デジタル大辞泉 「ウェリントン」の意味・読み・例文・類語
ウェリントン(Wellington)
南アフリカ共和国南西部、西ケープ州の町。ケープタウンの北東約70キロメートルに位置する。同国を代表するワイン産地の一つであり、近隣のステレンボッシュやパールなどの産地とあわせてワインランドとよばれる。
翻訳|Wellington
ニュージーランドの首都で,同国第2の都市。人口37万(2005)。北島の南端,クック海峡に臨むニコルソン湾に面する。平均気温は最暖月(2月)15.7℃,最寒月(7月)7.8℃。年降水量は1271mm。ニコルソン湾西岸のウェリントン市,北岸のロワー・ハット市,その北東のアッパー・ハット市,ウェリントン市の北のポリルア市などの地方自治体に分かれている。同国の地理的中心に位置し,首都として政治・経済の中心であり,輸送機械をはじめ各種工業を持つ工業都市としても発展(工場数全国3位,生産額2位)。とくにロワー・ハット,アッパー・ハット地区の発展が著しい。国際空港があり,シドニー,メルボルンおよび国内各都市と連絡。乗客数は同国最大。港湾はコンテナー・ターミナル(1971完成)を持つ同国第2の貿易港で,天然の良港として知られる。南島北端のピクトン港,リトルトン港(クライストチャーチの外港)との間を連絡船が結んでいる。中心部には国会議事堂,ドミニオン博物館,ビクトリア大学,世界最大の木造建築の一つといわれる旧政府庁舎(1876建),この国唯一の路面ケーブルカーなどがある。10世紀にポリネシア人クーペが発見,1773年J.クック,1826年イギリス船が来航。39年ニュージーランド会社が入植地に選定し,40年から入植,53年市制。地方行政中心地を経て65年にオークランドに代わって首都となった。市名は入植事業の後援者名に由来する。
執筆者:谷内 達
イギリスの軍人,政治家。モーニントン伯の三男としてダブリンに生まれる。イートンを経て,フランスのアンジェ士官学校に学び,イギリスの歩兵中尉に任官,アイルランド議会の議員(1790-94),インド駐在歩兵部隊の司令官(1797-1805)を務めたのち,1808年からイベリア半島でナポレオンのフランス軍と対戦,14年ついにフランスに侵攻,その際元帥となり,次いで公爵に叙せられた。フランス軍を敗走させてナポレオンを退位させたあと,イギリス代表としてウィーン会議に列席,次いでエルバ島を脱出したナポレオンを連合軍最高司令官としてワーテルローの戦に破った(1815)。3年後,国民的英雄として本国に帰還,軍需総監,陸軍最高司令官を歴任した後,トーリー右派の指導者となり,28年内閣を組織して翌年カトリック解放を実現した。だが選挙法改正に反対して30年に下野,以後上院の指導者として過ごした。
執筆者:村岡 健次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ニュージーランドの首都。北島南部の天然の良港ポート・ニコルソンに臨む。気候は西岸海洋性で、年平均気温12.6℃、年較差7.9℃、年降水量1256ミリメートルで温和である。人口16万3824、衛星都市を含めた大都市圏の人口は33万9747(2001)。市街地はポート・ニコルソン南西部のラムトン港に接する埋立地にあり、官公庁をはじめ企業の本社が集まり、政治、経済の中心である。市街地は背後に丘陵が迫り、拡張の余地がなく、北部にペトーニPetone、ローアー・ハットLower Hutt、アッパー・ハットUpper Huttなどの衛星都市が発達した。港湾施設は完備し、この国第二の貿易港で、外航客船の寄港地でもある。国内航路は、クライストチャーチおよびピクトン間に定期連絡船が就航している。南東部のロンゴタイには国際空港がある。オークランドとの間には特急や寝台列車が走り、陸海空の交通の要衝である。
1840年にニュージーランド会社により計画された都市で、市名は、同社の創立に関係したウェリントン公爵にちなむ。最初の居住地は北岸のペトーニ側であったが、南風の影響が強いため、今日のラムトン側へ移動した。1865年、オークランドにかわって首都となった。ビクトリア大学(1897創立)、国立博物館、オタリ植物博物館など、教育・文化施設も整っている。1876年に建設された政庁は、世界最大級の木造建築の一つである。
[浅黄谷剛寛]
イギリスの軍人、政治家。イートン校、ついでアンジェール士官学校(フランス)に学ぶ。1787年陸軍に入り、94年ネーデルラントに渡って革命フランス軍と戦った。97年インドに赴き、マイソール戦争、マラータ戦争に参加したのち、1805年ヨーロッパに戻り、07年のコペンハーゲン遠征で軍功をあげた。08年ポルトガルに渡り、10年にはマッセナ指揮下のフランス軍のリスボン攻撃をトレス・ベズラシュ要塞(ようさい)で撃退し、12年8月マドリードを解放した。13年元帥に進み、ナポレオンの退位後、公爵に叙され、フランス駐在大使となった。翌15年ウィーン会議に出席し、再起したナポレオンをワーテルローの戦いで破った。こののち、トーリー党、保守党の政治家として活躍し、28年から30年には首相を務め、カトリック教徒解放法を成立させた。晩年になってもピール内閣に閣僚として参加し、社会の変化に柔軟に対応する保守党の路線を確立するうえで大きな貢献をした。
[青木 康]
1769~1852
イギリスの軍人,政治家。イギリス史上軍人で首相(在任1828~30)になった唯一の人物。フランス革命軍とオランダで戦い,のちインドに転戦。ポルトガルの対仏戦を援助し,1809年在スペインのイギリス軍総司令官に任じられ,半島戦争を指導,14年南フランスに侵入。戦功により公爵。翌年のウィーン会議でイギリス代表,ワーテルローの戦いでナポレオンを破った。28年首相となり,翌年カトリック教徒解放法を成立させた。トーリ党の指導者として選挙法改正に反対したが,大勢を洞察して譲歩した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…コムネロスの反乱(1519‐21)では,カルロス1世に反旗を翻し敗れたが,18世紀初頭のスペイン継承戦争に際しては,フェリペ5世を支持し,カスティリャの陣営に加わった。郊外のアラピレスArapilesは,1812年7月22日,ウェリントン将軍指揮下のイギリス・スペイン連合軍が,マルモン将軍率いるフランス軍を破り,スペイン独立戦争の趨勢を決めた地として名高い。1936年に勃発したスペイン内戦では,最初から反乱者側につきフランコもここに総司令部を設置し,新政府がブルゴスで樹立されても,各省庁の末端機関は移動されなかった。…
…しかしスペイン国民はサラゴサやヘロナの包囲戦で英雄的な抵抗を示し,またイギリスがスペインを支援した。なかでもウェリントンに率いられたスペイン軍,および各地のゲリラ集団(エスポス・イ・ミーナ,エル・エンペシナード,メリーノ司祭,エローレス男爵らが率いた。これが史上最初の〈ゲリラ〉戦である)が,スペイン全土において活発な反フランス軍活動を行った。…
※「ウェリントン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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