ポーランド・ロマン派最大の詩人。白ロシア(ベラルーシ)の貧乏貴族で弁護士の息子として生まれ、ビリニュス大学文学部に学ぶが、すでに在学中に秘密学生結社「フィロマート会」の中心メンバーとなり、愛国的革命運動に参加した。詩集『青春への頌詩(しょうし)』(1820)は、自由と博愛と進歩への青年たちの戦いの歌となった。コブノで教師として働く間に詩集『バラードとロマンス』(1822)、長編劇詩『父祖の祭』第二部、第四部(1823)を発表したが、前者は新しいロマン主義の先触れとなる作品集、後者はロシア皇帝の悪政に対する戦いで生まれた夢幻的な象徴詩劇である。なお『父祖の祭』第一部は未完に終わり、第三部はドレスデンで発表された(1833)。
リトアニアでの青年秘密組織発覚でロシア官憲に逮捕され、裁判の結果、ミツキェビッチはロシアへ追放となり、1824年ペテルブルグに行き、のちにデカブリストとして処刑されたルイレーエフ、ベストゥージェフ・マルリンスキーらとも交わった。その後オデッサ(現、オデーサ)へ移り、1825年3月から11月まで滞在するが、その間にクリミア半島を旅して『クリミア・ソネット』(1826)を書いた。モスクワ滞在は1828年4月までで、すでに詩人としても有名になった彼は、モスクワ、ペテルブルグの文学界・社交界の仲間となり、プーシキン、ポレボイ、ビャーゼムスキーらと親交を結んだ。『コンラド・ワレンロド』は1828年ペテルブルグで出版された。プーシキンらの努力もあって1829年5月ロシアを出国、ヨーロッパへの旅に向かうが、ローマへの途次ワイマールでゲーテに会った。1830年のワルシャワの蜂起(ほうき)失敗の報を聞きパリに亡命、代表作『パン・タデウシュ』(1834)を書く。ナポレオンのロシア侵攻とリトアニアの美しい自然を背景に当時のポーランド貴族の生活を描いたこの作品は、祖国への思慕にあふれた不朽の傑作とされる。
1848年、イタリア独立運動を助けるためローマで「ポーランド軍団」を組織したが鎮圧され、クリミア戦争(1853~1856)の勃発(ぼっぱつ)とともにコンスタンティノープルへ行って「ポーランド義勇軍」を組織しようとする(1855)が、コレラに倒れた。
[吉上昭三]
『樹下節訳『バラードとロマンス クリミヤ・ソネット』(『世界名詩大成15 北欧・東欧』所収・1963・平凡社)』
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