ドイツおよびアメリカで活躍した心理学者。9月9日、プロシア(現在はポーランド)のマギルノに生まれる。ベルリン大学時代、科学哲学(比較科学論)に興味をもち、シュトゥンプのもとで心理学を専攻した。第一次世界大戦中応召。1921年ベルリン大学私講師となる。戦後のベルリン大学にはウェルトハイマー、ケーラーがおり(コフカはギーセン大学にいた)、ゲシュタルト心理学の形成期にあたり、強くその影響を受けながら、情緒や動機の問題について独自の研究領域を開拓し、多くの弟子たちを啓発しながら(佐久間鼎(さくまかなえ)、小野島右左雄(おのじまうさお)(1893―1941)はこのころの弟子)、日常生活的な問題の実験化に優れた能力を発揮してゲシュタルト心理学の機関誌『心理学研究』に発表した。「怒りの発生」「飽き」「ゼイガルニイク効果」などの研究は、彼の指導によって行われたものであり、その名はアメリカでも知られるようになった。
ユダヤ人だったので、ヒトラーの総統就任を知りすぐにアメリカ亡命の準備を始め、1935年アイオワ大学児童福祉研究所に職を得た。そこでの研究活動は、ベルリン時代の弟子など多くの門下を集めてきわめて活発に行われ、たとえば「アイオワ・トポロジー・グループ」という非公式の集団は、数十名の優秀な心理学者を集めて彼の死後も1965年まで続き、学者たちの相互理解ならびに論文の発表、討論の機関として大きな役割を果たした。
渡米後は、トポロジー、ベクトルなどの概念を用いる新しい場の理論を主張して実験的社会心理学の領域で活動し、「グループ・ダイナミックス」「感受性訓練(Tグループ)」などの新しい運動をおこすとともに、軍事、政治、産業、ユダヤ人問題、黒人問題などにも取り組み、理論と実践とをかみ合わせた「アクション・リサーチ」を提唱した(「よい理論ほど実用的なものはない」は彼のモットーである)。
1940年にはアメリカの市民権をとり第二次世界大戦中は軍の研究・調査に協力して幅広い活動を行い、1945年にはマサチューセッツ工科大学に「グループ・ダイナミックス研究センター」を創設してその所長となり、多くの優秀な心理学者を集めた。彼はアリストテレス的な現象型分析を排してガリレオ的な条件発生型分析の方法をとり(通則ではなく法則を求める)、環境と人とを含む生活空間によって行動の発生を説明しようとする「場の理論」を主張するとともに、誘発性、要求水準、時間的展望、集団決定、社会的風土(雰囲気)などの新しい概念を提出して、現代心理学に貢献した。1947年2月12日、マサチューセッツ州ニュートンビルで没。
[宇津木保]
『レヴィン著、外林大作・松村康平訳『トポロギー心理学の原理』(1942・生活社)』▽『カート・レヴィン著、末永俊郎訳『社会的葛藤の解決――グループ・ダイナミックス論文集』(1954・創元社)』▽『クルト・レヴィン著、上代晃訳『心理学的力の概念的表示と測定』(1956・理想社)』▽『K・レヴィン著、相良守次・小川隆訳『パーソナリティの力学説』(1957・岩波書店)』▽『A・J・マロー著、望月衛・宇津木保訳『クルト・レヴィン――その生涯と業績』(1972・誠信書房)』
アメリカの生化学者。ロシア生まれ。ペテルブルグのアレキサンダー・ボロジン化学研究所から1891年アメリカに渡る。1905年よりロックフェラー研究所員。核酸のヌクレオシドとヌクレオチドの単離に成功し、当時胸腺(きょうせん)核酸、酵母核酸といわれていた核酸に含まれる糖が、それぞれデオキシリボース、リボースであることを証明した。また核酸の基本構造は、プリンとピリミジンが糖‐リン酸エステル結合を介して結び付いた枝分れのない直鎖であることの証拠を提出した。1921年には、核酸のヌクレオチドを構成する4種類の塩基が当量ずつ存在するというテトラヌクレオチド仮説を提出し、その後核酸が高分子であることが知られるや、天然の核酸はテトラヌクレオチドの重合体であるという立場にたった。
[石館三枝子]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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