ミコヤン(読み)みこやん(英語表記)Анастас Иванович Микоян/Anastas Ivanovich Mikoyan

デジタル大辞泉 「ミコヤン」の意味・読み・例文・類語

ミコヤン(Anastas Ivanovich Mikoyan)

[1895~1978]ソ連の政治家。第二次大戦前から経済閣僚として重きをなした。副首相・ソ連最高会議幹部会議長などを歴任。1965年引退。

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精選版 日本国語大辞典 「ミコヤン」の意味・読み・例文・類語

ミコヤン

  1. ( Anastas Ivanovič Mikojan アナスタス=イワノビチ━ ) ソ連の政治家。フルシチョフをたすけ、スターリン批判推進。副首相、ソ連最高会議部会議長などを歴任。一九六五年に引退。(一八九五‐一九七八

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改訂新版 世界大百科事典 「ミコヤン」の意味・わかりやすい解説

ミコヤン
Anastas Ivanovich Mikoyan
生没年:1895-1978

ソ連邦の政治家。アルメニア人の革命家として,1915年にソ連邦共産党の前身であるロシア社会民主労働党に入党。17年からの革命に際してはアゼルバイジャンのバクー活躍し,20年のバクー労働者の武装蜂起に参加。この後ニジニ・ノブゴロド(現,ゴーリキー)をはじめとして地方党機関においてスターリン主流派の党官僚として活動した。23年に中央委員となって76年までその地位にあり,1926年から政治局員候補,外国貿易・国内商業人民委員として,商業,貿易の組織化を行った。28-29年以後の全面的集団化期には穀物調達の責任者として党,政府のなかで活躍した。30年代には補給,食品工業,対外貿易の責任者を歴任,また37年には人民委員会議副議長となり,このころスターリンのもとで政治局員となった。第2次世界大戦以後も一貫して対外貿易,商業を中心に働くが,特に56年の第20回共産党大会においてフルシチョフとともにスターリン批判の先頭に立ち,57年フルシチョフ退陣をせまる反党グループ事件においてフルシチョフを支持し,モロトフらの追放に協力した。64年には最高ソビエト議長として国家元首になり,10月にはフルシチョフ党第一書記兼首相の失脚に立ち会う。その後65年にこの職をみずから辞し,半ば引退生活を送りながら回想録執筆遺体はノボデビーチー修道院墓地に葬られた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミコヤン」の意味・わかりやすい解説

ミコヤン
Mikoyan, Anastas Ivanovich

[生]1895.11.25. チフリス(現トビリシ),サナイヤン
[没]1978.10.21. モスクワ
ソ連の政治家。チフリスの神学校卒業。 1915年ボルシェビキに加入し,カフカスにおける革命運動の指導者の1人となった。 19年9月モスクワで党中央委員会の指令を受け,アゼルバイジャン共産党の組織化に成功。 26年ソ連政府の商業・貿易人民委員に就任,55年まで同種の職務を担当,外交交渉においてその機略縦横の手腕をうたわれるようになった。その間中央政治においても昇進を重ね,第2次世界大戦中の 42~45年には国家防衛委員会の委員として活躍,その功により 43年に社会主義労働英雄の称号を受けた。 46~53年ソ連閣僚会議議長代理 (副首相) 。 56年第 20回党大会で I.スターリン批判の演説を行い,58年 N.フルシチョフ内閣の第一副首相に就任。その後の権力抗争中一貫してフルシチョフにくみした唯一の長老政治家となった。 64年7月~65年 12月最高会議幹部会議長 (国家元首) 。 64年 10月フルシチョフ失脚後もブレジネフ=コスイギン政権の補佐役として活躍。 65~74年最高会議幹部会員。その後引退。その端倪すべからざる政治力によって,オールド・ボルシェビキとして常に政権の上層部のなかを生延びた,ソ連史上稀有の政治家。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミコヤン」の意味・わかりやすい解説

ミコヤン
みこやん
Анастас Иванович Микоян/Anastas Ivanovich Mikoyan
(1895―1978)

ソ連の政治家。11月25日にアルメニアに生まれる。公式には大工の息子といわれている。チフリス(現トビリシ)の神学校を卒業後、1年間、神学大学で学ぶ。1915年にボリシェビキ党に入り革命運動に従事。1922年に党中央委員候補に選ばれ、1923年に中央委員、1926年に党中央委政治局員候補となり、内外商業人民委員として初入閣。1935年に政治局員に昇格、1937年には人民委員会議副議長(副首相)となる。第二次世界大戦中は国家防衛委員会委員として食糧や燃料の供給で活躍。戦後も1946年から1955年までは副首相、それ以降1964年までは第一副首相を務める。1964年7月には最高会議幹部会議長(国家元首)となり、10月のフルシチョフの解任では重要な役割を果たした。1965年12月に健康上の理由で同議長を辞し、1966年春には党中央委幹部会員の地位からも引退した。1978年10月21日にモスクワで死去した。

[中西 治]

『小川政邦・上田津訳『ミコヤン回想録1 バクー・コンミューン時代』(1973・河出書房新社)』

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百科事典マイペディア 「ミコヤン」の意味・わかりやすい解説

ミコヤン

ソ連の政治家。アルメニア出身。ロシア革命,内戦期にカフカスで革命運動を指導。1935年ソ連共産党政治局員。1930年代―1950年代に副首相,貿易相等として商業・貿易・物資供給に活躍。1952年―1966年党中央委員。スターリン批判の立役者。1964年―1965年最高会議幹部会議長(国家元首)。1974年引退。
→関連項目ミコヤン

ミコヤン

ソ連の航空機設計家。アルメニア生れ。政治家のミコヤンの弟。1936年空軍大学卒。1939年から戦闘機の開発主任となり,ミグ(MiG)シリーズを設計して世界的名声を保持。ソ連のジェット機開発の先駆者でもある。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ミコヤン」の解説

ミコヤン
Anastas Ivanovich Mikoian

1895~1978

ソ連共産党の指導者。アルメニア人。1920年代後半より商業・貿易関係の閣僚,34年以後政治局員としてスターリンの片腕。56年フルシチョフと結んでスターリン批判をすすめ,58年第一副首相,64年最高会議議長を務めたが,65年引退。

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