朝日日本歴史人物事典 「一色義貫」の解説
一色義貫
生年:応永7(1400)
室町時代の武将。一色満範の子。初名義範。兵部少輔,左京大夫,修理大夫。父の死により10歳で若狭(福井県)・三河(愛知県)・丹後(京都府)の3カ国守護職を継ぐ。応永21(1414)年から7年間侍所頭人を務めたのをはじめ,同22年には伊勢(三重県)北畠氏討伐軍の総大将に任じられるなど中央政界で活躍できたのは,三方氏,延永氏ら重臣の支えに負うところが大きい。永享2(1430)年,将軍足利義教の右大将拝賀式の供奉行列に際しては先陣を務めることを強く望むが容れられず,2番目に配された。これを「家の恥辱」とした義貫は当日,病気と称して参加せず,討手が来れば一戦交えて切腹する覚悟まで示した。結局処罰はなく,その後も侍所頭人に任じられたりしているが,同12年の大和(奈良県)出陣中,義教の密命を受けた武田信栄により謀殺された。遺領のうち丹後守護職などは甥の教親に継承されたものの,以後一色氏の威勢は著しく衰えることになる。<参考文献>『小浜市史/通史編』上
(河村昭一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報