ユスティニアヌス(1世)(読み)ゆすてぃにあぬす(英語表記)Justinianus Ⅰ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ユスティニアヌス(1世)
ゆすてぃにあぬす
Justinianus
(482/483―565)

ビザンティン皇帝(在位527~565)。今日のセルビアのニシュ近郊のタウリシウムの農家の出身。少年のころ、すでに首都コンスタンティノープルの近衛(このえ)軍司令官の地位にあった叔父ユスティヌス1世に養子として引き取られ、教育を受けた。成長して軍人の道を選ぶが、518年叔父が皇帝に選出されると青年将校から政界に身を転じた。その後、執政官(521)、陸軍元帥(525)、副帝(527)と順調に昇進、老齢の叔父を助けた。叔父の死後は名実ともに正帝として君臨した。
 その38年間の治世の間に、彼は多くの功績を残すが、なかでも『ローマ法大全』の編纂(へんさん)、旧西ローマ帝国西方領の奪回、正統信仰の確立が際だつ。彼は、古代への尊敬の念から即位後ただちに以下のようなローマ法の改定・再編を法学者トリボニアヌスに命じた。
(1)ハドリアヌス帝以後の勅法を整理・編集し直した『勅法集(ユスティニアヌス法典)』(12巻、529年に初版、534年に改訂版完成)、
(2)主としてパピニアヌス、パウルス、ウルバヌスなどの古典的法学者たちの諸学説を整理し、現行法として使用可能な形に編集し直した『学説集』(50巻、533年に完成)、
(3)法律学校用の教科書としてつくられた『法学提要』(4巻、533年に完成)。
 これらと、ユスティニアヌス法典以後565年までの勅法158編が集められた『新勅法』を加えた四つの法律全集は、いわばローマ法の総決算ともいえるものであった。
 次に彼が着手したのは、旧ローマ帝国復興のための西方への大遠征であった。その結果、北アフリカのバンダル王国(534)、スペインの西ゴート王国の一部(554)、そしてイタリアの東ゴート王国(555)をふたたび帝国領とすることができた。莫大(ばくだい)な戦費を惜しまず行われた西方への遠征は成功したが、東方戦線での多年の宿敵ペルシアとの争いは武力では決着がつかなかった。また、二度に及ぶ和平条約(532、561)の実効もないままに膠着(こうちゃく)状態が続いた。そして帝国が東西で二正面作戦の展開を余儀なくされている間に、バルカン半島では新時代の幕開きが始まっていた。しかし、このスラブ・アバール人の南進を阻止する余力は、帝国には残っていなかった。
 彼は、激烈だった前代の正統・異端論争に終止符を打つべく、改めてニカイア信条を正統と再確認し、ローマ教会との友好関係の維持を確認するため、第5回公会議をコンスタンティノープルで開催した(553)。このおり単性説を唱える東方属領との妥協を図るため、ネストリウス派の疑いのある3主教の所説を却下し、三章論争をも巻き起こした。彼は異教排斥にも熱心で、異教徒学者の集まっていたアテネの哲学院の閉鎖をも命じている(529)。だが、正統信仰確立の動きは、エジプトのコプト教会、アルメニア教会、シリアのヤコブ派教会がコンスタンティノープルの総主教の監督を逃れ、東方分離教会として独立していく原因ともなった。
 内政的には、長年にわたる戦役、これをまかなうための重税、異教・異端に対する圧政への不満が市民の間に広まり、首都ではその不満が爆発し、いわゆるニカの乱(532)も起こった。しかし、彼は皇妃テオドラ、将軍ベリサリオスの援助でこの暴動を鎮めることに成功。以後はこの乱で焼け落ちたハギア・ソフィアの再建(537)、大宮殿の増築をはじめとした国内各地での旺盛(おうせい)な建築活動を展開。また中央アジアから絹の生産方法を導入し、これを国営産業化し、商業の興隆を図るなど安定した政権を維持した。またこれを背景に彼の治下は、歴史家プロコピオス、マララス、神学者聖シメオン、偽アレオパギタ、東方の聖フランチェスコといわれる修道士ヨハネス・モスコースら、多数の学者、文人、歴史家、神学者の出た一大文芸興隆期ともなった。[和田 廣]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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