アンダーソン(読み)あんだーそん(英語表記)Sherwood Anderson

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンダーソン」の意味・わかりやすい解説

アンダーソン(Benedict Anderson)
あんだーそん
Benedict Anderson
(1936―2015)

アメリカの東南アジア研究者、ナショナリズム研究者。アイルランド人の母とイギリス人の父のもと、中国の雲南省昆明に生まれる。1941年の夏、家族と中国を出るが、第二次世界大戦中のためアメリカ、カリフォルニアへ渡り、1945年にアイルランドへ移る。1957年にイギリスのケンブリッジ大学で古典を学んだ後、アメリカのコーネル大学でインドネシア研究を専攻。その後同大学の政治学・アジア研究教授、東南アジア研究所所長、名誉教授。

 アジア・アフリカで脱植民地化の動きが始まった1960年代から日本とオランダ領東インド(現インドネシア)との関係、とくに日本軍による1942年から1945年のインドネシア軍政に関する研究を始める。その後1945~1949年のインドネシア革命について研究を進めるために1961年にジャカルタへ行き、フィールドワークを開始。

 1965年の「九月三〇日事件」(陸軍首脳が拉致殺害された事件)をインドネシア共産党のクーデターとするスハルト政権側の公式見解を批判し、「不平をもつ陸軍若手将校の反乱であり、スハルトらは共産党潰しのためにこの事件を利用した」と結論づけたため、インドネシア当局の激しい反発を受け、1972年にインドネシアから追放された。アンダーソンは、この九月三〇日事件を転機としてインドネシアのナショナリズムが変質していく過程を、世界史的な枠組みのなかでとらえ直す。その後もエーリッヒ・アウエルバハ、ワルター・ベンヤミン、ビクター・ターナーの深い影響のもと、言語、文化、メディア、表象を通してナショナリズムについて考察し、『想像の共同体』Imagined Communities(1983)を発表。同書において国民とは社会的、政治的な実体ではなくて、「イメージとして心に描かれた想像の政治共同体」であるという議論を展開、国民国家の分析に新たな地平を拓いた。とくに近代小説の成立や出版資本主義による俗語の流布がナショナリズムを構成する契機となったと指摘した。アンダーソンは、近代社会への移行期に登場した俗語革命(それまで俗語でしかなかった各地方の言語がラテン語等の公式言語にとってかわったこと)が国家語の成立に結びつき、さらに近代の「均質で空虚な時間」(ベンヤミン)に支配された国家語による新聞や小説によって、ばらばらな個人が「同時代性」を共有し、国民という集団の想像的なアイデンティティが形成されてきた点を考察した。また、こうした言語中心ナショナリズムだけでなく、同時に南北アメリカのクレオール共同体でのナショナリズムについても検討している。アンダーソンが提唱した「想像の共同体」は、多くの学問領域を横断して、国民国家、ナショナリズム、グローバリゼーション、ディアスポラ(もともとはユダヤ人の離散を示す言葉だが、1980年代以降の文化研究、社会理論、ポスト・コロニアリズムの文脈において新たな意味を獲得している。自らの起源(ルーツ)からの離脱、あるいは流浪の身にありながら、依然として自らのルーツに文化的、政治的、倫理的な強い結びつきをもち、それによって社会的連帯を志向する人々およびその概念)等を論じるうえでの重要なキーワードになっている。

 ほかにも、『革命時代のジャワ』Java in a Time of Revolution(1972)、『鏡のなかで』In the Mirror; Literature and Politics in Siam in the American Era(1985)、『言葉と権力』Language and Power(1990)等、インドネシア、タイ研究に関する多数の著書がある。『言葉と権力』は権力、言語、意識の三部からなり、30年にわたるインドネシア研究の総括としてインドネシアにおけるナショナリズムの成立と変質が探求されている。

[清水知子]

『中島成久訳『言葉と権力――インドネシアの政治文化探求』(1995・日本エディタースクール出版部)』『白石さや・白石隆訳『想像の共同体』(1997・NTT出版)』『白石隆著「『最後の波』のあとに」(『岩波講座現代社会学24 民族・国家・エスニシティ』所収・1996・岩波書店)』『アーネスト・ゲルナー著、加藤節監訳『民族とナショナリズム』(2000・岩波書店)』『姜尚中著『ナショナリズム』(2001・岩波書店)』『E・J・ホブズボーム著、浜林正夫ほか訳『ナショナリズムの歴史と現在』(2001・大月書店)』『大澤真幸編『ナショナリズム論の名著50』(2002・平凡社)』『ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健次郎編訳・久保哲司訳「歴史の概念について」(『ベンヤミン・コレクションⅠ』所収・ちくま学芸文庫)』『姜尚中・森巣博著『ナショナリズムの克服』(集英社新書)』


アンダーソン(Sherwood Anderson)
あんだーそん
Sherwood Anderson
(1876―1941)

アメリカの小説家。9月13日、中西部オハイオ州の田舎(いなか)町で生まれる。貧しい少年時代を過ごし、成功の夢を抱いてシカゴに出る。広告会社の記者として活躍し、結婚後退職してオハイオで塗料の通信販売会社をおこし、社長となる。しかし、実業界で出世することのむなしさを痛感、その一方、創作意欲が高まり、30代のなかばで作家への転身を決意しシカゴへ赴き(のちに離婚)、「シカゴ・ルネサンス」とよばれる革新的な文芸運動の啓蒙(けいもう)を受ける。すでにオハイオで書き上げていた半自伝的な小説『ほら吹きマクファーソンの息子』(1916)を発表。これは、仕事と家族を捨てて「自己発見の旅」に上る実業家を主人公としたもので、模倣的な習作の域を出ない作品だったが、やがて、素朴な語り口ながら前衛的な心理表現を用いて、田舎町の清教主義的な因襲道徳の支配下にある孤独な人々のグロテスクな内面生活を描いた異色の短編集『ワインズバーグ・オハイオ』(1919)を著し、文壇に波紋を投じた。これによってアメリカの新しい文学の担い手と目され、後輩のヘミングウェイフォークナーにも多大の影響を及ぼした。続いて、近代工業化の波に襲われた中西部の農民や手工業者の混乱した生きざまを照明した『貧乏白人』(1920)、また、不毛な大都市シカゴを蒸発し、黒人の健康な笑いを求めて南部へ下る文明人の意識の流れをJ・ジョイス風のタッチで表現した『黒い笑い』(1925)などで声価を高めた。

 しかし、文学上の実験に深入りしすぎたうえ、晩年にはプロレタリア小説にも筆を染めて『欲望の彼方』(1932)を公にしたが、社会問題が感覚的な次元でしか把握されておらず、構成上の乱れもあり失敗に終わる。

 自らを「物語作者(ストーリー・テラー)」とよぶアンダーソンは、長編小説よりも『卵の勝利』(1921)や『森の中の死』(1933)などの短編集に収められている小編(とくに思春期の少年を語り手とする物語)を得意とする。また、自伝的作品に『物語作者の物語』(1924)、『回想録』(1943)などがある。1941年3月8日没。

[小原広忠]

短編

アンダーソンは『卵の勝利』(1921)、『馬と人間』(1923)、『森の中の死』(1933)の短編小説集を残したが、それぞれの一編「卵」「女になった男」「森の中の死」において、「彼は最高頂に達した」と、批評家アービング・ハウはいう。

 これらの傑作に共通する特徴の第一は、主人公の語りである。アンダーソンは語りに特別な意味を求めていた。「毒プロット」といってプロットを否定する彼の、プロットにかわる一つのフォームこそ語りである。第二は、その語り手が一人称であることである。アンダーソンの自伝的特徴がここにも感じられる。第三は、主人公が少年であることで、これは開眼物語の可能性を意味する。第四は、動物の重要な役割であり、この三編には、鶏と馬と犬が登場する。これは、文明による汚染度の低いもの、自然、動物、子供、女性、黒人、弱者などに対する彼の愛情の現れを示す。第五はグロテスクである。人が卵にしてやられ、男が女になり、人が犬になぶられる。しかし、ここにいとしさがあり、美がある。

 このような特徴をもつ短編小説集において、アンダーソンは一幅の絵として人生を描いた。ここに彼の本領がある。

[古平 隆]


アンダーソン(Laurie Anderson)
あんだーそん
Laurie Anderson
(1947― )

アメリカのパフォーマンス・アーティスト。シカゴ生まれ。幼いころからバイオリン演奏を行った。1966年ニューヨークのバーナード・カレッジに入学し美術史を学んだ後、コロンビア大学大学院で彫刻を学び1972年に卒業。その後美術史の講師を務めるかたわら、美術評論などの活動も行うと同時にバイオリン演奏を伴ったパフォーマンスを始める。

 1973年、ブルックリン・アカデミー・オブ・ミュージックで行われた12時間におよぶ音楽と映像を使ったパフォーマンス『ヨシフ・スターリンの生活と時間』によりアンダーソンの名は広く知られるようになった。従来の劇場公演が、基本的に音楽と演劇、ダンスといった「ジャンル」に分かれていたのに対し、この作品はこうした垣根を取り払った「パフォーマンス」として注目を集めた。1950年代からニューヨークのアート・シーンでは、徐々にそうした脱ジャンル的な動きがあったが、視覚的な面や聴覚的な面、つまり、ビジュアルからサウンドまで文字どおり1人のアーティストがコントロールし、コーディネートしたという意味で、『ヨシフ・スターリンの生活と時間』は画期的だった。しかもこの時点でアンダーソンは弱冠23歳だった。以後、アンダーソンは、バイオリンを弾き、踊り、歌い、語り、演じ、という多様な「パフォーマンス」のスタイルを確立する。

 そして1981年シングル「オー・スーパーマン」がイギリスのヒット・チャート2位になる。実際のパフォーマンスの場では、コンサートやショーを大きくはみだし、トータルな表現が練られるのが常だった。巨大なスクリーンに映し出されるスライドやフィルムをバックに、胸や四肢を叩(たた)くとさまざまな音がするドラム・スーツを着用、エレクトリック・バイオリンを奏(かな)で、テープ・ボウ・バイオリン(弓と弦の代わりに磁気テープと再生ヘッドを備えた電子バイオリン)でホール全体を宇宙空間に放り出すようなサウンドを響かせる。ストロボが点滅し、踊り、ボコーダーを通した声で、いくつもの言語で歌い、語る。テクノロジーを最大限に活用しつつも、アンダーソン自らが「そこ」にいて、音を発し、動いていることで身体性を強調する。ここでパフォーマンスに接する観客は、人間の身体がテクノロジーと共存し、共生していくさまを感じとる。

 その後ニューヨークに拠点を移して活動を続け、バイオリン、自作の楽器、CG、舞踊、詩などさまざまな表現手段を用いて、視覚的な要素と音響的な要素をマルチに表現する彼女のパフォーマンスは世界的な人気を得た。

 代表的なアルバムに『ビッグ・サイエンス』Big Science(1982)、『ミスター・ハートブレイク』『ユナイテッド・ステイツ・ライブ』United States Live(ともに1984)、『ストレンジ・エンジェルズ』Strange Angels(1989)、CD-ROM『パペット・モーテル』Puppet Motel(1995)などがある。『ブライト・レッド』(1994)は、ブライアン・イーノがプロデュース、舞踊家でパントマイム・アーティストのアート・リンゼーArto Lindsay(1953― )らも参加している。

 その後制作されたCD‐ROM作品では、ライター、音楽家、パフォーマー、写真家をアンダーソンがひとりでこなしている。

[小沼純一]


アンダーソン(Carl David Anderson)
あんだーそん
Carl David Anderson
(1905―1991)

アメリカの原子物理学者。ニューヨークに生まれ、1927年カリフォルニア工科大学を卒業、1930年同大学で学位取得後、1933年カリフォルニア工科大学助教授、1939年同大学教授になった。アメリカ原子物理学の基礎の建設者ミリカンのもとで、原子核構造の手掛りを与えるとして当時注目され始めていた宇宙線研究を開始、まず強磁場中の飛跡によって宇宙線粒子のエネルギーを測定するある種の霧箱装置を製作、それを使用して実際に宇宙線粒子のエネルギーが1億電子ボルト以上であることを確認した(1931)。翌1932年、多数撮影した宇宙線の飛跡の写真のなかから、ある点から正・負の帯電粒子が1対になって飛び出している像をみつけた。これが陽電子(ポジトロン)の発見である。一方の負の粒子は電子であるが、他方の正の粒子は陽子ではなく、ディラックが1928年に理論上その存在を予言していた陽電子であり、「電子対生成」とよばれるこの現象自体、相対性理論における物質とエネルギーの同等性の原理を実験的に証明するものであった。この陽電子発見の業績により1936年にノーベル物理学賞を受けた。そのほか、アメリカの物理学者ネッダーマイヤーSeth Henry Neddermeyer(1907―1988)と共同での宇宙線中の中間子の発見(1937)をはじめ、μ(ミュー)中間子の自然崩壊によって電子と2個のニュートリノが生成することを確かめる(1949)などの業績がある。

[宮下晋吉 2018年6月19日]


アンダーソン(Philip Warren Anderson)
あんだーそん
Philip Warren Anderson
(1923―2020)

アメリカの物理学者。インディアナポリスに生まれる。1943年ハーバード大学を卒業したが、第二次世界大戦中のため、海軍研究所で電子物理学の応用技術の研究に従事した。終戦後、ハーバード大学に戻り、1949年バン・ブレックの指導のもとで博士号を取得、同年ベル研究所に入り1984年まで勤務した。その間、ケンブリッジ大学の客員教授を兼任、また1976年以降はプリンストン大学の教授を務めた。1952年(昭和27)フルブライト交換教授として来日している。

 磁性、超伝導など固体物理学の基礎理論を研究し重要な業績を残した。不純物などによる無秩序なポテンシャル場における電子状態の局在性について研究し、「アンダーソン局在」「アンダーソン模型」の理論を提唱した。また超伝導、超流動の研究では「ジョセフソン効果」の実験的証明を行った。1977年「磁性と無秩序系の電子構造に関する理論的研究」により、バン・ブレック、イギリスの物理学者モットとともにノーベル物理学賞を受賞した。

[編集部]


アンダーソン(Johan Gunnar Andersson)
あんだーそん
Johan Gunnar Andersson
(1874―1960)

スウェーデンの地質学者、考古学者。とくに第四紀地質学者として知られ、1906年にはスウェーデン地質調査所長となった。1914~1925年には北京(ペキン)地質調査所に派遣され、奉天省(現、遼寧(りょうねい)省)、河南(かなん)省、甘粛(かんしゅく)省の遺跡を調査し、周口店(しゅうこうてん)洞穴で北京原人骨を発見、また出土の土器中に彩色土器を発見、中国の新石器時代に、中央・西南アジアと文化交流のあったことを明確にし、オリエント古代文化の東漸(とうぜん)を確証した点で大きな功績をあげた。帰国後、1925年にストックホルムの極北古物博物館長やストックホルム大学講師を務め、1937年に再度中国に渡り、西康(せいこう)省(チベット東部と四川(しせん)省西部よりなる省。1955年廃止)の氷河やトンキン湾の遺跡の調査に従事した。著書に『中国遠古文化』An Early Chinese Culture(1923)、『黄土の子等(ら)』Children of the Yellow Earth(1934)、『中国人の先史時代研究』Researches into the Prehistory of the Chinese(1943)など多数がある。

[市川正巳]


アンダーソン(Maxwell Anderson)
あんだーそん
Maxwell Anderson
(1888―1959)

アメリカの劇作家。巡回牧師を父としてペンシルベニア州に生まれる。中西部で教育を受けたのち、カリフォルニアで大学の教職につく。第一次世界大戦中に、平和主義を表明して教職、新聞の論説員の職を追われる。1918年ニューヨークに出て劇作を始め、『ホワイト・デザート』(1923)以来死の前年まで、主として社会的関心の強い38の戯曲を発表した。軍隊の内部から大戦の現実をあばいた出世作『栄光なんぞ』(1924・共作)以後、ピュリッツァー賞受賞の政治風刺劇『上院も下院も』(1933)、第二次大戦前後の反戦・反ナチ劇など、リアリズム劇を書く。その一方で彼が興味を向けたのは、現代の詩劇という問題であった。『エリザベス女王』(1930)、『スコットランドのメリー女王』(1933)の成功をきっかけとした一連の歴史劇をはじめ、第1回、第2回ニューヨーク劇評家賞受賞作『ウィンターセット』(1935)、『高台』(1937)などアメリカ社会の問題を扱った作品がある。これらの詩劇は、評論集『悲劇の本質・ほか』(1939刊)で展開した理想主義的演劇論とともに、彼のロマンチシズムの特徴が発揮されている。

[楠原偕子]


アンダーソン(Poul Anderson)
あんだーそん
Poul Anderson
(1926―2001)

アメリカのSF作家。ペンシルベニア州生まれ。ミネソタ大学で物理学を専攻。SF作家として広く認められたのは人類進化テーマの『脳波』(1954)を発表してからで、これは彼の代表作の一つである。両親がスカンジナビア人であるせいで北欧の神話・伝説・歴史に造詣(ぞうけい)が深く、アマゾン伝説を下敷きにした『処女惑星』(1956)、14世紀の十字軍に取材した『天翔(か)ける十字軍』(1960)のようなSFを得意とし、またタイム・トラベル・テーマの作品も多く、破滅テーマの『審判の日』(1962)からハードSFの『アーバタール』(1978)まで手がける作域の広い多才な作家であった。

[厚木 淳]

『榎林哲訳『処女惑星』(創元推理文庫)』


アンダーソン(Marian Anderson)
あんだーそん
Marian Anderson
(1897―1993)

アメリカのコントラルト歌手。フィラデルフィアの貧しい黒人家庭に生まれ、初め教会の聖歌隊で歌っていた。のちニューヨークで学び、1925年ニューヨーク・フィルハーモニック協会の声楽コンペティションで1位に入賞してコンサート・デビューに成功。大指揮者トスカニーニから「百年に一度の声」と激賞された深みのある声の持ち主で、1955年1月には黒人歌手として初めてメトロポリタン歌劇場に出演した。とくに黒人霊歌の歌唱は傑出していた。1953年訪日公演。1965年に引退。

[美山良夫]


アンダーソン(Leroy Anderson)
あんだーそん
Leroy Anderson
(1908―1975)

アメリカの作曲家、指揮者。マサチューセッツ州生まれ。ハーバード大学時代にウォルター・ピストンほかに師事。教会オルガン奏者などを経て1935年からボストン・ポップスに編曲を提供。やがて自作管弦楽曲を発表して名声を得た。曲は短く、現代感覚と機知に富んでいる。『シンコペイテッド・クロック』(1948)と『ブルー・タンゴ』(1951)は1951年に大ヒットした。

[青木 啓]


アンダーソン(アメリカ合衆国)
あんだーそん
Anderson

アメリカ合衆国、インディアナ州中南部の商工業都市。人口5万9734(2000)。ホワイト川西岸、農業地帯に位置し、自動車部品、鉄鋼業が産業の中心をなす。1887年の天然ガス発見により工業が発展し、20世紀初頭の自動車工業がさらに都市の飛躍に大きく貢献した。有史前の塚で知られるマウンド州立公園があり、アンダーソン大学の所在地。

[作野和世]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アンダーソン」の意味・わかりやすい解説

アンダーソン
Anderson, Philip W.

[生]1923.12.13. インディアナ,インディアナポリス
[没]2020.3.29. ニュージャージー,プリンストン
アメリカ合衆国の物理学者。フルネーム Philip Warren Anderson。ハーバード大学で学び,1949年博士号取得。1949~84年ニュージャージー州マレーヒルのベル電話研究所(→ベル研究所)勤務。一方で,1967~75年イギリスのケンブリッジ大学理論物理学教授を経て,1975年以降プリンストン大学で教鞭をとった。固体物理学の研究を通じて,コンピュータにおける安価な電子交換や記憶素子の開発を可能にした。1977年半導体超伝導,ならびに磁性の分野での研究が評価され,師であるジョン・H.バンブレック,ネビル・F.モットとともにノーベル物理学賞(→ノーベル賞)を受賞した。1982年ナショナル・メダル・オブ・サイエンスを受章。著書に『固体の概念』Concepts of Solids(1963),『物性物理学の基礎』Basic Notions of Condensed Matter Physics(1984)などがある。1953~54年フルブライト交換研究者として東京大学に招かれるなど日本とも関係が深く,自身囲碁をたしなんだ。

アンダーソン
Anderson, Maxwell

[生]1888.12.15. ペンシルバニア,アトランティックシティー
[没]1959.2.28. コネティカット,スタンフォード
アメリカの劇作家,詩人。ノースダコタ大学卒業後,スタンフォード大学修士課程修了。教師,ジャーナリストを経たのち『白い砂漠』 White Desert (1923) を発表,これは失敗作であったが,ロレンス・ストーリングズとの合作による戦争劇『栄光なにするものぞ』 What Price Glory? (24) の大胆な用語とリアリスティックな戦争場面によって認められた。若夫婦の結婚生活の危機を描いた喜劇『土曜日の子供たち』 Saturday's Children (27) で好評を得たのち,1930年代にはリアリズムを離れて詩劇に転じ,『エリザベス女王』 Elizabeth the Queen (30) ,『スコットランドのメアリー女王』 Mary of Scotland (33) などすぐれた心理的歴史劇を執筆,さらにサッコ=バンゼッティ事件を題材にした代表作『ウィンターセット』 Winterset (35) を発表した。第2次世界大戦後は『ローレーヌのジョーン』 Joan of Lorraine (46) ,『一千日のアン』 Anne of the Thousand Days (47) など,実験的な手法による歴史劇で成功を収めた。

アンダーソン
Anderson, Sherwood

[生]1876.9.13. アメリカ合衆国,オハイオ,カムデン
[没]1941.3.8. パナマ,コロン
アメリカ合衆国の作家。正規の教育はほとんど受けず,さまざまな職業に従事したのちペンキ工場の経営に成功したが,1913年シカゴに移り,いわゆる「シカゴ・ルネサンス」のなかで作家生活に入った。中西部の架空の町を背景とした『ワインズバーグ・オハイオ』Winesburg, Ohio(1919)は,多くの短編が集まって一つの有機的統一を達成するという構成や精神分析を思わせる手法,新鮮で美しいリズムなどによって,従来のプロットを中心とする伝統的手法に抗し,アメリカの短編小説に新生面を開いた。アーネスト・ヘミングウェー,ウィリアム・フォークナーらに影響を与えた。短編集『卵の勝利』The Triumph of the Egg(1921),長編『暗い笑い』Dark Laughter(1925)など多くの作品がある。(→アメリカ文学

アンダーソン
Anderson, Marian

[生]1897.2.27. /1902.2.17. アメリカ,ペンシルバニア,フィラデルフィア
[没]1993.4.8. アメリカ,オレゴン,ポートランド
アメリカの黒人アルト歌手。 1925年ニューヨークの新人コンクール1位。 35年ザルツブルクでトスカニーニに「100年に1人の美声」と激賞される。 39年アメリカ愛国婦人会により人種的偏見からワシントン D.C.のホールで公演を拒否されたが,E.ルーズベルトを含む市民の運動に支援され,代ってリンカーン・メモリアルで開かれた野外コンサートには7万 5000人の聴衆を集めた。 55年,黒人歌手として初めてメトロポリタン歌劇場に登場。広いレパートリーを誇る。 53年来日。 65年惜しまれつつ引退した。

アンダーソン
Anderson, Lindsay

[生]1923.4.17. インド,バンガロール
[没]1994.8.30. フランス
イギリスの映画監督,映画批評家。記録映画監督として 1956年からのフリー・シネマ運動に参加。記録映画『ロンドンの夜明け前』 Every Day Except Christmas (1957) などの秀作を発表,62年からは記録映画的手法を取入れた劇映画を発表し,国際的にも高く評価されている。 60年代イギリスの「怒れる若者たち」を代表する監督。代表作『孤独の報酬』 This Sporting Life (63) ,『ifもしも…』 If… (68,カンヌ国際映画祭グランプリ) ,『八月の鯨』 The whales of August (87) 。

アンダーソン
Andersson, Dan(iel)

[生]1888.4.6. スカットレスベルエット
[没]1920.9.20. ストックホルム
スウェーデンの詩人,小説家。フィンランドに近い森林地帯に生れ,きこり,炭焼きなどをして育った。プロレタリア作家として知られるが,労働の社会問題には触れず,労働における人間性を追究して特異な作風を示した。ストックホルム滞在中に安宿の一室で消毒ガスのため事故死。主著『炭焼き物語』 Kolarhistorier (1914) ,『炭焼きの歌』 Kolvaktarens visor (15) ,自伝風の小説『三人の宿なし』 De tre hemlösa (18) ,『ダビッド・ラムの家督』 David Ramms arv (19) 。

アンダーソン
Andersson, Johan Gunnar

[生]1874.7.3. クニスタ
[没]1960.10.29. ストックホルム
スウェーデンの考古学者,地質学者。 1914年北京政府に鉱政顧問として招かれ,中国各地の地質調査を行い,同時に古生物学や考古学的な調査,発掘をした。この間に周口店の北京原人 (→シナントロプス ) の発見や華北の新石器時代遺跡,特に彩陶文化の発掘などに偉大な成果をあげた。 25年帰国し,ストックホルムの極東考古博物館の館長として研究を続け,幾多の論文を発表。その名著『黄土地帯』 Children of the Yellow Earth (1934) は中国滞在時の調査概要を記録したもの。

アンダーソン
Anderson, Carl David

[生]1905.9.3. ニューヨーク
[没]1991.1.11. カリフォルニア,サンマリノ
アメリカの物理学者。カリフォルニア工科大学に学び,1930年学位を取得。同大学教授 (1939) 。 30年ウィルソン霧箱を磁場中に配置して,γ線と宇宙線の研究に着手。その研究中に 32年 P.ディラックが数年前に予言していた陽電子を発見。これは反物質が実験的に確証された最初のケースであった。 37年同じく宇宙線研究中に,湯川秀樹の予言したμ粒子を発見。 36年 V.ヘスとともにノーベル物理学賞を受賞した。

アンダーソン
Anderson, James

[生]1739. エディンバラ
[没]1808.10.15. エセックス,ウェストハム
スコットランドの篤農家,経済学者。実際に農業経営に従事し,穀物条例,穀価,移民,酪農など農業問題に関する多数の著書を公刊。地代の起源が土地の肥沃度にあることを説き,D.リカードや T.R.マルサスの差額地代論の基礎を提供したことでも著名。 1780年アバディーン大学より名誉博士号を受ける。主著"An Inquiry into the Nature of the Corn-Laws" (1777) 。

アンダーソン
Anderson, John

[生]1893. スコットランド
[没]1962
オーストラリアの哲学者。グラスゴー大学に学んだ。カーディフ,グラスゴー,エディンバラ各大学で講じたのち,1927年オーストラリアのシドニー大学哲学教授。最初,絶対的観念論の立場に立ったが,のち W.ジェームズ,S.アレクサンダーらの新実在論から影響を受け,実在論の立場に立った。オーストラリア哲学の形成に大きな貢献を果した。主著『経験論的哲学研究』 Studies in Empirical Philosophy (1962) 。

アンダーソン
Anderson, Elizabeth Garrett

[生]1836.6.9. オールドバラ
[没]1917.12.17. オールドバラ
イギリスの女医の草分け。女子医学校の創始者。女子の医学校入学が認められなかったため,1865年,ロンドンで薬剤師の資格を得てセントメアリー施療院の薬局に入る。さらに婦人病院(のちに彼女の名前をとってエリザベス・ギャレット・アンダーソン病院と改称)に移り,そこで女子の医学教育を始めた。アンダーソン自身はフランスのパリ大学で 1870年に医師資格を得た。1908年,オールドバラでイギリス初の女性市長となり,女性参政権運動にも活躍した。

アンダーソン
Anderson, Dame Judith

[生]1898.2.10. アデレード
[没]1992.1.3. カリフォルニア,サンタバーバラ
オーストラリア生れ,アメリカの女優。本名 Frances Margaret。シドニーでデビュー。 1918年以後ニューヨークで活躍。 J.ギールグッド主演の『ハムレット』の王妃 (1936) ,L.オリビエと共演した『マクベス』のマクベス夫人 (37) ,エウリピデスの原作を R.ジェファーズが脚色しギールグッドが演出した『メデイア』 (47) の演技が有名。 60年,イギリス女王からデイムの称号を受けた。

アンダーソン
Anderson, Mary

[生]1859.7.28. カリフォルニア,サクラメント
[没]1940.5.29. ウースターシャー,ブロードウェー
アメリカの女優。 16歳でジュリエット役でデビュー。ロンドンやストラトフォードでもシェークスピア劇に出演。『冬物語』のパーディタとハーマイオニを1人2役で演じた最初の女優としても知られる。著書に『思い出の記』A Few Memories (1896) ,『続・思い出の記』A Few More Memories (1936) がある。

アンダーソン
Anderson

アメリカ合衆国,インディアナ州中央部の都市。インディアナポリスの北東約 55kmに位置する。町の起源は 1823年。トウモロコシ・コムギ地帯に属する肥沃な大平原上に立地し,農産物の集散地。 86年天然ガスが発見されたのが工業化の契機となった。自動車部品の生産が最も重要な産業。アンダーソン・カレッジ (1917創立) ,博物館があり,市の東約 5kmにあるマウンズ州立公園には,インディアナ州における最大の堡塁がある。人口5万 9459 (1990) 。

アンダーソン
Anderson

アメリカ合衆国,サウスカロライナ州北西部の都市。ブルーリッジ山脈の山麓に位置する。地名は,独立戦争時のこの地方の英雄,R.アンダーソン将軍に由来。サウスカロライナ州のおもな工業都市の一つ。伝統的な繊維工業のほかに,ガラス繊維,金属製品,化学製品,プラスチック製品,ミシンなどの製造工業も行われる。 1898年頃よりセネカ川から長距離送電を受けたために,「電気の町」と呼ばれた。人口2万 6184 (1990) 。

アンダーソン
Anderson,Robert

[生]1805.6.14. ケンタッキー,ルイビル
[没]1871.10.26. フランス,ニース
アメリカ合衆国の軍人。南北戦争の緒戦となったサムター要塞攻防戦の際の北軍の守備隊長。南部連合の要塞明け渡し要求を拒否したが,1861年4月 12日に攻撃を受け,14日にサムター要塞を明け渡した。

アンダーソン
Anderson, Robert

[生]1917.4.28. ニューヨーク
アメリカの劇作家。寡作であったが,思春期の孤独と成人への儀礼的な手続きを描いた『お茶と同情』 Tea and Sympathy (1953) は,1950年代ブロードウェー演劇を代表するヒット作となった。ほかに,ある宿で出会った男女のロマンスを描いた『サイレントナイト,ロンリーナイト』 Silent Night,Lonely Night (59) がある。

アンダーソン
Anderson, Leroy

[生]1908.6.29. マサチューセッツ,ケンブリッジ
[没]1975.5.18. ウッドベリー
アメリカの作曲家。ボストンのニューイングランド音楽院を経て,1929年ハーバード大学を卒業。 29~35年ミルトンのオルガン奏者をつとめ,ラドクリフ・カレッジで教える。セミ・クラシック音楽の大家で,多数の軽音楽の作品がある。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報