モラビア(読み)もらびあ(その他表記)Moravia

翻訳|Moravia

デジタル大辞泉 「モラビア」の意味・読み・例文・類語

モラビア(Alberto Moravia)

[1907~1990]イタリアの小説家。心理主義的な写実描写により、現代人の倦怠けんたいと退廃を鋭く描き出した。作「無関心な人々」「ローマの女」など。

モラビア(Moravia)

モラバの英語名。

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精選版 日本国語大辞典 「モラビア」の意味・読み・例文・類語

モラビア

  1. ( Alberto Moravia アルベルト━ ) イタリアの小説家。本名アルベルト=ピンケルレ。リアリズムに心理主義をまじえた手法で、現代人の倦怠と退廃をするどく追求。多くローマを舞台にとる。代表作「無関心な人々」「倦怠」。(一九〇七‐九〇

モラビア

  1. ( Moravia ) 「モラバ」の英語名。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「モラビア」の意味・わかりやすい解説

モラビア(チェコ)
もらびあ
Moravia

チェコ共和国東部をさす歴史的名称の英語読み。チェコ語ではモラバMorava。ドイツ語名メーレンMähren。行政上は南、北モラビアに分かれ、北モラビアには歴史的領土のスレスコ(ドイツ語名シュレージエン、英語名シレジア、中心都市オパバ)が含まれる。面積約2万6000平方キロメートル、人口約417万(2001)。中心都市ブルノ。主要民族はチェコ語を話すチェコ人。北西のチェコモラバ(ボヘミア・モラビア)高地でボヘミアと、南東に延びる小カルパティア山脈、白カルパティア山脈などでスロバキアと分断されるが、南北に開かれ北に流れるオドラ(ドイツ語名オーデル)川と南に流れるモラバ川がつくる河谷を通って、古来、南のオーストリアアドリア海と、北のポーランド、バルト海とを結ぶ通商路が開かれていた。気候は大陸性で、1月の平均気温は零下3℃前後、7月は北部で14~18℃、南部で18~20℃である。年降水量は北部で700~800ミリメートル、南部で500~600ミリメートル。

 工業はモラバ川とオドラ川流域に集中し、北部で豊富に産する石炭と鉄鉱石を原料とする鉄鋼業がオストラバを中心に発達し、その生産量はチェコ第一を誇る。ほかにブルノをはじめオロモウツ、プロステヨフ、プシェロフ、ズリーンなどを核とした工業地区がある。農業ではライ麦が南部、小麦、亜麻、ビート(テンサイ)が中央低地で行われており、林業では北部森林地帯が中心である。

[稲野 強]

歴史

6~7世紀に西スラブ人の居住地となり、9世紀初めモラビア王国の版図に入った。王国の崩壊後、ボヘミアのプシェミスル家の統治する領土の一部となる。1182年以降、神聖ローマ帝国辺境伯領になったが、97年から実質上ボヘミア王の封土となり、その独立性は失われた。1526年ボヘミア王ルドウィーク1世Ludvík Ⅰ(在位1516~26)がオスマン帝国軍との戦闘で敗死すると、モラビアはボヘミアとともにオーストリア・ハプスブルク家の支配下に入る。モラビアは行政的にも、民族的にも独立した存在ではなかったが、ハプスブルク家による強い中央集権化政策が続いたために、ボヘミアとの地域的・民族的一体性は弱くなり、オーストリアとの結び付きを強めていった。19世紀の民族再生運動期にボヘミアのチェコ人がオーストリア政府に自治要求の運動を展開すると、モラビアも地域主義に基づいてボヘミアからの分離を唱えるに至った。1918年10月、モラビアはオーストリアから独立したチェコスロバキアの一地方となった。38年のミュンヘン会談の結果、モラビアはボヘミアとともに一時ドイツの保護領となったが、45年にふたたびチェコスロバキアに編入された。1989年の東欧革命以降、チェコスロバキアではチェコとスロバキアとの分離傾向に拍車がかかったが、モラビアでは強力な地域自治をめざす運動が活発化した。90年6月の自由選挙で「自治的民主主義運動――モラバ・スレスコ協会」が連邦議会で第4位の議席を獲得したのはその現れであった。93年1月のチェコスロバキアの分離・解体によってモラビアはボヘミアとともにチェコ共和国を構成するが、その政治的地位は相対的に高まった。

[稲野 強]

『ピエール・ボヌール著、山本俊朗訳『チェコスロヴァキア史』(白水社・文庫クセジュ)』『矢田俊隆編『東欧史』(1977・山川出版社)』『南塚信吾編『ドナウ・ヨーロッパ史』(1999・山川出版社)』


モラビア(Alberto Moravia)
もらびあ

モラービア

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改訂新版 世界大百科事典 「モラビア」の意味・わかりやすい解説

モラビア
Moravia

チェコ東部の歴史的地域名。チェコ語ではモラバMorava,ドイツ語ではメーレンMährenと呼ばれる。行政上は北モラビア,南モラビア地方に分かれる。面積約2万6000km2,人口約403万(1996)。中心都市ブルノ。主要民族はモラビア方言を話すチェコ人。ドナウ川の支流モラバ川と,そこに注ぐ大小河川流域に広がる地帯で,北西のボヘミア・モラビア高地でボヘミアと,南東に延びる小カルパチ山脈,ビエレ・カルパチ山脈,ヤボルニーキ山脈でスロバキアと分断されるが,南北に開かれ,モラバ川とオドラ川の河谷のつくるいわゆる〈モラビア門Moravská brána〉を通って古来南のアドリア海,オーストリアと,北のポーランド,バルト海とを結ぶ通商路が開かれていた。

 工業はモラバ川とオドラ川流域に集中し,北部で豊富に産する石炭と鉄鉱石を原料とする鉄鋼業がオストラバを中心に発達し,生産量ではチェコ第一を誇っている。ほかにオロモウツ,プロスチェヨフ,プシェロフを核とする中部モラビア工業地区,靴工業で知られるズリーン,機械,羊毛,木工,食品加工業の盛んなブルノを中心とした工業地区がある。農業では,ライムギが南部,小麦,亜麻,ビートが中央低地で行われており,林業では北部森林地帯が中心である。

前1世紀半ば,ここにはケルト人が定住していたが,やがてゲルマン人がケルト人を圧迫して定住し,6世紀にはスラブ系住民の入植をみた。9世紀にこの地域は大モラビア帝国の中心となった。帝国の崩壊(906)後,ボヘミアのプシェミシル家の支配を受け,1029年ころ,ボヘミア王国に編入された。1182年神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によりモラビアは辺境伯領に昇格したが,事実上は,同じ神聖ローマ帝国に属するボヘミア王国の副次的領土として残った。12~13世紀にはボヘミアと同様,この地域もドイツ人による植民が激しく行われ,手工業,鉱山業が発達し,都市が次々に興った。1526年,オスマン・トルコとの戦いでボヘミア・ハンガリー兼王ルドビークLudvík1世が敗れると,モラビアもボヘミア,ハンガリーとともにオーストリア・ハプスブルク家の統治するところとなった。

 モラビアは行政的にも,民族的にも独立した存在ではなかったが,ハプスブルク家の強い中央集権化政策がつづいたため,ボヘミアとの地域的・民族的一体性は弱くなり,19世紀の民族覚醒期には,モラビア辺境伯領の独自性を唱えるほどであった。

 1918年10月28日,モラビアはオーストリア帝国から独立したチェコスロバキア共和国の一地方となった。38年にボヘミアとともに一時ドイツの保護領となったが,45年ドイツの敗北により,再びチェコスロバキアに編入された。93年1月のチェコスロバキアの分離・解体によって,モラビアはボヘミアとともにチェコ共和国を構成することになった。
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モラビア
Alberto Moravia
生没年:1907-90

イタリアの作家。本名アルベルト・ピンケルレA.Pincherle。ローマ生れ。骨髄結核のため闘病8年。独学。回復期(1925-28)に処女作《無関心な人々》(1929)を執筆,市民生活の腐敗と無気力を描き好評を博したが,発禁となる。以後,ファシズム政権の圧迫を嫌い,小説執筆のあいだに,新聞社特派員として欧米諸国や中国に旅行。大戦中はカプリ島に隠棲。1943年6月,政変直後のローマへ帰るが,ドイツ軍による逮捕の危険を逃れ山間の僻地に越冬する。この経験がのちに,長編《二人の女》(1957)を生む。戦後は,中編の傑作《アゴスティーノ》(1945),長編《ローマの女》(1947)の成功以後,《軽蔑》(1954),《倦怠》(1960),《関心》(1965),《内面の生活》(1978)など,一貫して現代の精神的危機を実験的リアリズムによって描く。主題性の明確なこれらの長編作品を,モラビア自身は〈評論-小説〉と規定する。一方,短編の名手として短編集《ローマの物語》(1954)ほか,作品はきわめて多い。雑誌《ヌオービ・アルゴメンティ》(1953-64)を創刊,主宰した。評論集《目的としての人間》(1964)ほかでは,作家の〈参加-責務〉を主張。ソ連,インド,中国,アフリカの旅行記のほか,劇作,映画批評の著作,また談話がある。近作は長編《1934年》(1982)。1959-62年,国際ペン会長。2度来日している。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モラビア」の意味・わかりやすい解説

モラビア
Moravia, Alberto

[生]1907.11.28. ローマ
[没]1990.9.26. ローマ
イタリアの小説家,評論家。本名 Pincherle。9歳のとき脊椎カリエスにかかり,ほとんど独学で広く世界文学に通暁した。最初の長編『無関心な人びと』 Gli indifferenti (1929) を自費出版して大成功を収め,作家として独立したが,ファシズム時代には執筆を禁止された。第2次世界大戦後,ネオレアリズモ文学の風潮と軌を一にして『ローマの女』 La romana (47) ,『二人の女』 La ciociara (57) を発表し,さらに,ローマを舞台にした短編小説群『ローマ物語』 Racconti romani (54) ,『新ローマ物語』 Nuovi racconti romani (59) などを発表。また 1960年代に入ってからは,『倦怠』 La noia (60) ,『関心』L'attenzione (65) など,疎外をテーマに反資本主義の文学運動を展開。その後のおもな小説に『物は物』 Una cosa è una cosa (67) ,『パラダイス』 Il paradiso (70) ,『わたしとあいつ』 Io e lui (71) などがある。また評論に『目的としての人間』L'uomo come fine e altri saggi (64) ,『中国の文化大革命』 La rivoluzione culturale in Cina (67) ,『アフリカ文明紀行』A quale tribù appartieni ? (72) など。

モラビア
Moravia

チェコ語ではモラバ Morava,ドイツ語ではメーレン Mähren。チェコ東部の地方。かつての大モラビア帝国の地。西はチェコのチェヒ (ボヘミア) 地方,東-南東はスロバキア,北はポーランド,南はオーストリアに接する。前4世紀頃からケルト人が住んだが,その後ゲルマン人が代り,8世紀からはスラブ人の居住地となった。一時フランク王国のカルル (カレル) 大帝 (在位 768~814) に服属したが,その後独立して9世紀前半には大モラビア帝国を設立。 10世紀初めマジャール人の侵入によって滅ぼされ,11世紀ボヘミア王国に編入されて神聖ローマ帝国の一部となった。 14世紀ルクセンブルク公家の支配下におかれ,帝国内で重きをなした。 16世紀にはボヘミア,シュレジエンとともにハプスブルク家領の一部,1918年チェコスロバキアの独立とともにその一部となった。 93年1月よりチェコの一部。 30年当時全人口の7割強がチェコ人,2割強がドイツ人であったが,第2次世界大戦後大部分のドイツ人はドイツに移住させられた。古くから鉄の産地で,機械,金属工業が盛んであり,毛織物工業も 14世紀以来の繁栄を保っている。

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百科事典マイペディア 「モラビア」の意味・わかりやすい解説

モラビア

チェコ東部の地方。チェコ語ではモラバMorava,ドイツ語ではメーレン。北部と東部は山地,西部はボヘミア・モラビア高地で,中央部をモラバ川が流れる。モラバ川とオドラ川に挟まれた通称〈モラビアの門〉は古来の通商路であり,戦略の拠点でもあった。豊かな農業地帯で,小麦,ライ麦,テンサイがとれる。また鉄鉱,石炭に富み,オストラバを中心に鉄鋼業が盛ん。5―6世紀にスラブ系の民族が定住し,9世紀に大モラビア王国を形成。11世紀以後ボヘミアの勢力下におかれ,さらに16世紀以後はハプスブルク家の支配下におかれた。1918年チェコスロバキアの一部として独立。中心都市はブルノ。東欧革命以後,モラビア地域の自治をめざす運動が活発化している。
→関連項目オロモウツチェコ

モラビア

イタリアの作家。本名アルベルト・ピンケルレ(Alberto Pincherle)。処女作《無関心な人びと》(1929年)以来,鋭い現実主義的作風と心理主義によって現代社会の危機と退廃を描写し続ける。代表作《アゴスティーノ》《ローマの女》《侮蔑》《二人の女》《倦怠》など。

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世界大百科事典(旧版)内のモラビアの言及

【チェコ】より

…1993年1月にスロバキアと分離・独立した。西部のボヘミア(チェコ語ではチェヒČechy),東部のモラビア(チェコ語ではモラバMorava)の二つの地方からなる。モラビアには歴史的領土のシュレジエン(チェコ語でスレスコSlezsko,ポーランド語でシロンスク)が含まれる。…

【ネオレアリズモ】より


【文学】
 字義通りには〈新しいリアリズム〉を意味するイタリア語で,文学史的にはふつう,反ファシズム闘争を題材にした第2次大戦後のイタリア文学を総称していう。ただし,ファシズム政権に不従順な小説を発表したことからモラビアの《無関心な人びと》(1929)に,また,労働者の反権力意識の目ざめを描いたことからベルナーリCarlo Bernari(1909‐92)の《三人の工員》(1934)に,ネオレアリズモの起源を求めようとする批評家もいる。また戦後におびただしい数の反ファシズム闘争体験談が出版され,これらを一括してネオレアリズモと呼ぶ向きもある。…

※「モラビア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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