共和政末期ローマの政治家,将軍。いわゆる三頭政治家の一人。父ゆずりのピケヌム(中部イタリアのアドリア海に面する地方)の地を軍事的・政治的・経済的地盤(クリエンテル)として政界に登場した。まず同盟市戦争で,父のもとで軍人としての第一歩をふみだした後,前83年はじめ,独力でピケヌムの地から3個軍団を召集してスラのために活躍し,とくにシチリア,アフリカでマリウス派の残党を討ち,若年かつ無冠にして凱旋式挙行をスラに認められた。スラの死後もスラ体制の護持に尽くし,イベリア半島のセルトリウスを撃破(前77-前71)した後,前71年,その帰路にはスパルタクスの反乱の息の根をとめて声望を高め,第2回の凱旋式を行い,クラッススとともに前70年のコンスル(執政官)に選ばれ,スラの裁判関係の規定の変革と護民官の権限の回復をはかった。しかし権力の増大とともに元老院と対立し,民衆派と結び,前67年にはガビニウス法により地中海の海賊討伐の大権を与えられて,長年にわたりローマを悩ました海賊を3ヵ月で地中海から一掃した。翌前66年には,マニリウス法によりポントゥス(ポントス)のミトリダテス6世討伐の大権を与えられて,これを破り,またアルメニアのティグラネス1世を捕らえたばかりか,前63年までにエジプトを除く全東方を平定し,ミトリダテスの旧領を合して属州ビテュニアを拡大して属州ビテュニア・ポントゥスとし,属州シリアを設け,地方領主や諸王によるクリエンテル網を確立してその後の政治生活の地盤とした。
前61年凱旋式を挙行し,前60年にはクラッススおよびカエサルと結んで第1次三頭政治をはじめ,前59年のコンスルにカエサルを就けることによって,自らの東方での秩序設定を承認させ,自分の老兵への土地配慮を行わせた。一方,カエサルの娘ユリアを娶り,カエサルのガリア遠征中は,最初クロディウスにおされていたが,前57年,ローマの穀物供給管理の権限(5ヵ年)を得るなど,次第に中央ローマで力を伸ばした。前56年にはルカで,クラッススおよびカエサルとの三者の盟約を更新して,前55年にはクラッススとともに再度コンスルに選ばれた。しかし三者の関係は前54年のユリアの死,前53年のクラッススの戦死によって崩れた。その間,任地として両スペインが与えられたが,赴任することなく副司令(レガトゥス)を派遣して,自らは首都ローマの政治を動かしていった。前52年には一時同僚なしの単独コンスルに任ぜられている。次いでカエサルのガリアからの召還をめぐっての争いには,カエサルに対立する元老院の保守派にかつがれて,実質上の全権を付与され,前49年1月以降はカエサルとの内戦にはいった。しかし,ルビコン川を渡ってガリアから南下してきたカエサルに追われて,地盤である東方に逃れ,そこで勢力を結集した。次いで彼の地盤の一つであったスペインを制圧して,東方に追ってきたカエサル軍と,前48年の春から夏にかけてのエピルスのデュラキウムでの陣地戦の末,前48年8月9日,テッサリアのファルサロスの決戦に敗れ,エジプトに逃れたが,エジプト王の配下に暗殺された。
ローマを長年にわたって悩ませた外敵との戦いに終止符を打ち,東方を平定した将軍としての業績は,高く評価される。またクリエンテス関係のもつ役割を十分に見抜き,積極的に利用したばかりか,ある種の世界帝国理念をも保有した政治家であり,とりわけ組織の才に恵まれていたといえる。若い頃には無冠にして大権を授けられるなど,法を超える形で権力を伸張したにもかかわらず,晩年には元老院の保守派いわゆる秩序護持派にかつがれて,カエサルに相対さざるをえなかった。将軍・政治家として同時代人を抜きんでるみごとな才能を有していたとはいえ,カエサルとの対立・抗争を通して明らかになるのは,両者の政治家としてのスケールの差であり,また人間性の差でもある。
執筆者:長谷川 博隆
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古代ローマ、共和政末期の政治家、将軍。いわゆる第1回三頭政治を敷いた政治家の一人。父譲りのピケヌム(中部イタリアのアドリア海に面した地方)の地を軍事的、政治的、経済的地盤(クリエンテル)として政界に登場する。まず同盟市戦争で、父のもと軍人としての第一歩を踏み出したのち、紀元前83年初め、独力でピケヌムの地で大軍を招集して注目を浴び、スラのもと軍人として活躍し、とくにシチリア、アフリカでマリウス派の残党を討った(第1回の凱旋(がいせん)式)。スラの死後もスラ体制の護持に尽力し、イベリア半島のセルトリウスを撃破した(前77~前71)のち、その帰路にスパルタクスの反乱の息の根を止めて声望を高め、第2回の凱旋式を行い、クラッススとともに前70年のコンスル(執政官)に選ばれ、スラの裁判関係の規定を変革し護民官の権限を回復した。しかし、しだいに元老院と不和になり、民衆派と結び、前67年にはガビニウス法で地中海の海賊討伐の大権を与えられて、長年にわたりローマを悩ませた海賊を短時日で地中海から一掃した。さらに翌年には、マニリウス法でポントス王国のミトリダテス6世討伐の大権を与えられて、これを破り、アルメニアのティグラネス1世を捕らえたばかりか、前63年までにエジプトを除く全東方を平定した。ミトリダテスの旧領(ポントス王国)を合して属州ビテュニアを拡大して属州ポントス・ビテュニアとし、属州シリアを設け、クリエンテル領主網を確立したのである。前61年第3回の凱旋式を挙行し、翌年にはクラッスス、カエサルと結んで第1回三頭政治を始め、前59年のコンスルにカエサルを就けることによって、自らの東方での秩序設定を承認させ、自分の老兵への土地配慮を行わせた。一方、カエサルの娘ユリアをめとり、カエサルのガリア遠征中は、ローマの穀物供給管理の権限を得るなど、しだいに中央ローマで勢力を伸長した。
前56年ルカでクラッスス、カエサルとの三者の盟約が更新され、前55年にはクラッススとともに再度コンスルに選ばれた。しかし三者の関係は、前54年のユリアの死、翌年のクラッススの戦死をもって崩れた。その間、コンスル後の任地として両スペインが与えられたが、赴任することなく、首都ローマの政治を動かしていった。前52年には同僚なしの単独コンスルに任ぜられてさえいる。ついでカエサルのガリアからの召還をめぐっての争いには、カエサルに対立する元老院の保守派に担がれ、実質上の全権を付与されて、前49年1月以降カエサルとの戦いに入った。ルビコン川を渡ってガリアから南下してきたカエサルに追われ、自らの地盤である東方に逃れて、そこで勢力を結集した。しかしその地盤の一つであったスペインをカエサルに抑えられたのち、東方に追ってきたカエサル軍と前48年の春から夏にかけてエピルスのデュラキウムの陣地で戦い、同年8月9日、テッサリアのファルサロスの決戦に敗れ、エジプトに逃れたが、9月28日エジプト王の配下に暗殺された。
彼は、セルトリウス戦争やスパルタクスの蜂起(ほうき)を抑え、さらに海賊討伐やミトリダテス戦争で、ローマを長年にわたって悩ませた外敵との戦いに終止符を打ち、東方を平定したことなどから、その将軍としての業績が高く評価される。またそのクリエンテル関係のもつ役割を十分に認識し、積極的に利用しえた、ある種の世界帝国理念さえもっていた政治家で、とりわけ組織の才に恵まれていたといえる。若いころには法を超える形で無冠のまま権力を伸長したのに、晩年には元老院の保守派すなわち秩序維持派に担がれて、カエサルに相対さざるをえなかった。将軍、政治家として同時代人をぬきんでる才能を有していたとはいえ、カエサルとの対立・抗争を通して明らかになるのは、両者の政治家としてのスケールの差と、なによりも人間性の差である。
[長谷川博隆]
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前106~前48
古代ローマの将軍,政治家。まず同盟市戦争で父のもとに軍人としての第一歩を踏み出し,のちスラの支持者として政界に登場した。ヒスパニアのセルトリウスを討ち,前70年コンスルになり,前67年海賊を討伐した。前62年までにエジプトを除く東方を平定し,前60年カエサル,クラッススと三頭政治を行った。やがてカエサルと対立して戦い(前49~前48年),敗れてエジプトに逃げ,暗殺された。
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…前70年以降は民衆派(ポプラレス)の立場にたって,元老院の保守派に相対した。前69年(前68年説もある),財務官としてスペインに赴き,前67,前66年にはポンペイウス支持の立場を示し,前65年には按察官(アエディリス)として華々しく剣闘士競技を催して人心の収攬(しゆうらん)につとめ,前63年には大規模な買収で大神官になった。なおカティリナの陰謀に荷担したか否かについては,否定説が有力である。…
…ローマに戻った後は,法廷弁論のかたわら政治の道を歩み始め,前75年にクアエストル(財務官),前66年にはプラエトル(法務官)に選出された。このころキケロは,ローマとポントスのミトリダテス6世の戦争をめぐってポンペイウスを支持する演説を行い,以後ポンペイウスと政治的親交を維持するようになる。前64年キケロはガイウス・アントニウスとともに翌年のコンスル(執政官)に選ばれた。…
…いわゆる第1回三頭政治を行った。スラのもとで武勲をたてた後,前73年の法務官職を経て,前72年スパルタクスの反乱を鎮定し,ポンペイウスとともに前70年のコンスル(執政官)に選ばれ,護民官職権の回復をはかった。金貸し,貸家の所有,鉱山経営,法廷活動などによる致富の道にたけ,財力をもって政界での発言力を増してゆく。…
…帝政成立前夜のローマで,有力将軍が連携して元老院を制肘(せいちゆう)し共和政体を空洞化させてゆく際の特徴的政治形態。前43年アントニウス,オクタウィアヌス(アウグストゥス),レピドゥスの三者が民会決議で〈国家再建のための三人委員〉となり,全権を掌握した事態を第2次三頭政治と呼び,前60年ポンペイウス,カエサル,クラッススが私的盟約により国政を牛耳ったのを,〈三人委員〉との類似から第1次三頭政治と呼ぶ。(1)第1次三頭政治 東方遠征から帰還したポンペイウスは退役兵への土地配分等の課題達成のため,前59年のコンスルのカエサル,その後援者クラッススと密約し,彼の勢力を警戒する元老院門閥の妨害を封じた。…
…前83年にはアルメニア王ティグラネス1世Tigranēs Iが侵入し,アンティオキアを占領した。このころまでに東方進出政策を推進していたローマ人は,これに介入して将軍ポンペイウスを派遣し,シリアをローマの属州とし(前64),小王国や都市には自治を許した。 ローマ帝国にとって,シリアはパルティアに対する軍事作戦基地や防衛拠点としてきわめて重要な意味をもっていたので,1世紀中葉までにここに4軍団を配備し,治安の確保に努め,寝返りの恐れのある小王国は次々に併合した。…
…公職を欠き,命令権のみを得る特例はプラエトルにも生じ,後に属州総督に正規公職者と同一任期(1年間)のプロコンスル,プロプラエトルを任じるに至って両者の命令権は一時的な代理権限の域を脱し,任地統治のための独立の権限になった。この任地でのプロコンスル命令権を地中海全域にわたる非常大権に拡張したのがポンペイウスである(前67)。彼は海賊征討の任務終了後,全権を返上したが,前23年,アウグストゥスは終身の上級プロコンスル命令権を取得し,元老院所管属州の総督(プロコンスル,プロプラエトル)を監督し,元首所管属州へプロプラエトル命令権をもつ元首代行(レガトゥスlegatus)を送り,全属州を掌握した。…
…前4世紀末にミトリダテス1世によってポントス王国が建設され,前1世紀前半にはミトリダテス6世のもとで王国は最大の繁栄を迎える。しかし,第3次ミトリダテス戦争でポンペイウスの率いるローマ軍に敗れ,前63年に6世が自殺すると,王国は東西に二分されてローマの支配下に置かれた。ポンペイウスはこの地域の都市化を促進し,交易路を整備したが,帝政期に入ってもこの地(特に東部)はローマ化の波に抗してその土着的性格を保持し続けた。…
…この変革期を乗り切るために,ローマの支配層は,民会を基礎にして政治を動かそうとする民衆派(ポプラレス)と,元老院の権威を背景に事を進めようとする閥族派(オプティマテス)に分かれて,権力闘争を繰り広げた。こうして,マリウス派を一掃して殺戮し恐怖政治を敷いた閥族派スラ,スラの外征中に一時政権を握った民衆派のキンナ,スラの死(前78)後,再び民衆派路線に復帰した,かつてのスラの領袖ポンペイウスとクラッスス,そして再び元老院に接近したポンペイウスを倒すカエサルらが相次いで現れた。 彼らは権力闘争に勝つための権力基盤を外征にも求めたため,この時期にはかえってローマの支配領域は拡大した。…
※「ポンペイウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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