音楽を中心としたドイツの総合的な芸術家。作曲家、指揮者、詩人(彼の歌劇の台本はすべて自作)、歌劇の改革者、文化哲学者、音楽祭主催者を兼ねる超人的存在であったワーグナーは、19世紀ドイツのロマン的な歌劇を、総合芸術作品としてのいわゆる楽劇に止揚した。楽劇そのものはもちろん、その音楽技法と思想は後世の作曲家に多大な指針を与えるとともに、ワーグナーの芸術観と世界観は、哲学者や作家をはじめとする広範な文化人に、多彩な影響を投げかけた。
[中野博詞]
演劇愛好家で警察署書記を勤めた父フリードリヒと、製パン業者の娘であったヨハンナを母として、1813年5月22日ライプツィヒに生まれる。3人の兄、5人の姉があり、リヒャルトは第9子である。しかし、父フリードリヒはワーグナー誕生後6か月で死亡し、以前から親交があった俳優・詩人・画家を兼ねたガイヤーLudwig Geyer(1779―1821)の保護を受け、やがて母がガイヤーと再婚し、またワーグナー自身が一時ガイヤー姓を名のったことから、ガイヤーを実父とする説もある。ガイヤーがドレスデン宮廷歌劇場の俳優兼台本作者であったために、ワーグナーは4歳で舞台に立ち、8歳で楽才を示すが、少年時代においては、13歳の年に悲劇『ロイバルト』を書き始めたように、まず文学と演劇に熱中する。ウェーバーの歌劇『魔弾の射手』を熱愛していたワーグナーは、ベートーベンの作品を聴くに及んで音楽家になることを決意し、18歳でライプツィヒ大学に入学するとともに、聖トマス教会カントル(合唱長)のウァインリヒChristian Theodor Weinlig(1780―1842)に作曲理論を学ぶ。19歳の年には交響曲第一番を作曲、初演する一方、未完の歌劇『婚礼』に着手。
20歳を数える1833年から1839年に至る時期は、遍歴時代ともよばれるように、各地を訪ねながら歌劇作曲家としての道を切り開いてゆく。まず、兄が歌手を勤めるウュルツブルク市立歌劇場の合唱指揮者に就任して、歌劇を実習するとともに、歌劇『妖精(ようせい)』の創作に没頭する。1834年にはマクデブルクを本拠とするベートマン歌劇団の指揮者となり、やがて妻となる女優ミンナ・プラーナーと恋に陥る。1836年には歌劇『恋愛禁制』を完成、初演し、ミンナと結婚。翌1837年ケーニヒスベルク歌劇場、そしてリガ歌劇場と指揮者としての遍歴を続ける。
大都市での成功を夢みたワーグナーは、1839年(26歳)から1842年にかけてパリに滞在。マイヤベーアの推薦があったにもかかわらず、自作上演の希望はことごとく裏切られ、ワーグナー夫妻は精神的にも経済的にも苦境に陥る。しかし、不屈のワーグナーは『ファウスト序曲』、歌劇『リエンツィ』、そして『さまよえるオランダ人』を次々に完成してゆく。一方、生活のために行った文筆活動では、ワーグナーの小説を代表する『ベートーベンまいり』(1840)、そして『パリでの最後』(1841)をはじめ、数々の評論が生み出される。
ドレスデン宮廷歌劇場における『リエンツィ』初演で開幕する1842年(29歳)から1849年の時期は、ドレスデンで安定した生活が繰り広げられる。『リエンツィ』の大成功は、翌1843年の同劇場における『さまよえるオランダ人』の初演、さらに同劇場第二指揮者就任を導き出す。歌劇では『タンホイザー』と『ローエングリン』が完成され、演奏史に残るベートーベンの第九交響曲の名指揮が行われる。しかし、ドレスデンに起こった革命運動に参加したワーグナーに逮捕状が発せられ、1849年にやむなくスイスに亡命する。70年にわたるワーグナーの生涯の中間点となる1849年という年は、創作においても、生涯においても、一大転換の年となり、ワーグナーの前期と後期を区分する。
前期の歌劇から後期の楽劇への移行期にあたる1849年(36歳)から1864年の時期は、おもにスイスが生活の場となり、亡命時代ともよばれる。チューリヒを本拠としたワーグナーは、やがて実現される楽劇の理論的基礎づけとなる総合芸術論を、『芸術と革命』(1849)、『未来の芸術作品』(1849)、『歌劇と戯曲』(1951)の3著作によってまず確立。同時に舞台祭典劇『ニーベルングの指環(ゆびわ)』四部作の作詞の大半を1852年に完成。作曲は1853年から始まる。この大作の作曲中の1854年にショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読み、大きな影響を受け、1857年にはワーグナーの後援者の若き夫人、マティルデ・ウェーゼンドンクMathilde Wesendonck(1828―1902)と恋に陥るが、翌1858年には悲劇的な結末となり、ベネチアに逃避する。この悲恋から『トリスタンとイゾルデ』の構想が生み出され、四部作の作曲を中断して、1859年にルツェルンで完成される。経済的な貧困から慌ただしい指揮旅行を続けるワーグナーは、『タンホイザー』のパリ上演失敗など不運が重なり、絶望の極にあった1864年に、18歳の若きバイエルン王ルートウィヒ2世から温かく招聘(しょうへい)される。
1864年(51歳)から1872年にかけては、異常なまでに熱狂的なワーグナーの信奉者であったルートウィヒ2世の保護のもとに、ミュンヘンとスイスのルツェルンの郊外トリープシェンの恵まれた環境のなかで、ワーグナーが自己の理想を着々と実現していった時期である。ルートウィヒ2世は、ワーグナーに『ニーベルングの指環』を完成させるべく、作曲料と住居の提供をはじめ、ミュンヘン全市をあげての反対にもかかわらず、巨額の援助を惜しみなく続ける。ワーグナーは、弟子のハンス・フォン・ビューロー一家をミュンヘンに招き、リストの娘であるビューロー夫人コジマCosima(1837―1930)と事実上の夫婦となり、ワーグナーの最初の妻ミンナの死(1866)後、正式に結婚する。長年の懸案であった『トリスタンとイゾルデ』の理想的な初演を皮切りに、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』と『ニーベルングの指環』の前半の2曲が、ミュンヘン宮廷歌劇場で初演される。一方、著作でも『指揮について』(1869)、『ベートーベン』(1870)と力作が誕生する。また、自叙伝『わが生涯』は、ルートウィヒ2世の要望によりコジマに口述筆記(1865~1880)させたものだが、未完に終わった。そして、祝祭劇場を建設すべく、1872年4月バイロイトに移住する。
ワーグナーの長年の夢がバイロイトの丘に実現する1872年(59歳)から1883年に至る時代は、まさに完結の時代である。ワーグナー59歳の誕生日に、祝祭劇場の定礎式がルートウィヒ2世への『忠誠行進曲』の演奏で始まり、夕べにはベートーベンの第九交響曲が彼の指揮で演奏される。建築費用調達のために、各地にワーグナー協会を設立。1874年には、ルートウィヒ2世の援助で私宅ウァーンフリートが建築され、11月21日に台本着手以来実に26年を費やした四部作『ニーベルングの指環』を完結。1876年8月に祝祭劇場の杮落(こけらおと)しとして、四部作の完全初演。1880年に論文「宗教と芸術」を執筆し、2年後に舞台神聖祭典劇『パルジファル』を完成、初演。1883年2月13日、ベネチアに客死する。ワーグナーの歌劇と楽劇は、死後もコジマをはじめ、長男ジークフリートSiegfried(1869―1930)、その子ウィーラントWieland(1917―1966)らの努力によって、毎年夏にバイロイト音楽祭として、祝祭劇場で上演され続けている。
[中野博詞]
ワーグナーは声楽と器楽のさまざまな曲種にも作品を残しているが、中心はあくまでも舞台作品にある。『妖精』から『ローエングリン』に至る前期の諸作品においては、ウェーバーとベートーベンの影響から出発し、ドイツ・ロマン的歌劇を一歩一歩高め、後期の総合芸術作品としての楽劇の様式を準備してゆく。
後期の冒頭を飾る『芸術と革命』『未来の芸術作品』『歌劇と戯曲』の3著作において、後期作品の指針となる総合芸術論を展開する。演劇を最高の芸術とするワーグナーは、完全な人間の表現こそ芸術であるとし、人間の表現能力である肉体、感情、悟性は、舞踏、音楽、文芸の三つの芸術分野においてそれぞれ発揮される、と分析する。そして、人間が肉体、感情、悟性の三位(さんみ)一体であるのと同様に、三つの芸術分野が一体となったときに、本来あるべき真の芸術になる、とワーグナーは主張し、同時に芸術は個人の趣味によるものではなく、民衆に宗教的満足を与える世界観の表現でなければならない、と強調する。したがって、ワーグナーにとっては、一つの芸術分野だけでは十分でなく、また各芸術分野の単なる集合体でもないのである。ワーグナーの総合芸術作品とは、芸術が本来の姿であったギリシア悲劇への帰還であり、各芸術分野の融合のうえに成立する芸術なのである。こうした総合芸術作品の根本思想から、ワーグナー独特の楽劇様式が案出される。題材は神話が好ましく、音楽と文芸の結合のために、徹底したライトモチーフ(指導動機)の使用、アリアとレチタティーボの区分を排したシュプレッヒゲザング(歌と語りの中間)と無限旋律(段落感のない旋律)、半音階的手法の導入などの手段が編み出される。『ニーベルングの指環』の第一作『ラインの黄金』に始まる後期作品は、こうした総合芸術作品の様式で貫かれている。なお後期作品は一般に楽劇とよばれるが、ワーグナー自身は、この名称は誤解を招く、として好まなかった。
[中野博詞]
『渡辺護・柴田南雄・内垣啓一編『ヴァーグナー大全集』全5巻(1979・中央公論社)』▽『山田ゆり訳『ヴァーグナーわが生涯』(1986・勁草書房)』▽『高木卓訳『ベエトオヴェンまいり他三篇』(岩波文庫)』▽『蘆谷瑞世訳『ドイツ音楽の精神――ベートーヴェン』(1985・北宋社)』▽『渡辺護著『新版リヒャルト・ワーグナーの芸術』(1987・音楽之友社)』▽『渡辺護著『リヒャルト・ワーグナー――激動の生涯』(1987・音楽之友社)』▽『高辻知義著『ワーグナー』(岩波新書)』▽『C・ヴェステルンハーゲン著、三光長治・高辻知義訳『ワーグナー』(1973・白水社)』▽『H・マイヤー著、天野晶吉訳『リヒャルト・ワーグナー』(1983・芸術現代社)』▽『トーマス・マン著、小塚敏夫訳『ワーグナーと現代』(1971・みすず書房)』▽『フィッシャー・ディースカウ著、荒井秀直訳『ワーグナーとニーチェ』(1976・白水社)』
ドイツの解剖学者、生理学者、動物学者。エルランゲンとウュルツブルクの大学で医学を学び、さらにパリのキュビエの下で比較解剖学を修めた。エルランゲン大学教授を経て、ゲッティンゲン大学生理学教授。神経の発生学的研究が知られ、弟子のマイスナーGeorg Meissner(1829―1905)とともに皮膚の知覚神経終末(ワーグナー-マイスナー小体)を発見した。精神を脳の活動の産物であるとするK・フォークトの唯物論に対して、精神と物質の二元論の立場から大論争を展開した。E・H・ウェーバー、プルキンエ、C・F・W・ルートウィヒ、ベルツェリウスら当代の著名な医学者の執筆になる全6巻の『生理学事典』(1842~1853)の編集を行った。
[澤野啓一]
ドイツの政治経済学者。エルランゲンに生理学の教授の息子として生まれる。ゲッティンゲンおよびハイデルベルク大学で法律学および政治経済学を学んだ。ウィーン大学やハンブルク大学などで教鞭(きょうべん)をとったのち、1870年にベルリン大学教授となり、以後46年間にわたり政治経済の講座を担当した。
ワーグナーの業績のもっとも評価された分野は財政学であるが、1877~1901年に出版された『財政学』Finanzwissenschaft全4巻は、学問的にも実践的にも強い影響を及ぼした。ワーグナーの財政学は、官房学的な狭義の財政の概念を拡張し、経済政策や社会政策と財政政策との統合を目ざすものであった。租税政策も単なる財源の調達のみでなく、再分配を達成するための手段として位置づけられ、今日の累進税制度の基礎を築いたといえる。
社会思想家としては、国家社会主義、保守的社会主義などの名称でよばれた社会思想を提唱した。基本的には私有財産制と民間部門における分権的意思決定を容認したが、個人主義的原理と社会主義的原理を融和させるために、経済の特定部門の所有、保護関税、累進的所得税、累進的相続税などの政策により、社会・経済分野において国家が積極的な役割を演ずることを求めた。ヒトラーの全体主義的国家社会主義と19世紀プロイセンを舞台としたワーグナーの保守的社会主義との間には基本的な差異が存在するが、前者の台頭とともに、国家社会主義提唱の先駆者として、また国家社会主義者として、賞賛と批判の対象とされた。
[林 正寿]
オーストリアの建築家。生地ウィーンの工科大学を経て、ベルリン建築学院、ウィーン大学建築学部に学び、1894年ウィーン大学教授。初めの作品はルネサンス様式が色濃く、ついでアール・ヌーボー様式が強く反映するものであったが、ウィーン郵便貯金局(1904~06)に至って、その著書『近代建築』(1895)に主張する理論が作品のうえで実現することになった。彼の理論の根底には、新時代の創造は新時代に即応した「必要」から生まれるべきだという考え方があり、新時代の建築目的・材料・構造から導かれる新しい様式が、この郵便貯金局内部に体現する。すなわち、鋼鉄とガラスの総合、明快な空間性、控え目な装飾などに、彼の説く「近代建築」が決定するのであった。その他の代表作に、ウィーン・カールス広場停車場(1894~97)、シュタインホフ教会堂(1904~07)などがある。晩年には建築の社会的機能を重視して、いくつかの都市計画案を残している。
[高見堅志郎]
『H・ゲレーツェッガー、M・パイントナー著、伊藤哲夫他訳『オットー・ワーグナー――ウィーン世紀末から近代へ』(1984・鹿島出版会)』
ドイツの生物学者。エルランゲン、ミュンヘンの各大学に学んだ。のちに世界各地を旅行し、各地域における動物相の相違と地理的障害との関係について考察し、初めは自然選択の作用に対する生物の移住の効果を説いたが、その後、自然選択の作用をほとんど無視して地理的隔離を重視する隔離説を提唱した。この考えはワイスマンらによって批判された。主著に、没後の1889年に出版された『地理的隔離による種の起源』がある。
[八杉貞雄]
ドイツの作曲家。〈楽劇〉の台本で文学史上も重要な位置を占める。警察関係の書記をしていたフリードリヒ・ワーグナーを父に,その第9子としてライプチヒに生まれた。少年のころギリシア文学やシェークスピア劇に熱中したが,ベートーベンの作品に接し,音楽家になる決意をした。18歳のとき,ライプチヒ大学に入って音楽と哲学を聴講した。
1832年ころから指揮者として各地を遍歴する。最初のオペラ《婚礼》の台本をプラハで書き,帰国後作曲を始めたが,未完に終わった。以後もワーグナーは自作のオペラのすべてを自分で作詞している。34年には第2作の《妖精》をビュルツブルクで,36年には第3作《恋愛禁制》をマクデブルクで完成した。この年,女優ミンナ・プラーナーと結婚したが,この結婚生活は不幸に終わった。39年《リエンツィRienzi》作曲中に,ロシア領のリガからパリに行く。パリで不遇の生活を送っているとき,42年,ドレスデンの歌劇場で《リエンツィ》が上演された。1840年に完成したこのオペラはフランスのグランド・オペラの様式で書かれ,マイヤーベーアやスポンティーニの影響がみられる。この上演が大成功だったので,この町に移住,宮廷歌劇場指揮者となって,41年に書きあげていた《さまよえるオランダ人Der fliegende Holländer》を自らの指揮で初演(1843)した。ハイネの小説やW.ハウフの《幽霊船の物語》に材を取ったこの作で,ワーグナーは旧来のオペラの手法から脱し,個性を十分に発揮した音楽を書いている。従来の番号付オペラの定則を踏んでいるが,ライトモティーフを使用している。悪魔に呪われ,永遠に海上をさまよう運命にあるオランダ人は乙女ゼンダの犠牲的な愛によって救われる。ここにはその後のワーグナーの作品の基本主題である愛による贖罪の思想が表れている。次作《タンホイザー》は44年に完成され,45年10月ドレスデンで初演された。さらに48年《ローエングリン》が完成する。
49年ドレスデンに革命が起こり,彼もこれに参加したので逮捕状が発せられた。これを知ってドレスデンを逃れ,チューリヒへ行き,ここに滞在した。当地における庇護者ウェーゼンドンクの妻マチルデとの遂げえざる恋愛は,《ウェーゼンドンク歌曲集》(1858),さらに楽劇《トリスタンとイゾルデ》(1859)に結晶した。この作にはそのころ熟読したショーペンハウアーの厭世的な意志と否定の哲学の影響もみられる。この間,50年にはワイマールの宮廷劇場で,F.リストの指揮により作曲者不在のまま《ローエングリン》が初演された。61年《タンホイザー》のパリ初演のために,第1幕に挿入するバレエ曲《バッカナールBacchanale》を作曲,この上演はオペラ座で3回行われた。
64年春,追放解除となってドイツに入り,バイエルン国王ルートウィヒ2世の招きでミュンヘンに居を構え,作曲に没頭したが敵も多く,いたたまれず翌65年スイスのルツェルン郊外トリープシェンに移った。同年にはミュンヘンでH.vonビューローの指揮下に《トリスタンとイゾルデ》が上演され,その名声は高まった。68年には同じビューローの指揮で《ニュルンベルクのマイスタージンガー》(1867)を初演,70年にはリストの娘で,ビューローの妻であったコジマと結婚した(前妻ミンナは1866年に死去)。このとき,すでに彼女との間に3人の子があった。70年,前年の長男ジークフリートの誕生を祝って管弦楽のための《ジークフリート牧歌》を作曲,妻コジマの誕生日に贈った。またこのころからワーグナーは哲学者ニーチェと親しくなり,ニーチェはその著作《悲劇の誕生》などにおいて楽匠に対する敬愛の思いを披瀝したが,のち種々の理由からこの二人は反目するようになった。
ワーグナーはかねてから自己の楽劇上演のために劇場を建設することを意図していたが,76年バイエルンの小都バイロイトに劇場が完成し,そのこけら落しには,大規模な楽劇《ニーベルングの指環》全曲(1854-74)が上演され,全ヨーロッパから名士たちが集まり盛況をきわめた。82年には《パルジファル》(1882)も上演された。この上演後,彼はベネチアへ静養に出かけ,83年に同地で生涯を閉じた。遺体はバイロイトに移され,私邸〈ワーンフリート〉の庭に葬られた。
ワーグナーの第2の妻コジマCosima(1837-1930)はF.リストとダグー伯夫人マリーとの間に生まれ,1857年H.vonビューローと結婚した。69年ビューローと離婚,70年ワーグナーと正式に結婚した。ワーグナーの死後も,その遺志を継いでバイロイト音楽祭を統率し,亡夫の作品の普及に努めた。ワーグナーとコジマの長男,ジークフリートSiegfried(1869-1930)は,父の楽劇の指揮者として名をあげた。父の影響下に作詞・作曲した多くのオペラ作品は今日ではほとんど上演されていない。彼の妻ウィニフレッドとの間には息子が2人あり,長男ウィーラントWieland(1917-66)は第2次世界大戦後のバイロイト音楽祭で,演出や舞台装置に新機軸を開いた。彼の死後その弟ウォルフガングWolfgang(1919- )も,この音楽祭を統率しながら演出や装置をも行っている。
ワーグナーの残したオペラのうち,《トリスタンとイゾルデ》以後の作品は,一般に〈楽劇〉と呼ばれている。しかし,彼自身は楽劇と呼ばれることに異議を唱えて,〈無名の芸術的所作〉であるとしている。彼は多数の著書によって自己の芸術(いわゆる楽劇)の理論的基礎づけを行った。その基本は〈全体芸術Gesamtkunstwerk論〉である。これは今日でいえば一種の総合芸術で,その説くところはだいたい次のようである。芸術は根源的,人間的であり,人間全体の表現でなければならない。単に個々の芸術の種類(たとえば造形芸術,詩,音楽など)が孤立しているのでは人間全体の表現ができない。それゆえ,これら芸術は合一して作品を作り出さねばならない。また個々の芸術は根源的には共通の地盤をもつ。そして彼は舞踏を根源的な芸術として,そこから音楽,詩,造形芸術が分派した過程を述べる。さらに,楽劇の内容は一時代の性格にとらわれない,人間的なものの表現にあるとして,そのために歴史上の一時代ではなく,神話や伝説に取材すべきであると主張した。そして楽劇の上演は,一部の人々の娯楽の道具ではなく,社会的な階層のいかんを問わず,国民的祭典とならなければならないとした。
楽劇は独特の形式をもつ。つまり楽劇では従来のオペラのように1幕が楽曲番号によって区切られることなく,アリアとレチタティーボの区別は排された。管弦楽は人物や想念などに結びつけられたライトモティーフを奏して,劇の表現に参加する。またワーグナー自身が〈無限旋律〉と名づけた様式によって,音の流れが中断されず,劇の進展を助ける。また楽劇においては和声の表現能力が拡大され,管弦楽編成は大規模となり,表現の幅の広さ,繊細さにおいて,従来のオペラでは知られない能力を獲得した。
ワーグナーはイタリアのベルディと並んで19世紀最大のオペラ作曲家である。その楽劇は後世に大きな影響を与えた。その影響力は全ヨーロッパ的であり,近代の作曲家たちはなんらかの意味でワーグナーと対決することから出発した。楽劇形式は楽匠の死後,多くの作曲家の採用するところとなったが,その点で後世に残るような作品を書くことができたのはR.シュトラウス,H.フィッツナーくらいである。ワーグナーに批判を加えたドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》でさえも,ワーグナー楽劇からの影響を否定することはできない。ワーグナーの大編成管弦楽による多彩な音色は,マーラーによりさらに発展させられた。しかし,音楽史上最も重要な影響力は《トリスタンとイゾルデ》の半音階和声が,調性の危機をその中にはらみ,シェーンベルクなどの無調音楽へと発展したことであろう。
また,すでにワーグナー生前から,ドイツの楽界はワーグナー賛美者と反対者との対立が厳しかった。ことにウィーンではワーグナーと反目する音楽批評家E.ハンスリックが対抗馬としてブラームスを称揚した。これに反し,ワーグナーを崇拝するブルックナーやフーゴ・ウォルフはハンスリックから敵視された。
ワーグナーは音楽論ばかりでなく,思想,社会,政治,道徳などの諸問題についておびただしい数の論文を発表した。その中でとくに激しいのは反ユダヤ主義の思想を述べたもので,ことに1850年に公表した論文《音楽におけるユダヤ主義Das Judentum in der Musik》においてユダヤ人音楽家をこきおろした。この思想はのちにナチスからその宣伝に利用されたが,ワーグナー自身は反ユダヤの行動に出ることにくみしなかった。
日本で最初にワーグナーが公開演奏されたのは,1887年,東京で海軍軍楽隊による〈タンホイザー幻想曲〉であろう。93年にはドイツの指揮者F.エッケルトが大吹奏楽団を指揮して〈ローエングリンからの音楽〉を演奏した。ワーグナーについては早くからドイツ文学研究家の間に興味をひき,森鷗外と上田敏は96年《帝国文学》誌上において,ワーグナー後期の音楽がレチタティーボ調であるか,ないかにつき10ヵ月にもわたって論争した。
ワーグナーの作品をオペラとして上演するようになったのは,指揮者グルリットManfred Gurlitt(1890-1972)の努力に負うところが多い。1942年歌舞伎座でグルリット指揮,藤原義江主演で《ローエングリン》が採り上げられた。この二人により,戦後47年に初演された《タンホイザー》は20回以上も繰り返された。60年になって《マイスタージンガー》がグルリットの指揮で上演され,これにはドイツからウォルフラム・フンパーディンクが招かれ,演出を担当した。そのころまでは,この三作以外の楽劇は日本人の手では上演困難であった。63年ベルリン・ドイツ・オペラが来日して《トリスタンとイゾルデ》と《さまよえるオランダ人》の日本初演を行った。両方とも,L.マゼールが指揮した。ウィーラントのバイロイト演出は64年の大阪国際フェスティバルにおける《トリスタンとイゾルデ》と《ワルキューレ》により再現された。こうした上演に刺激を受けて,日本人による楽劇上演も行われはじめた。69年の《パルジファル》,70年の《ラインの黄金》,72年の《ワルキューレ》,73年の《さまよえるオランダ人》,76年の《タンホイザー》,79年の《ローエングリン》,81年の《マイスタージンガー》,83年の《ジークフリート》などいずれも二期会によって上演され,日本人歌手たちも優れ,またこれらを指揮した若杉弘,飯守泰次郎もワーグナーの演奏様式をよく体得していた。またドイツからは1974年にミュンヘン国立歌劇場が《ワルキューレ》を,83年にはベルリン国立歌劇場が《さまよえるオランダ人》と《タンホイザー》を,84年にはハンブルク国立歌劇場が《ローエングリン》を上演した。
執筆者:渡辺 護
オーストリアの建築家で,ヨーロッパ近代建築運動の先駆者の一人。ウィーンに生まれ,同地の工科大学とアカデミー,さらにベルリンのアカデミーで学ぶ。初期作品は明快で理論的に厳密な古典主義様式を採用する。ウィーンの当時の新開地に建つ商業建築や集合住宅を精力的に設計し,やがて1894年ウィーンのアカデミー教授に指名される(-1912)。教授就任公開講義で当時の折衷様式建築を批判し,論議を巻き起こした(この講義は1895年《現代建築》と題し刊行)。彼は,新しい建築は現代生活の要求をとらえ,それを満たす表現を見つけねばならないとした。必要を満たした形式は美しいともいったため,彼の説く建築は〈必要様式Nutzstil〉とも呼ばれた。94年以後の作品は,マジョリカ・ハウス(1898-1904)のように陸(ろく)屋根と平坦な壁面からなる幾何学的形態と厳密な対称軸の設定,彫塑的より絵画的な装飾を特色とする。またこのころウィーン市営鉄道の駅舎や鉄橋などすべてを設計するが,カール広場駅(1894-1901)に見るごとく鉄骨を大胆に用い,構造と材料を率直に表現した新しい造形表現に成功している。ウィーン郵便貯金局(1906)では,さらに自己の理論を徹底させ,装飾を排し経済性を追求しながら,鉄とガラス,石とアルミニウムを巧みに融和させている。同じころのシュタインホーフの教会(1907)でも,控え目な装飾,融通性のある空間,鉄とガラスの巧みな総合など,近代建築が求める課題と解答をすでに完全に手中にしているのがわかる。門弟にJ.F.M.ホフマン,A.ロース,J.M.オルブリヒらがいる。
執筆者:山口 廣
明治初期の来日ドイツ人教師。日本の近代産業の草創期における指導者。通称ワグネル博士。官吏の子としてハノーファーに生まれ,はじめ工業学校に学んだが,数学教師のすすめで1849年ゲッティンゲン大学に入学,終生敬慕の念をささげたC.F.ガウスらに師事して数学,物理学を専攻し,52年学位取得後,フランスついでスイスに在住。語学,フランス文学,化学などを学ぶとともにパリの高校の数学教師,電信本局の翻訳官,ドイツ語新聞の編集あるいは工業学校・化学工場の技術指導など,さまざまな職業を経験した。68年,友人に請われ長崎にセッケン工場建設のため来日,やがて有田焼の改良研究をはじめ,九州地方の窯業を指導した。71年上京して大学南校ついで東校で数学,物理,化学を講じ,そのかたわら日本の陶磁器,工芸史を研究,72年オーストリアおよび日本政府(ことに佐野常民)に懇請されてウィーン万国博覧会顧問となり,以来フィラデルフィア万博,また日本の第1回内国勧業博覧会事業を指導し,みずからも旭焼とよぶ美しい陶器を創製するなど,伝統的な工芸技術を基軸としつつ日本の近代産業を起こす道の開拓につとめた。さらに京都府の医学校や舎密局における理化学とその技術の推進,東京大学理学部の応用化学講義担任,農商務省分析課の指導,東京職工学校(現,東京工業大学)の窯業関係技術教育の推進など,その後半生を日本の科学技術と産業発展のためにつくした。死後,東京青山墓地に葬られた。
執筆者:飯田 賢一
ドイツの経済学者,財政学者,統計学者。バイエルンのエルランゲンに生まれ,ゲッティンゲン,ハイデルベルク両大学で法律学,国家学を学ぶ。1858年ウィーン商業大学教授に就任,以後,ロシアのドルパト大学,ドイツのフライブルク大学を経てベルリン大学教授(国家学)として死去するまで財政学,経済学,統計学を講じた。この間,社会政策学会の設立(1872),キリスト教社会党の結成,プロシア下院議員,同上院議員等を通じ,宰相ビスマルクを助け,労働者階級のため社会正義を実現する国家介入政策を提唱して実践面でも活躍した。学問的には,財政学を経済理論として構成するのに貢献した。税の所得再分配効果を強調し,彼の指摘した,近代国家における政府支出の非可避的膨張傾向は〈ワーグナーの法則〉と呼ばれ,今日その普遍性が確認されつつある。
執筆者:柴田 弘文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
「ワグネル」のページをご覧ください。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…現在この付近は七宝町と呼ばれて存在している。梶の出現で七宝工芸は大きく飛躍し,彼の弟子の塚本貝助(1828‐97)は,明治初年来日したドイツ人ワーグナーGottfried Wagner(1830‐92)の指導でその技術を大きく改良させ,さらに東京の濤川惣助(なみかわそうすけ)(1847‐1910)は無線七宝を考案,京都では並河靖之(なみかわやすゆき)(1845‐1927)が日本画風の七宝に特色を出し,名古屋では安藤重兵衛(1876‐1953)らが出て盛況を呈した。【由水 常雄】
[西洋]
古代における七宝については不明な点が多い。…
…輸出地域では北・中米向けとアジア向けが多い。 明治に入って日本の陶磁器工業は,江戸末に来日し有田焼の改良をしたドイツのワーグナーGottfried Wagner(1831‐92)らにより,西ヨーロッパの技術を導入するとともに,1875年には有田に香蘭社が,1904年には名古屋に日本陶器(ノリタケカンパニーリミテドの前身)が設立され,近代陶磁器メーカーがスタートした。日露戦争を境として,燃料の薪から石炭への転換,工程の機械化,西洋の顔料の使用などの技術革新により,日本の陶磁器生産業はそれまでの工芸品生産主体から,実用品生産を中心とする近代的産業へと変化し,大規模な工場も現れてきた。…
…この仕事を実行したのはG.シュモラーをはじめとする新歴史学派に属する人々である。
[新歴史学派]
新歴史学派の代表的な学徒としては彼のほか,A.H.G.ワーグナー,L.ブレンターノ,K.ビュヒャー,G.F.クナップらの名を挙げることができる。歴史学派はこの段階に至ってはじめて学派と呼ぶにふさわしいグループを形成するが,旧歴史学派を特徴づけた歴史哲学の要素はここでは影をひそめ,代わって没理論的な〈細目研究〉が盛んに行われるようになった。…
…しかし,産業革命後の近代社会に,工場・倉庫,百貨店・市場,停車場・博覧会場といった新しい種類の建築が現れるにつれ,建築での機能への関心が高まった。オーストリアのO.ワーグナーは〈用あるもののみが美しい〉といい,〈必要様式Nutzstil〉を唱え機能の再認識を促した。同じウィーンで活躍したA.ロースは〈装飾は罪悪なり〉と断じ,歴史様式からの決別を促した。…
…
[近代運動の開始]
アール・ヌーボーは20世紀に入ると急速に衰え,直線的な造形が主流を占めるようになる。オーストリアのO.ワーグナーは《近代建築Moderne Architektur》(1895)を著して近代運動の先駆となり,その影響下にベーレンス,ロース,J.ホフマンらを輩出した。またフランスではA.ペレが古典主義の造形を基調にしたコンクリート造建築をつくり,鉄筋コンクリート技術者エンヌビクFrançois HennebiqueやボドAnatole de Baudotらによる試みをさらに発展させた。…
…しかしアール・ヌーボーはドイツ,フランス,オーストリアなどにひろまったが,結果的には一種の様式主義に堕して消失した。オーストリアのO.ワーグナーは,様式主義からの分離・絶縁を目標にしたゼツェッシオン運動をおこした。1903年ワグナー門下生により室内装飾や工芸デザインのためのウィーン工房が設立され,過去からの分離は実践に移された。…
…このようなオペラハウス特有の建築様式は,17世紀のベネチアから徐々に興り,19世紀のグランド・オペラの流行を契機として,本格的なオペラハウスが各地に建設されるようになった。ワーグナーの手で建設されたバイロイト祝祭劇場は,作曲家であり演出家でもあったワーグナーが,自分の理想を実現するために構想したもので,舞台とその後方に接続する大道具格納庫の巨大さが目を奪う。ミラノのスカラ座,ウィーン国立歌劇場,パリのオペラ座,ニューヨークのメトロポリタン歌劇場など,世界的に著名なオペラハウスは,いずれも目をみはるほど整備された舞台機構をもっている。…
…オペラの一種。特に19世紀後半のドイツにおけるR.ワーグナーとその後継者の作品をさす。オペラとの相違は明確でないが,楽劇は従来のオペラに対する創作理念上の反省とその実践としての意味を持つ。…
…このように,条件や目的に左右されず,楽曲の構成法則を自ら与えるという自律的音楽の意味で他律的な音楽と対立する。 絶対音楽の概念は,はじめR.ワーグナーによって否定的な意味で用いられた。彼は言葉と舞踊と音楽が一体となっているのが本来であると考え,音楽だけ分離されている純粋器楽を抽象的な音楽とし,欠如態とみなした。…
…R.ワーグナー作詞,作曲による3幕のロマン的オペラ。正式な題名は《タンホイザーとワルトブルクの歌合戦》。…
…バッハ,モーツァルト,ベートーベン,ブラームス,ワーグナーらに代表されるドイツ音楽の偉大さがしばしば語られる。しかし,ドイツ音楽を簡単に定義することはできない。…
…R.ワーグナー作詞・作曲による3幕の楽劇。完成は1859年8月,初演は65年6月ミュンヘンの宮廷劇場であった。…
…その背景には,ヘーゲルに代表される壮大な政治・社会思想としてのドイツ観念論の体系が,台頭しつつある新しい産業社会を前にして崩壊し,さらには1848年の革命に挫折し啓蒙の思想を実現しえなかった市民層が,新たな世界観的拠りどころを求めていたという事態がある。政治的幻滅の中で,政治的にはきわめて保守的なショーペンハウアーのペシミズムが流行のきざしを見せ,やはり革命失敗の苦い経験から政治と芸術の架橋を放棄し,〈総合芸術〉に19世紀の克服を求めたW.R.ワーグナーが知識人層および支配層の注目を引きはじめていたころである。ニーチェの思想形成は,こうした19世紀ドイツ市民社会の知的状況に深く根ざしている。…
…R.ワーグナー作詞・作曲による楽劇。序夜と3日間のための〈舞台祝祭劇〉で,4部からなるきわめて大規模な作品。…
…ジークフリートの死も,ブルグント族の滅亡もそのような力によって引き起こされ,物語はゲルマン的悲劇的結末へと突き進む。 F.フケー,F.ヘッベルをはじめ多くの詩人たちがこの叙事詩を作品の題材とし,R.ワーグナーの楽劇《ニーベルングの指環》は《ニーベルンゲンの歌》をはじめ広く北欧神話に題材をもとめた巨作である。なおこの叙事詩にはあとにのこされた肉親,縁者たちの悲嘆を歌った《哀歌》(1215年ころ成立)がある。…
…R.ワーグナー作詞・作曲による全3幕のオペラ。台本は作曲者自身により1862年に完成,67年に総譜が完成した。…
…ドイツの作曲家R.ワーグナーが,自らの舞台芸術の理念を実現するため,バイエルン州のバイロイトに建設した祝祭劇場で催される音楽祭。この劇場はバイエルン王ルートウィヒ2世の援助のもとに1876年に完成され,同年8月13日から4日間にわたって四部作《ニーベルングの指環》全曲がワーグナー自身の演出とH.リヒターの指揮で初演されたのが第1回目で,82年には《パルジファル》が初演された。…
…3幕から成る,W.R.ワーグナー最後の楽劇。作曲者自身〈舞台神聖祝典劇〉と呼んでいる。…
…フランクはJ.S.バッハと晩年のベートーベンから教訓を引き出した。その教育を受け継ぐべく1896年に音楽学校〈スコラ・カントルム〉をC.ボルドやF.A.ギルマンと設立したダンディは,ワーグナーの影響をも進んで強く受けていた。いきおいフランク一派はフランス音楽をドイツ化しようとした,と批判されもしたが,その罪は〈まじめな音楽〉(ミュジック・セリューズmusique sérieuse)をフランスに取り戻した功と背中合せであろう。…
…示(指)導動機と訳す。1871年にイェーンスFriedrich Wilhelm Jähns(1809‐88)が提唱した語で,ウォルツォーゲンHans von Wolzogen(1848‐1938)の《ニーベルングの指環》論(1876)において,初めてワーグナーの楽劇との関連で論じられた。ワーグナー自身はライトモティーフの語を否定したが(彼の用語では〈基礎主題Grundthema〉〈予感動機Ahnungsmotiv〉など),この手法は物語の劇的・心理的展開の手段としてきわめて効果的に活用されている。…
…マクシミリアン2世とプロイセンのホーエンツォレルン家出身の母との間に生まれ,幼時をホーエンシュワンガウ城のロマンティックな環境のもとで過ごした。早くから孤独癖が強く,中世ドイツの伝説に親しみ,幻想の世界に遊んだが,61年ミュンヘンで《ローエングリン》に感激してからR.ワーグナーに心酔するようになる。父の死により18歳で王位を継いだが,政務にはほとんど関心を示さず,もっぱら芸術に親しむ日々を送り,他方では近衛士官や俳優や馬丁と同性愛的関係におちいって,67年には王女ゾフィーとの婚約を解消してしまう。…
…R.ワーグナー作詞・作曲による全3幕のロマン的オペラ。台本は1845年に完成,48年総譜が完成した。…
…世紀後半には他の諸国の貢献も強まる。おもな大作曲家を挙げれば,ベートーベンとシューベルトを視野におさめながら,C.M.vonウェーバー,メンデルスゾーン,シューマン,ショパン,ベルリオーズ,リスト,R.ワーグナーらが代表的存在である。ベートーベンとシューベルトはロマン的要素を有しながら,全体としては古典派に入れられる。…
…ゲーテの家は当時の典型的な貴族の住宅として国立博物館の形で保存されている。1825年建造の劇場はR.ワーグナーのオペラの初演と結びついて音楽史上黄金時代を示したが,1907年改築された。18年ドイツ革命で君主制が倒されると,険悪な状勢にあったベルリンを避けて19年1月国民議会がここに開かれ,8月11日ワイマール憲法が制定された。…
※「ワーグナー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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