ラフマニノフ(英語表記)Sergei Vasil'evich Rakhmaninov

デジタル大辞泉 「ラフマニノフ」の意味・読み・例文・類語

ラフマニノフ(Sergey Vasil'evich Rakhmaninov)

[1873~1943]ロシアの作曲家・ピアノ奏者。ロシア革命を避けて米国に亡命。ロマン主義に貫かれた曲を書いた。作品に、4曲の「ピアノ協奏曲」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ラフマニノフ」の意味・読み・例文・類語

ラフマニノフ

  1. ( Sjergjej Vasil'jevič Rahmaninov セルゲイ=ワシリエビチ━ ) ロシアの作曲家、ピアニストペテルブルクモスクワの音楽院に学び、少年期から演奏・作曲に活躍。革命後パリ、アメリカに移り、ロマン主義的な情緒に富むすぐれたピアノ曲・管弦楽曲を書いた。代表作は「ピアノ協奏曲第二番」。(一八七三‐一九四三

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ラフマニノフ」の意味・わかりやすい解説

ラフマニノフ
Sergei Vasil'evich Rakhmaninov
生没年:1873-1943

ロシアの作曲家。革命後は主としてアメリカに住んで,伝説的なピアニストとして比類のない名声を馳せた。作曲技法は保守的であるが,独自なロシア的哀愁に満ちた音楽は愛好者が多い。没落貴族の家に生まれ,両親の離婚もあって少年時代は苦労した。最初に学んだペテルブルグ音楽院では落第生であったが,1885年モスクワ音楽院に移り,N.S.ズベレフの厳しい指導を受けてピアノの名人技を身につけた。91年ピアノ科,92年作曲科(オペラ《アレコ》により金メダル大賞受賞)を卒業,幸せな創作生活に入った。初期の作品では嬰ハ短調の《前奏曲》(1892)がとくに有名になった。しかし97年の《第1交響曲》の初演がひどい不評で,一時精神的不調をきたしたが,その間にオペラの指揮活動で名をあげ,F.I.シャリアピンなどとも交遊した。1901年《第2ピアノ協奏曲》を完成,モスクワで自ら初演した。この作品により作曲家としても名声を回復し,以後は指揮者,ピアニスト,作曲家として,欧米まで足をのばす多忙な音楽生活を続けた。作品番号は45(そのうち革命前は39まで)までで,数は多くないが,三つのオペラ(《アレコ》1892,《けちな騎士》1905,《フランチェスカ・ダ・リミニ》1905),三つの交響曲(1895,1907,36),四つのピアノ協奏曲(1891,1901,09,26),交響詩《死の島》(1909),合唱つき管弦楽曲《鐘》(1913),二つのピアノ・ソナタ(1907,13)や前奏曲,練習曲などピアノ独奏曲,珠玉の名作を含む数多くの歌曲,無伴奏合唱曲《晩禱》(1915)など,現在でも好んで演奏される曲が多い。革命後アメリカに移ってからは,毎シーズン100回もの演奏会をこなす超人的なピアニストとして活躍し,多額の出演料を稼いだ。現在では,祖国でも広く愛好される作曲家の一人で,生地(ノブゴロド州セミョーノボ)に博物館が開かれたり,ラフマニノフを記念したコンクールやホールも開設された。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「ラフマニノフ」の意味・わかりやすい解説

ラフマニノフ

ロシアの作曲家,ピアノ奏者。ノブゴロド近郊の没落貴族の家庭に生まれ,ペテルブルグとモスクワの音楽院に学ぶ。1917年のロシア革命後ストックホルムを経て渡米し,以後は欧米各地でピアノのビルトゥオーソ,指揮者として活動。晩年にはスターリンからじきじきの帰国要請もあったが,故国には再び戻ることなく米国に没した。チャイコフスキーショパン,F.リストに私淑して生涯調性の枠を守り,濃密なロマンティシズムの漂う名曲を残している。ピアノ協奏曲は第2番(1901年),第3番(1909年)など4曲,交響曲は3曲(1895年,1907年,1936年)あり,ほかに,《チェロ・ソナタ》(1901年),ピアノ曲《10の前奏曲》(1903年),《13の前奏曲》(1910年),交響詩《死の島》(1909年),ピアノと管弦楽のための《パガニーニの主題による狂詩曲》(1934年)などが広く知られる。歌曲にも名品が多い。《ピアノ三重奏曲第2番ニ短調・悲しみの三重奏曲》(1893年)は,チャイコフスキー追悼の作品。→スクリャービンラプソディ
→関連項目変奏曲

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ラフマニノフ」の意味・わかりやすい解説

ラフマニノフ
らふまにのふ
Сергей Васильевич Рахманинов/Sergey Vasil'evich Rahmaninov
(1873―1943)

ロシアの作曲家、ピアノ演奏者、指揮者。セミョノボの貴族の家に生まれる。ペテルブルグ音楽院を経て、モスクワ音楽院に学び、18歳でピアノ科、19歳で作曲科を卒業。そのころ作曲されたピアノのための『前奏曲嬰(えい)ハ短調』で名をあげ、ピアニスト活動も展開、自ら初演したピアノ協奏曲第2番ハ短調(作品18、1901)でグリンカ賞を得て名声を確立した。1904年から2年間ボリショイ劇場の指揮者となり、自作のオペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』を初演(1906)。1906年ドレスデンに移り、そこで作曲した交響曲第2番ホ短調(作品27、1907)は二度目のグリンカ賞を受けた。1909年アメリカに渡り、翌年までピアニストとして活躍し、ピアノ協奏曲第3番ニ短調(作品30)をニューヨーク初演(1909)。帰国後1917年までモスクワを中心に活躍したが、この年、革命とともに祖国を脱出、1918年からアメリカに定住して、この第二の祖国とヨーロッパ各地で演奏活動を続け、カリフォルニア州ビバリー・ヒルズに没した。この間の作品に、ピアノ協奏曲第4番ト短調(作品40、1926)、ピアノと管弦楽のための『パガニーニの主題による狂詩曲』(1934)がある。

 ラフマニノフの作風は、チャイコフスキーなど19世紀音楽に範を求めたロマン的色彩に終始貫かれており、新しさや深みに欠ける反面、情緒的な旋律は広く親しまれている。ピアニストとしても、ロシア楽派の重鎮として大きい足跡を残した。

[船山信子]

『N・バジャーノフ著、小林久枝訳『ラフマニノフ――限りなき愛と情熱の生涯』(1975・音楽之友社)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ラフマニノフ」の意味・わかりやすい解説

ラフマニノフ
Rakhmaninov, Sergei Vasil'evich

[生]1873.4.1. ロシア,オネグ
[没]1943.3.28. アメリカ合衆国,カリフォルニア,ビバリーヒルズ
ロシアの作曲家,ピアニスト,指揮者。貴族の家に生まれ,サンクトペテルブルグとモスクワの音楽院でピアノと作曲を学んだ。1892年ピアニストとしてデビュー,1901年に自作の『ピアノ協奏曲第2番ハ短調』を弾いて名声を高めた。1904~06年ボリショイ劇場指揮者を務め,1909年にはアメリカ合衆国を旅行した。1910年からロシア革命時まではモスクワでおもに指揮者として活躍。革命が起こるとパリに亡命,スカンジナビアを経て,1918年にアメリカに定住。ロシアを除いて,アメリカ,ヨーロッパをピアニストとして演奏旅行し,1931~39年は毎夏スイスで過ごした。晩年には祖国に戻ろうとしたが,第2次世界大戦のため果たせずに没した。抒情的な甘い旋律で大衆に好まれ,ピアノ協奏曲 4曲,交響曲 3曲のほか,多くのピアノ曲を作曲した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ラフマニノフ」の解説

ラフマニノフ

ロシアのピアニスト、作曲家、指揮者。苦学してモスクワ音楽院のピアノ科と作曲科を通常より1年早く卒業。特に作曲は大金章という最高成績を受けた。1892年、卒業後すぐに出版した前奏曲嬰ハ短調は、さっそく人 ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android