フランク王国の宮宰。後世「鉄槌(てっつい)」(ハンマー)の異名でよばれた。宮宰ピピン(中)の庶子。714年、父の死とともに、一時統一されていたフランク王国はふたたび分裂、ノイストリアの豪族たちはラゲンフリードを宮宰に選び、他方義母のプレクトルーディスは、アウストラシアの宮宰職を、幼い己の孫に確保すべく、カールを幽閉した。だが脱出に成功したカールは、717年までに宮宰としての支配権を確立、さらに724年まで数度の戦いでノイストリアを破り、フランク王国の再統一を達成した。737年まではメロビング家の名目的な諸国王の下で、それ以後は国王をいただかずに、カールは実質的な支配者として、フランク王国を統治した。732年トゥール・ポアチエの戦いで、スペインから侵入したイスラム教徒を撃退したことは、カール個人およびカロリング家の権威を大いに高め、後のカロリング王朝への途(みち)を開いた。
カールは国内ではノイストリアやブルグントの豪族たちの反抗を抑え、東方や北方では、フリーセン人、ザクセン人、アレマンネン人、バイエルン人などをフランクの宗主権に服させるべく努力した。そのための手段として異教徒のキリスト教化に着目し、聖ボニファティウスらの布教活動を援助した。
トゥール・ポアチエの勝利は、騎兵軍を中核としたアウストラシア豪族層の力によるところが大きく、カールは騎兵軍を増強するため、教会領の大規模な接収を行い、これを豪族層に封土として与えた。これが封建制(レーン制)の発端とされる。
[平城照介]
フランク王国の宮宰。エルスタルのピピン2世の庶子。フランス名シャルル,イギリス名チャールズ。その父の死(714)とともに,彼はメロビング家の諸王を相互に争わせて無力化し,自らアウストラシアを治めるとともに,ネウストリア,ブルグントをも事実上統一して,そのすべての宮宰職を握った。ザクセン,フリーゼン,チューリンゲン,バイエルン等に遠征するほか,彼は732年にポアティエで,北上するイスラム軍を撃退し(トゥール・ポアティエの戦),その名を西欧キリスト教圏に高め,その勢いをかって,アキテーヌやプロバンスにも手をのばした(737年と739年の遠征)。彼は増大する重装騎兵の恩貸地を確保するために,教会領にこれらを設定したが,ローマ教会とはあくまで友好関係を保ち,特に聖ボニファティウスのゲルマニア伝道を助けた。彼の別名マルテルは〈槌〉を意味し,彼の政策の強烈な印象を示し,事実この力が,後のカロリング朝を生み出すことになる。
執筆者:森 洋
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689~741
フランクの宮宰(きゅうさい)。中ピピンの庶子,714年父より宮宰職を継ぐ。ネウストリア貴族,ザクセン,フリーゼン,アラマン人を討ち,720年全王国の宮宰となる。732年トゥール‐ポワティエ間の戦いでイスラーム教徒を撃退,その後ブルゴーニュ,ラングドックを支配,平定。737年以来王を置かず,唯一の実力者として王国を統一,カロリング朝支配の基礎を固めた。
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…732年にフランク王国の宮宰カール・マルテルが,フランス西部,トゥールToursとポアティエPoitiersの間において,イスラム教徒の軍を撃退した戦闘。729年スペインの地方総督アブド・アッラフマーン‘Abd al‐Raḥmān al‐Ghāfiqī(?‐732)に率いられたイスラム軍は,ロンスボー(ロンセスバリェス)の峠を通ってピレネー山脈を越え,ガスコーニュ地方を襲い,さらにボルドーを占領したうえ,ガロンヌ川右岸でアキテーヌ公ウードの軍を粉砕した。…
※「カールマルテル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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