フランス・ロマン派の詩人、劇作家、小説家。12月11日パリに生まれる。父は官吏でジャン・ジャック・ルソーの研究家でもある。アンリ4世校を抜群の成績で卒業、級友の一人でユゴーの義弟ポール・フーシェPaul Foucherを通じてロマン派の集い「セナークル」cénacleに入る。アルフレッド・タッテAlfred Tattetのような金持ちで教養あるダンディを友とし、早くから蕩児(とうじ)として知られる。1830年、18歳からの作品を集めた処女詩集『スペインとイタリアの物語』を出版。官能的、背徳的な空想力と早熟なアイロニーで「ロマン派の恐るべき子」とみなされた。同年、オデオン座での処女戯曲『ベニスの夜』の初演は主演女優のミスから惨憺(さんたん)たる失敗に終わり、以後作品の舞台化を断念する。32年父を失って放蕩生活を反省、二つ目の詩集『肘掛椅子(ひじかけいす)で見る芝居』を出版するが、ここには放蕩と純粋な愛をめぐる、この作家の中心的テーマが早くも現れる。翌33年女流作家ジョルジュ・サンドを知り2人はベネチアに旅するが、この恋愛によって放蕩の習慣を断ち切ろうとした決意はむなしく、そのうえ大病にかかり、彼を看護した医師パジェルロPagelloに愛人サンドを奪われる。サンドとの仲はその後幾度か再燃したが35年最終的に決別、この不幸な恋愛は詩人の心に傷を残した。以後、女優のラシェルやアラン夫人Mme Allan、詩人のルイーズ・コレLouise Colet(1810―76)など数多くの愛人をもち、恋愛詩人としての生涯を送る。
創作面では1834~36年ごろがもっとも稔(みの)り多く、のちに『新詩集』に収められた悲歌の傑作「夜」の四つの連作(1835~37)や「想(おも)い出」(1841)には、恋愛の苦悩にまみれながらも「幸福の追憶」という人生の至宝を手に入れるために、あくまで恋愛を追求しようとする詩人の生き方が示される。そのほか、ロマン派との決別を宣した『デュピイとコトネの手紙』(1836~37)や自伝的小説『世紀児の告白』(1836)も生まれた。戯曲では『マリアンヌの気紛(きまぐ)れ』(1833)、翌34年にはロマン派劇の最高傑作といわれる史劇『ロレンザッチョ』Lorenzaccioをはじめ『戯れに恋はすまじ』On ne badine pas avec l'amour、『ファンタジオ』が出版され、40年『喜劇と格言劇』に収められた。47年コメディ・フランセーズでのアラン夫人主演『気紛れ』Un caprice(1837)がミュッセ劇再評価のきっかけをつくり、以後彼の戯曲は次々と脚光を浴びたが、上演上の制約を無視して書かれたためにかえって新鮮で自由な詩情を保ち、今日なお魅力を失わない。52年アカデミー会員。古典的教養と心理的直観力に優れていたが、詩の分野では心情吐露を唯一の主義としたため作品の生命は早く衰え、今日ではむしろ劇作家としての評価が高い。57年5月2日パリで没。
[佐藤実枝]
『進藤誠一訳『戯れに恋はすまじ』(岩波文庫)』▽『小松清訳『初期詩集(抄) 新詩集(抄)』(『世界名詩集大成2』所収・1960・平凡社)』▽『加藤道夫訳『マリアンヌの気紛れ』(岩波文庫)』
フランスの詩人。ロマン派の詩人のなかで最も正統的な教育を受けた。アンリ4世高等学校の学友には,七月王政の国王ルイ・フィリップの子息や,後のセーヌ県知事オスマン男爵などがいる。文学に志し,C.ノディエのアルスナルのサロンなどで,若い芸術家たちとも交友関係ができるが,真の友人たちは〈黄金の青春〉と呼ばれた上流社会の放蕩(ほうとう)息子たちであった。1830年,処女詩集《スペインとイタリアの物語》で,一躍輝かしい青春の詩人として注目を集め,同年12月にはオデオン座で繊細な恋愛劇《ベネチアの夜》が上演されたが,不評に終わる。劇場人と観客の無理解,感受性の欠如には絶望したが,生来の劇詩人であったので,以後上演することをまったく念頭に置かずに劇作を続け,《肘掛椅子で見る芝居》(1832)の総題で,《盃と唇》《乙女らは何を夢見る》を発表した。33年には,劇《アンドレ・デル・サルト》,喜劇《マリアンヌの気紛れ》を《両世界評論》誌に発表し,長詩《ロルラ》を書いている。この年,ジョルジュ・サンドと熱烈な恋に陥ったが,二人の資質の違いから瞬くうちに破局を迎えることになる。しかし,この〈ベネチアの恋〉ほど多くの人の話題になった恋も例を見ないし,ミュッセ自身にも大きな影響を与えた。ミュッセの詩は,これ以後内面的な深みを帯びるようになり,《五月の夜》ほか3編の夜の《詩篇》(1835-37)をはじめ,喜劇《戯れに恋はすまじ》(1834),劇《ロレンザッチョ》(1834)など多くの傑作が生まれた。また,この恋の決算書として書かれた長編小説《世紀児の告白La confession d'un enfant du siècle》(1836)は,いわゆる世紀病の診断書として,19世紀前半の青年心理を理解するための重要な文献である。
ミュッセはロマン派のなかで最も古典的な詩人で,女優ラシェルのために古典悲劇まで書こうと企てたが,病弱に加えて若き日の放蕩のため,30歳代に入るや急速に心身の衰えを見せ,晩年は,パリの街に現れ始めたグリゼットと呼ばれる働く娘の典型となった《ミミ・パンソン》(1845)を含む珠玉のような中・短編集2冊と,いくつかの劇を書いているにすぎない。今日では,詩人としてのミュッセは多くの読者をもっていないが,発表当時相手にされなかった劇の世界で,ミュッセの作品は不朽である。コメディ・フランセーズで,その作品の上演回数が最も多い作家の一人である。
執筆者:高木 進
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… 歴史主義的な19世紀には,歴史喜劇も一時期流行したが,写実的で社会や時代を風刺した喜劇(H.vonクライストの《こわれ甕》,A.S.グリボエードフの《知恵の悲しみ》,N.ゴーゴリの《検察官》)が生まれた。また,ロマン派の喜劇では世界苦の時代を背景に個人の複雑な心理を描くA.ミュッセの喜劇は,悲劇的な色合いをもつユニークなものである。19世紀後半は商業演劇が隆盛をきわめた時代であり,娯楽的な写実劇,サロン喜劇,会話喜劇,陰謀喜劇などがウェルメード・プレーの技法によって数多く生産されたが,その最も典型的なのはブールバール劇であろう。…
…最大血圧は高く,最低血圧は低くなる。詩人のA.deミュッセがこの病気にかかり,絶えず首をうなずくように振っていたので,大動脈弁閉鎖不全患者が重症となってこの症状が出現すると,〈ミュッセの所見あり〉という。心臓はよく適応するが,いったん心不全に陥ると急激に悪化するので,動悸,息ぎれなどの自覚症状が生じた場合,心臓カテーテル法あるいは超音波心エコー法・ドプラー法などの検査を受けて逆流状態と左心室拡大の状態をみて弁置換手術を受ける必要がある。…
…とりわけルソーの書簡体小説《新エロイーズ》や自伝的な作品《告白録》がその代表とされる。恋愛を中心とする自己の感情の起伏や精神的苦悩を主人公に仮託して描く自伝文学は,ロマン主義文学の中でも主要な位置を占め,ゲーテの《若きウェルターの悩み》,シャトーブリアンの《ルネ》(1802),セナンクールの《オーベルマン》(1804),コンスタンの《アドルフ》へと継承され,ミュッセの《世紀児の告白》(1836)へと受け継がれる。この系譜の中からは,激変する社会の現実と自己の存在との乖離(かいり)を感じ,愛に満たされず何かを求め続け現実から逃避していく〈世紀病mal du siècle〉を病んだロマン派的魂の典型が浮かび上がる。…
…悲劇に美のみならず,崇高と怪奇をとりいれて生の真実を示そうとするのが彼の演劇論の骨子であったが,現実の舞台で上演される劇作としては破綻(はたん)を示したのである。むしろ上演を前提とせずに幻想を遊ばせたL.C.A.deミュッセは,《戯れに恋はすまじ》や《ロレンザッチョ》のような作品で,告白的要素の強い深化された心理を表現することに成功し,その作品は晩年になって舞台にかかるようにもなった。 ロマン派演劇のなかには,さまざまな要素において,近代,現代の演劇を先取りしている点があった。…
※「ミュッセ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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