北アメリカ大陸の巨大な川。川名はチペワ・インディアン語で〈大きな川〉を意味する。本流はアメリカ合衆国ミネソタ州北部のイタスカ湖に発し,ほぼ南流してメキシコ湾に注ぐ。下流部は典型的な蛇行河川となっており,河口部には大きな三角州がある。長さ3780km。ロッキー山脈から流れてくる最長支流のミズーリ川(3970km)と,合流点以下の本流とを合わせた長さは6210kmとなり,ナイル川,アマゾン川に次いで世界3位である。流域は合衆国の31州(国土の約3分の1)とカナダの2州に広がり,流域総面積は324万8000km2に達し,アマゾン川,コンゴ川に次ぎ世界3位となっている。おもな支流には,東部より流入するオハイオ川(その支流にはテネシー川などがある),西部より流入するミズーリ川,アーカンソー川,レッド川などがある。
ミシシッピ川流域は合衆国の中心部に相当し,アメリカ中央平原からグレート・プレーンズにかけての平地が大部分を占める。流域の東境にはアパラチア山脈が,西境にはロッキー山脈が走っている。広大な流域は東ほど降水量が多く,西へ行くほど乾燥するので,一般に東部から流入する支流のほうが長さのわりに水量が多い。流域の大部分は平たん地であるとともに,年降水量が豊富で500mm以上のところが多く,農業生産にきわめて適している。
流域農業には南北差と東西差が認められるが,とくに南北差は明瞭で,カナダ国境に近い上流部には酪農地帯が,その南のプレーリー地域にはトウモロコシ地帯(コーン・ベルト)が続く。中流部にはトウモロコシ,小麦,牧草などの農作物と家畜飼育の混じった地域がみられ,下流にはいわゆる綿花地帯(コットン・ベルト)が広がる。メキシコ湾岸一帯はサトウキビ,米,かんきつ類などの亜熱帯性作物の栽培地となっている。
執筆者:正井 泰夫
ミシシッピ川を白人が初めて見たのは,1541年,スペイン人H.デ・ソトの探検の際であった。しかし,インディアンは早くからこの川を交易に利用しており,8世紀ごろにはこの川の流域にミシシッピ文化圏が形成されていた。イリノイ州カホキアにあるピラミッド風の遺跡はそのなごりである。白人としてこの川の利用価値を認めたのは,フランス人R.C.deラ・サールであり,1682年,この流域をルイジアナと名づけ,フランスの領土とした。フランス人は毛皮交易の基地として,セント・ルイスやニューオーリンズを建設したが,これらの都市には今日もなおフランス文化の影響が見られる。1763年,フレンチ・インディアン戦争の結果,ルイジアナはスペイン領となり,この川の河口はスペイン人が支配することとなった。ミシシッピ川の支流であるオハイオ川流域に移住したアメリカ人は,ミシシッピ川の自由航行権を求め,結局1803年,ルイジアナ購入により,ミシシッピ川はアメリカの川となる。その後は西部と南部を結ぶ最大の通商路となり,とくに蒸気船の活躍する1820年代以降,交易量も増え重要性を高めた。ミシシッピ川を媒介としての西部と南部の経済的・政治的結びつきは,北東部と西部を結ぶ運河・鉄道の発展により,南北戦争前には弱まった。しかし,通商路としての重要性はその後も失われず,1873年以降の河川改修,とくに河口の改修事業により,ニューオーリンズは国際港としていっそう繁栄するに至った。流域一帯では,しばしば起こる洪水が問題であったが,1927年の大洪水後,堤防工事が進み安全性が増した。今日でも,ミシシッピ川水運は,五大湖水運と並ぶ重要性を有しており,ハワイを除いた国内水運を大西洋岸,五大湖,メキシコ湾岸,ミシシッピ,太平洋岸の水系に分けた場合,ミシシッピ川水系の国内貨物輸送量(トンマイル)は全体の57%(1981)を占めている。
執筆者:岡田 泰男
アメリカ中央を流れる大河ミシシッピは,交通の要路としてアメリカ人の生活に深くかかわっているだけでなく,巨大な国アメリカを象徴する大自然として文学者にも大きな影響を及ぼしてきた。シャーウッド・アンダーソンはこの川を〈アメリカ大陸の心臓部から流れ出る大動脈〉と称し,ジャック・ケラワックも,放浪中,その岸辺に行きついたとき〈わが愛するミシシッピ川〉と呼びかけた。そのほか,文学作品に描かれたミシシッピ川は枚挙にいとまがないほどである。
しかし,その中でとりわけミシシッピ川と縁が深い文学者といえば,この川のほとりで生まれ育ち,この川を舞台に不朽の少年冒険小説《トム・ソーヤーの冒険》《ハックルベリー・フィンの冒険》などを書いたマーク・トウェーンであろう。彼はまた青年時代,ミシシッピ川の蒸気船の水先案内人をしていて,その思い出を《ミシシッピ川での生活》に記している。彼にとって,この大河は腐敗した文明社会から無垢な少年が逃れる汚れなき大自然であるとともに,科学技術によって自然を征服し,支配したとしておごり高ぶった人間たちに,洪水などによって,人間の限界を思い知らしめる恐るべき存在であった。ウィリアム・フォークナーの《野性のシュロ》の背景もミシシッピ川の大洪水である。
こうした川がもつ自然の二面性をさらにいっそう明確に指摘したのは,同じくミシシッピ川沿いの都市セント・ルイスに生まれた詩人T.S.エリオットであった。西欧の豊かな文化伝統を求めて,最後はイギリスに帰化した彼は,《ハックルベリー・フィン》に触発されて,このミシシッピ川を〈強力な褐色の神〉と称し,〈川の神〉を忘れ,〈機械の神〉のみに奉仕する現代人に警告を発した。文学者にとってミシシッピ川は何よりも自然の根源的な力を現す神ともいうべき存在だった。
もちろん,ミシシッピ川は単なる自然ではなく,蒸気船で往来する人間の集団であり,アメリカ社会の縮図でもあった。マーク・トウェーンも水先案内人として,そこで文学に現れるすべてのタイプの人間に出会ったと言っているが,そうした雑多な人間に目を向けたのがハーマン・メルビルの《詐欺師》である。彼はミシシッピ川の蒸気船を舞台に人間たちが繰り広げる奇怪な仮面劇を描いた。また,この蒸気船(ショーボート)は華やかな社交・娯楽の世界,ショー・ビジネスの世界でもあり,それはエドナ・ファーバーの小説《ショー・ボート》にみごとに再現されている。
ミシシッピ川は奴隷として酷使された南部黒人にとっては心の故郷ともいうべき存在で,〈おやじの川Ol'Man River〉として親しまれてきた。ミュージカル《ショー・ボート》でもこのタイトルの歌が歌われている。また黒人霊歌でも,《ディープ・リバー》などこの川を歌ったものも少なくない。ミシシッピ川は純文学,大衆文学を問わず,アメリカ文学と切っても切れない関係をもっている。
執筆者:渡辺 利雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
北アメリカ最大の川。アメリカ合衆国東部を南北に縦断してメキシコ湾に注ぐ。ミシシッピ本流の長さは3780キロメートルに達する。流域面積は324万8000平方キロメートルで、アメリカ合衆国の31州とカナダの一部が流域内に含まれる。上流は3川に分かれる。セントルイスの南東約190キロメートルから北東にオハイオ川、セントルイスの北から北西にミズーリ川が分かれ、ミシシッピ本流は北に延びる。ミシシッピ本流はミネソタ州北部のイタスカ湖(エルク湖付近との説もあり)に源を発するが、ミズーリ川、オハイオ川に比べ延長も流域面積も小さい。上流は急流や滝が多いが、セント・ポールのやや上流からは流れは緩やかとなり舟運が可能である。ミズーリ川は、モンタナ州の南西部州境付近のロッキー山脈に源を発するマディソン川、ジェファソン川、ギャラティン川の合流したもので、北東に流れたあとに南東流しセントルイスの北でミシシッピ川に合流する。全長3970キロメートルは上流3川のなかで最長である。年降水量500ミリメートル以下の地域を流れるので、合流点付近の平均流量毎秒2300トンに対し、高水期には毎秒2.2万トン、渇水期には毎秒360トンとその変化が大きい。さらに約320キロメートル下流で東からオハイオ川(全長2090キロメートル)が合流する。オハイオ川はアパラチア山脈に源を発するが、この流域の年降水量は約1000ミリメートルとミズーリ川上流の2倍以上なので、合流点付近で平均流量毎秒7400トンという豊富な水をミシシッピ川に注ぐ。オハイオ川より下流ではアーカンザス川(全長2330キロメートル)、レッド川が注ぐ。オハイオ川の合流点より下流は台地地域からミシシッピ川の沖積低地地域へと出て、約1800キロメートルの距離を蛇行しながらメキシコ湾に注ぎ、河口付近に鳥足状のデルタを形成する。デルタは過去150年に130平方キロメートルも広がった。ミシシッピ川の平均流量は毎秒約1万6000トンで、高水期はこの約3倍、渇水期には約10分の1となる。
ミシシッピ川のアメリカ合衆国発展への影響は大きい。流域面積は国土の3分の1を占め、開拓の初期には重要な交通路となった。沿岸にニュー・オーリンズ、メンフィス、セントルイス、ミネアポリス、シンシナティなどの商工都市が発達した。可航水路は本・支流をあわせ約2.5万キロメートルに達する。また、肥沃(ひよく)なプレーリー、沖積低地域を南北に縦断して豊富な水をもたらし、流域は小麦、トウモロコシ、綿花、サトウキビなどを産する、合衆国の主要な農業地帯となっている。流域一帯では洪水の規模が大きいことが問題であった。連邦法で1879年にミシシッピ川委員会が設立され、農業用水・水力発電の開発、水路の整備改善とあわせて洪水防御計画が進められることになった。それにもかかわらず、1927年と1937年の洪水では大きな被害がでたが、その後は堤防工事が進み安全性が増している。
[大竹一彦]
名称は、アメリカ・インディアンのアルゴンキン人のことば「川の父」に由来する。白人として初めてミシシッピ川に到達したのはスペイン人のデ・ソトの率いる探検隊で、1541年5月8日のことである。17世紀の後半には、五大湖からミシシッピ川下流にかけてフランス人による探検が何度か行われた。なかでも1682年4月9日に初めてミシシッピ河口に達したラサールは有名である。彼はその地一帯をルイジアナと命名し、フランス領とすることを宣言した。以後フランスが七年戦争に敗れる1763年まで、ミシシッピ川は同国の支配下に置かれた。その後、ミシシッピ川は順次、イギリスとスペイン、アメリカ合衆国とスペイン、アメリカ合衆国とフランスを分ける国境として複雑な歴史をたどるが、1803年、合衆国がフランスからルイジアナを購入するに及んで、完全にアメリカ合衆国に領有されることとなった。
それ以後のミシシッピ川は、オハイオ川、ミズーリ川などおもだった支流とともに、アメリカ内陸部の交通運輸をつかさどる大動脈となった。初期のころの原始的な平底舟から、1825年以降は蒸気船が中西部と南部を結ぶ運送の主役となった。1860年には1000隻以上の蒸気船が走っていたといわれる。ミズーリ川の合流点を背後に控えたセントルイスはその河港によって西部第一の都会に成長した。1850年ごろからミシシッピ川の通運は、東部と西部の間に敷かれた鉄道と競合関係に入っていたが、南北戦争後は鉄道の河川運輸に対する優位は動かしがたいものとなった。ミシシッピ川の風物詩蒸気船は姿を消し、かわってタグボートが現れた。1879年ミシシッピ川委員会が連邦法により設立され、運輸水路としての同川の整備改善にあたることになった。以後ミシシッピ川の輸送量は回復に向かい、1970年には年間2億5000万トンに達した。
[平野 孝]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アメリカ中央部を貫流してメキシコ湾に注ぐ大河。その広大な流域の肥沃な土地は,19世紀前半,川を交通路として急速に開拓され,大農業地帯に発展した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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