーム王もサーターラ城に戻って、マラータ勢力は回復した。

 1707年ムガル帝国第6代皇帝アウランゼーブが死ぬと、ムガルはデカン地方から軍を返すことに決定し、それまでムガル宮廷で育てられていたサンブージーの息子シャーフーShahu Bhonsele(1682―1749)を放免した。そのため、ラージャラームの息子シバージー2世を支持する勢力と、シャーフーを支持する勢力とに分かれて抗争が起こったが、結局シャーフーをマラータ王とすることとなり、シバージー2世はコルハプールの分国を与えられた。シャーフーがデカン地方の状況に疎かったこともあって、政治の実権はその宰相バーラージー・ビシュワナートが掌握することとなり、その後この家系が宰相(ペーシュワー)位を世襲するようになった。とくにシャーフー王の死(1749)後は、マラータ王は完全に名目的存在と化し、むしろ宰相によってサーターラに幽閉されているというほうがよい状態となった。こうしてマラータ勢力の中心はプーナの宰相府に完全に移ったのである、それに伴いマラータ勢力の内実は、宰相府を中心としてマラータ諸侯が連合体を形成するという形をとるようになった。こうしてマラータ王国は、なし崩し的な形でマラータ同盟へと変質していった。

[小谷汪之]

『小谷汪之他著『世界の歴史 24 変貌のインド亜大陸』(1978・講談社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マラータ王国」の意味・わかりやすい解説

マラータ王国
マラータおうこく
Marāthā

中世インドの王国。マラータとは,広義ではマハーラーシュトラ地方人一般をさし,マラータ王国はこの意味で使われる。狭義ではそのなかで農業,軍事を職掌するマラータ・カーストをさす。 17世紀,マハーラーシュトラ西部のプーナの近くの領主の子として生れたシバージーは,周辺のマラータ・カーストを結集し,アーディル・シャーヒー王国から離れて勢力を広げ,南進してきたムガル帝国の軍隊を討って,1674年,ラーイガルで即位式を行い,マラータ王国を建設した。彼はその後 80年に没したが,支配体制を再編し,マラータの宗教と倫理を鼓吹して,ムガル帝国に対抗した。彼の子と孫の時代は優勢なムガル軍に対して苦戦を重ねたが,ムガル皇帝アウラングゼーブの死後,マラータ王国の実権が宰相 (→ペーシュワー ) のバット家の手に渡ると,その指揮のもとでマラータ王国は盛返し,ムガル帝国の衰退に乗じて,中央インドからグジャラート,ラージャスターン,さらにベンガルまでも軍隊が進撃し,デリーをも占領したが,1761年にデリーの北方,パーニーパットでアフガンの軍隊に破られた (→パーニーパットの戦い ) 。だが中央インドなどの征服地にはマラータの諸侯が支配権を固めた。主要な諸侯はナーグプルのボンスレー家,グワリオルのシンディア家,インドールのホールカル家,バローダのガーイクワール家である。諸侯はペーシュワーを中心としてマラータ連合をつくり,インドで最強の勢力となったが,ペーシュワーの権力の衰退とともに,諸侯は独立して同盟の結束力が弱まり,ペーシュワーに対する諸侯の貢納問題やペーシュワーの相続争いを通じて相互に反感をいだくようになった。イギリスはこれを巧みに利用して,3次 (1775~82,1803~05,17~18) にわたるマラータ戦争を行なって,次々に諸侯を従属させ,最後にはペーシュワーを滅ぼしてその所領を奪い,マラータ王国を終息させた。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「マラータ王国」の解説

マラータ王国
マラータおうこく
Marāthā

17世紀半ば〜1818
シヴァージーが創始し,インド・デカン高原中・西部に展開したヒンドゥー王国
シヴァージーが,ムガル帝国のアウラングゼーブ帝に対抗して,1674年にマハーラシュトラ地方に建国。18世紀には,各地の半独立的なマラータ諸侯が政治的に連合した(マラータ同盟)が,後継者争いや諸侯間対立からイギリスにつけこまれ,3回のマラータ戦争により1818年決定的敗北を喫し,崩壊した。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android