一橋家陣屋跡(読み)ひとつばしけじんやあと

日本歴史地名大系 「一橋家陣屋跡」の解説

一橋家陣屋跡
ひとつばしけじんやあと

[現在地名]相良町波津

三卿の一橋家の遠州の所領を支配するために設置された陣屋跡。陣屋は御用所ともよばれた。相良藩主であった老中田沼意次の失脚後、松平定信の命で天明八年(一七八八)相良城が取壊され、相良藩領の地は幕府領となり、寛政六年(一七九四)一橋治済の所領となった。一橋家は解体された相良城跡には陣屋を設けず、波津はづ村に陣屋を置き、文政一〇年(一八二七)まで遠州五五ヵ村・三万石を領した(寛政六年一橋家領郷村高帳写など)。陣屋には代官が置かれたが、領民は代官矢島与一衛門の厳しい年貢取立てに反発し、文化二年(一八〇五)には巡見使が宿泊する波津村の黄檗宗宝泉ほうせん寺を包囲する事件が起こり、江戸への直訴にまで発展した。


一橋家陣屋跡
ひとつばしけじんやあと

[現在地名]韮崎市本町一丁目

一橋家の所領のうち、巨摩郡内に設けられた三万余石の封地を所管した陣屋。八代将軍徳川吉宗の四男で一橋家の始祖宗尹は延享三年(一七四六)播磨和泉・甲斐・武蔵・下総下野の六ヵ国のうちで合せて一〇万石を与えられた(「徳川実紀」「徳川諸家系譜」など)。このうち甲斐国に置かれた一橋家領は巨摩郡のうち三万四四石余で(「甲斐国志」など)、陣屋は当初宇津谷うつのや(現双葉町)に置かれたが、宝暦三年(一七五三)河原部かわらべ村に移転した(「塩崎村誌」など)。一橋家が派遣する代官は宇津谷村時代には二人、当地に移転後は一人となった(「山梨郷土史年表」など)


一橋家陣屋跡
ひとつばしけじんやあと

[現在地名]双葉町宇津谷

延享三年(一七四六)徳川吉宗の四男、一橋宗尹が封地一〇万石のうち三万四四石余を甲斐国巨摩郡を中心に設けられたときの支配役所跡。領地は旧村単位に複雑に入組んでいた。最初の支配役所は宇津谷うつのや村字田畑たばたに置かれた。臨済宗妙善みようぜん寺門前で、旧小尾おび街道に沿う久保寺平右衛門の屋敷一角であったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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