ロシアの作曲家。革命後は主としてアメリカに住んで,伝説的なピアニストとして比類のない名声を馳せた。作曲技法は保守的であるが,独自なロシア的哀愁に満ちた音楽は愛好者が多い。没落貴族の家に生まれ,両親の離婚もあって少年時代は苦労した。最初に学んだペテルブルグ音楽院では落第生であったが,1885年モスクワ音楽院に移り,N.S.ズベレフの厳しい指導を受けてピアノの名人技を身につけた。91年ピアノ科,92年作曲科(オペラ《アレコ》により金メダル大賞受賞)を卒業,幸せな創作生活に入った。初期の作品では嬰ハ短調の《前奏曲》(1892)がとくに有名になった。しかし97年の《第1交響曲》の初演がひどい不評で,一時精神的不調をきたしたが,その間にオペラの指揮活動で名をあげ,F.I.シャリアピンなどとも交遊した。1901年《第2ピアノ協奏曲》を完成,モスクワで自ら初演した。この作品により作曲家としても名声を回復し,以後は指揮者,ピアニスト,作曲家として,欧米まで足をのばす多忙な音楽生活を続けた。作品番号は45(そのうち革命前は39まで)までで,数は多くないが,三つのオペラ(《アレコ》1892,《けちな騎士》1905,《フランチェスカ・ダ・リミニ》1905),三つの交響曲(1895,1907,36),四つのピアノ協奏曲(1891,1901,09,26),交響詩《死の島》(1909),合唱つき管弦楽曲《鐘》(1913),二つのピアノ・ソナタ(1907,13)や前奏曲,練習曲などピアノ独奏曲,珠玉の名作を含む数多くの歌曲,無伴奏合唱曲《晩禱》(1915)など,現在でも好んで演奏される曲が多い。革命後アメリカに移ってからは,毎シーズン100回もの演奏会をこなす超人的なピアニストとして活躍し,多額の出演料を稼いだ。現在では,祖国でも広く愛好される作曲家の一人で,生地(ノブゴロド州セミョーノボ)に博物館が開かれたり,ラフマニノフを記念したコンクールやホールも開設された。
執筆者:森田 稔
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ロシアの作曲家、ピアノ演奏者、指揮者。セミョノボの貴族の家に生まれる。ペテルブルグ音楽院を経て、モスクワ音楽院に学び、18歳でピアノ科、19歳で作曲科を卒業。そのころ作曲されたピアノのための『前奏曲嬰(えい)ハ短調』で名をあげ、ピアニスト活動も展開、自ら初演したピアノ協奏曲第2番ハ短調(作品18、1901)でグリンカ賞を得て名声を確立した。1904年から2年間ボリショイ劇場の指揮者となり、自作のオペラ『フランチェスカ・ダ・リミニ』を初演(1906)。1906年ドレスデンに移り、そこで作曲した交響曲第2番ホ短調(作品27、1907)は二度目のグリンカ賞を受けた。1909年アメリカに渡り、翌年までピアニストとして活躍し、ピアノ協奏曲第3番ニ短調(作品30)をニューヨーク初演(1909)。帰国後1917年までモスクワを中心に活躍したが、この年、革命とともに祖国を脱出、1918年からアメリカに定住して、この第二の祖国とヨーロッパ各地で演奏活動を続け、カリフォルニア州ビバリー・ヒルズに没した。この間の作品に、ピアノ協奏曲第4番ト短調(作品40、1926)、ピアノと管弦楽のための『パガニーニの主題による狂詩曲』(1934)がある。
ラフマニノフの作風は、チャイコフスキーなど19世紀音楽に範を求めたロマン的色彩に終始貫かれており、新しさや深みに欠ける反面、情緒的な旋律は広く親しまれている。ピアニストとしても、ロシア楽派の重鎮として大きい足跡を残した。
[船山信子]
『N・バジャーノフ著、小林久枝訳『ラフマニノフ――限りなき愛と情熱の生涯』(1975・音楽之友社)』
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