ブレジネフ(読み)ぶれじねふ(英語表記)Леонид Ильич Брежнев/Leonid Il'ich Brezhnev

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブレジネフ」の意味・わかりやすい解説

ブレジネフ
ぶれじねふ
Леонид Ильич Брежнев/Leonid Il'ich Brezhnev
(1906―1982)

ソ連の政治家。12月19日、ウクライナカーメンスコエ(現、カーミヤンシケ)の製鉄労働者の家庭に生まれる。15歳のときから働き始め、1923年に青年共産同盟に入る。1927年にクルスク農学校を卒業後農村で働き、1931年に共産党入党。1935年に郷里冶金(やきん)大学を卒業し製鉄技師となる。1937年にドニエプロジェルジンスク(1936年までカーメンスコエ)市長代理に選ばれてから政治活動に専従し、1939年にはドニエプロペトロフスク州(現、ドニプロペトロウスク州)党委員会書記となる。第二次世界大戦中は軍の政治活動を指導し、戦後はウクライナやモルドバで党活動に従事。1952年の第19回党大会で中央委員に選ばれ、党中央委幹部会員候補兼書記となる。1953年のスターリン死後一時格下げされたが、1956年の第20回党大会で返り咲き、1957年には党中央委幹部会員となる。1964年のフルシチョフ失脚後、党中央委第一書記、1966年からは書記長となり、1977年からはソ連最高会議幹部会議長を兼務し、ソ連の党と国家の最高指導者となる。1977年には、ソ連を発達した社会主義社会と規定する憲法を制定するうえで重要な役割を果たした。在職のまま1982年11月に死去したが、死後ブレジネフに対する批判がおこり、1970年代から1980年代にかけてのソ連の経済成長率低下や社会的・精神的・倫理的な欠陥についての責任が問われた。遺体モスクワの「赤の広場」に埋葬されている。

中西 治]

『ブレジネフ選集翻訳委員会訳『ブレジネフ選集1・2』(1978・モスクワ、プログレス出版社)』『中沢孝之著『ブレジネフ体制のソ連』(1975・サイマル出版会)』『ジョン・ドーンバーグ著、木村明生監訳『ブレジネフ』(1978・朝日イブニングニュース社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ブレジネフ」の意味・わかりやすい解説

ブレジネフ
Brezhnev, Leonid Il'ich

[生]1906.12.19. ウクライナ,カメンスコエ
[没]1982.11.10. モスクワ
ソ連の政治家。製鉄工場で働き,1927年農業学校を修了後クルスクで測地技師となり,31年共産党に加入。その後金属専門学校を経て,郷里の金属工場に勤務。 38年ドネプロペトロフスクの党地方委員会部長となり,39年同地方委員会書記に就任。第2次世界大戦ではコーカサス (カフカス) ,ウクライナ,チェコスロバキアの戦線に参加し,43年陸軍少将に昇進。 46年ウクライナのザポロジア地区党第一書記として戦後復興を推進し,ウクライナの最高指導者 N.フルシチョフに認められた。 50~52年モルダビア共産党第一書記をつとめ,のちモスクワに出て,52年党中央委員,次いで幹部会員候補となった。 I.スターリンの死後一時格下げされたが,党第一書記となったフルシチョフからカザフスタン開拓の任務をゆだねられた。最初は同地方党第二書記,次いで第一書記として農業増産に業績を上げ,56年2月モスクワへ帰り,党幹部会員候補兼書記の地位に復帰。 57年 V. M.モロトフ,G. M.マレンコフらがフルシチョフに反対した際にはフルシチョフを支持し,党幹部会員に昇進。 60~63年最高会議幹部会議長 (国家元首) となり,64年 10月にはフルシチョフ追落しに成功,党第一書記 (1966以降書記長) に就任した。その後 A. N.コスイギン首相,N. V.ポドゴールヌイ国家元首の3人による集団指導制を宣言したが,次第に権力を自己の勢力で固め,77年にはポドゴールヌイを解任して最高会議幹部会議長をも兼任し,名実ともに第一人者の地位を占めるにいたった。ソ連邦元帥。

ブレジネフ

「ナベレジヌイエチェルヌイ」のページをご覧ください。

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