マルセイユ(英語表記)Marseille

デジタル大辞泉 「マルセイユ」の意味・読み・例文・類語

マルセイユ(Marseille)

フランス南部、地中海に面する港湾都市。前6世紀にギリシャの植民地マッサリアとして建設され、17世紀に自由港となって発展。フランス第一の貿易港で、造船・化学工業なども盛ん。人口、行政区86万(2008)。マルセーユ。

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精選版 日本国語大辞典 「マルセイユ」の意味・読み・例文・類語

マルセイユ

  1. ( Marseille ) フランス南部、地中海に面した港湾都市。同国第一の貿易港。石油精製・食品・化学・造船などの工業が発達している。起源は古代ギリシアの植民市。

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改訂新版 世界大百科事典 「マルセイユ」の意味・わかりやすい解説

マルセイユ
Marseille

フランス南部,ブーシュ・デュ・ローヌ県の県都,港湾都市。人口80万(1999)。石灰岩山地に囲まれ,西は地中海に臨み,沖合にはポメーグ島,ラトンノー島,シャトー・ディフ島がある。フランス第2の都市であるが,郊外人口を含めた都市圏人口は108万(1982)で,リヨンに第2の地位を譲る。1801年に約11万であった人口は19世紀を通じて増え続け,第1次世界大戦前に50万を超えた。両大戦間は人口停滞期であったが,1945年以降急激に増加し,今日では市域は飽和状態に達し,60年以降近郊都市の人口成長が著しい。港湾行政では西部のフォス湾までを含み,地域開発のための広域組織であるプロバンス,アルプ,コート・ダジュール地域の中心都市である。

マルセイユは港湾活動によって生きてきたが,今日でも本質的にはそのことは変わらない。東西に細長い旧港(ビュー・ポール)は南をガルドの丘,北を小高い高まりに挟まれ,南西に開かれた入口は狭く,冬の北西風ミストラルや海からの攻撃防御に対して優れた位置を占めてきた。長い間港湾活動はこの旧港で行われてきたが,19世紀中ごろには船数の増大,大型化とともに不十分なものとなり,旧港から北にジョリエット埠頭が建設され,港湾施設の背後には工場,さらに労働者の街が形成されていった。一方,南にはローマ通りの延長に県庁,さらに真直ぐ南に延びたプラド大通りに沿って,瀟洒(しようしや)な住宅街が形成されていった。サン・シャルル駅,ノートル・ダム・ド・ラ・ガルド教会,マジョル大聖堂,商工会議所など,旧港を中心に近代マルセイユの主要骨格がつくられたのは19世紀の後半である。まさに港湾活動を活気づけたフランス植民地支配の盛期にあたる。第2次世界大戦末期ドイツ軍,連合軍による爆撃をうけたが,旧港に北接する込み入った一画は一掃され,新しい街区に取って代わられ,さらに南ではプラド大通りの延長ミシュレ大通りに沿って近代的建築が建ち並び,52年にはル・コルビュジエの〈輝ける都市〉と呼ばれた集合住宅〈ユニテ〉が建てられた。今日旧港はマルセイユ第一の観光名所となり,港に面して市役所,すぐ近くに商工会議所があり,その前を港から東に延びるカヌビエール大通りはマルセイユきっての目抜き通り,そこから県庁に至る地区は高級商店,百貨店,銀行,映画館などが集中し都心をなす。さらに商工会議所の北,近年発見されたギリシア時代の港の遺跡に隣接して,新しいセンターが建設されつつある。こうした華やかな一画に隣りあって,サン・シャルル駅からベルサンス通りの間の街区は,60年代,とりわけアルジェリア戦争後,北アフリカからの移住が著しく,北アフリカ人のゲットー(集団居住区)となっている。

第2次大戦による大きな被害があった港湾は修復され,市発展の原動力となったのみならず,戦争末期以来フランス経済において大きな役割を演じてきた。岸壁は拡張され現在総延長19kmに及び,フォス湾,ベール湖などを含めてフランス第1,ヨーロッパ第2の港となっている。マルセイユ港は雑貨,農産物,伝統的港湾工業と結びついた原料を取り扱う。20世紀に入りエネルギー源として石油が登場するとともに,北西のベール湖に沿って港湾および石油基地が建設されたが,湖の水深および湖と地中海をつなぐマルティーグの入口の狭さのため,港湾としては不十分なものとなり,今日ではパイプラインによる輸送が行われ,ベール湖畔はフランス第一級の石油基地となっている。ペルシア湾岸,北アフリカ産の原油は当地で精製されるほか,半分は原油のままパイプラインでリヨン,ストラスブール西ドイツなどの精油所に送られる。また1960年代後半以降ベール湖の西,クロー平野に掘込式港湾と臨海工業地域の建設が国を挙げて行われている。

マルセイユの工業は,植民地をはじめ海外からの輸入資源を加工する工業として発達してきた。マルセイユセッケン(日本では誤ってマルセルセッケンと呼ばれる)で有名なセッケン製造や食料油製造は,アジア・アフリカの熱帯産植物性原料を利用するものであったが,合成洗剤の出現や北部フランスに新鋭工場が立地し衰退した。コルベールの時代からアンティル諸島サトウキビを精製してきた砂糖工業は今日も継承され,サン・ルイにある工場でレユニオン,マダガスカルを中心としたインド洋諸国からの原料を精製している。石油ならびにその関連工業はベール湖,フォス湾臨海工業地帯に立地し,2万近くの従業者があり,地域の中でも大きな雇用の場を形成している。また地元資源を利用する工業としては豊富な石灰岩と輸入燃料を利用するセメント工業,地中海産の塩を原料とするソーダ工業アルミニウム工業などがある。あまり振るわない機械工業の中にあって,造船業,航空機工業が健在である。古くから活動の中心であった第3次産業部門はいっそう活発化しており,その機能を拡大している。行政,商業,金融,教育など大きな地域の中心機能を有しており,マルセイユの発展に大きく貢献している。近年の都市成長に対しては,都市中心と郊外との交通体系を整備するため,77年以来地下鉄が開通し,北東郊外のローズと中心を結び東に延びつつある。北西~南東を結ぶ2号線も建設中である。さらに都市間の関係においては,70年以来マルセイユ~パリ間の高速道路が開通し,北部のエクサン・プロバンス,東のオーバーニュ・トゥーロン,北西のマルセイユ・マリニャン空港などマルセイユの近郊住宅地化が促進されている。
執筆者:

歴史時代において最初にマルセイユに定着したのは,ギリシア人であり,彼らは小アジアのイオニア系都市フォカイアから植民してきた。当初,沖合の島嶼部分に定住し,のちに現在の旧港沿いの地に移住したものとみられる。フォカイア人のマルセイユ創建は前600年ころとされるが,これに前後してフォカイア人は東北スペインのアンプリアスなど西地中海植民市を建設していた。フォカイア人の建設したマルセイユは古名をマッサリアMassaliaと呼ぶ。アルル,ニースなどの南フランスの都市も,マッサリアの市民によって創建された。マッサリアは商業港として繁栄し,すでに前4世紀には,先進的商人はアフリカ西岸にまで達していたとされる。都市施設が整備され,その様相は,現在,旧港の東に隣接した一帯での発掘によって明らかになっている。前3世紀以降,マッサリアはガリア人,およびカルタゴ人の圧迫をうけるようになり,援助を新興のローマに求める。南フランス一帯での戦闘は激しかったが,ローマの勝利に帰し,マッサリアはローマの保護下に入る。しかし,マッサリアはギリシア人とその文化の拠点として尊重され,ローマとの間に自由連合を結んで地位を保った。ガリア全土を制圧したカエサルが,三頭政治のもとでポンペイウスと対立したとき,マッサリアはポンペイウス側に立ち,敗れて都市は衰運に向かった。

 ゲルマン人の侵入,次いでイスラム教徒の海上からの攻撃をうけて,中世初期のマルセイユは,かつての繁栄を失った。マルセイユ司教は,旧港北部の高台に城砦を築いて防衛し,これがのちのマルセイユの再出発の起点となった。地中海貿易にヨーロッパ人が参加し,十字軍遠征が開始されると,商人たちが旧港の北岸に定着し,港湾の恵まれた条件を利用して,繁栄を取り戻した。旧港南岸に5世紀に建てられた教会堂(サン・ビクトール)とともに,新しいマルセイユの推進力となる。12~14世紀には,マルセイユ商人は,東はパレスティナ,エジプト,コンスタンティノープルから,西はマグリブ地方,スペインに至る地中海世界全域を舞台として,貿易活動に従事する。1212年,少年十字軍の悲劇として知られる事件は,マルセイユ商人に責任ありとみられる。1481年マルセイユは全プロバンスとともにフランス王国に併合される。新大陸発見ののち,16世紀に一時にぎわったが,地中海の経済的効用は低下を続け,1660年ルイ14世への反乱と鎮圧,1720年のペスト大流行などもあって,没落に向かっていった。

 フランス革命の際,多くのマルセイユ市民は革命側に投じたが,パリに赴いた市民たちが歌った行進歌が,のちに〈ラ・マルセイエーズ〉と呼ばれ,現在のフランス国歌となった。1830年のアルジェリアの植民地化,69年のスエズ運河開通は,地中海港湾としてのマルセイユに重要性を回復させた。フランスと北アフリカ,フランスとアジアを結ぶ航路がここに集中し,西ヨーロッパの玄関となって,19世紀後半以降,近代産業・海港都市として高い地位を占めるにいたった。
執筆者:

旧港南岸のサン・ビクトール教会は,戦略上の要所にあったので銃眼付の塔を備え砦の外観を呈する。内部はさまざまな時代の建物を含み,教会堂(13~14世紀),北塔玄関口(11世紀),西部分の地下に現存する最初の教会堂(5世紀)などが残り,石切場跡を使った墓室群はさらに古い。マジョル大聖堂のそばに残る旧大聖堂はロマネスク様式の建築。発掘により明らかになった隣接の洗礼堂(4世紀末)の並外れた広さは,当時この地でのキリスト教の隆盛ぶりを物語る。標高162mに建つノートル・ダム・ド・ラ・ガルド教会は,聖母にささげられた古い礼拝堂の跡に建立されたもので,塔の上に金色の聖母子立像を頂き,旧港や海上のシャトー・ディフを見下ろす市の象徴となっている。18世紀の貿易商ボレリーBorélyの建てた邸宅は,現在,地中海考古学博物館,および柱頭や石棺などを集めた石彫美術館になっている。当地出身の彫刻家ピュジェ,画家ドーミエらの作品を収蔵する美術館のほか,歴史,航海などの博物館がある。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「マルセイユ」の意味・わかりやすい解説

マルセイユ

フランス南部,ブーシュ・デュ・ローヌ県の県都。地中海北西隅リオン湾に臨む港市。フランス第2の都市。フランス最大の貿易港で,インド洋航路の要地。造船,機械,化学,製油,建築資材,食品などの工業が行われる。ロマネスク式のノートル・ダム・ド・ラ・ガルド教会,12世紀のラ・マジョル大聖堂,ルネサンス様式のロンシャン宮(美術館)などがある。前6世紀イオニアのフォカイア市植民地,前49年カエサル占拠,イスラム勢力,アンジュー家,アラゴンの支配を経て,1481年フランス領。80万550人,都市圏人口108万7000人以上(1990)。
→関連項目フランスプロバンス

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旺文社世界史事典 三訂版 「マルセイユ」の解説

マルセイユ
Marseille

フランス南部,地中海に臨む港湾都市
古代ギリシア人の植民地として建設され,マッサリア(マッシリア)と呼ばれた。地理的条件に恵まれた良港で,地中海貿易の拠点として長く栄えた。15世紀末よりフランス王室領となり,近代にはいり,スエズ運河の開通やアフリカ植民地の経営により,さらにその重要性を加えた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「マルセイユ」の解説

マルセイユ
Marseille

フランス,地中海岸の港市。前600年頃建設のギリシア植民市マッサリアが起源で,地中海貿易の中継港として繁栄した。特に十字軍時代には独立の自治都市として最盛期を迎えたが,1481年王領に併合された。

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