昭和期に後継首相を天皇に推薦することを主要な目的として開かれた会議。元老、内大臣、枢密院議長、首相の前官礼遇者(功労顕著により、退官後も在官中の待遇を与えられた者)をもって構成された。1934年(昭和9)斎藤実(まこと)内閣総辞職に際して、元老西園寺公望(さいおんじきんもち)と牧野伸顕(まきののぶあき)内大臣および重臣が宮中に集まり、岡田啓介(けいすけ)を後継首相に推薦した。以後、首相選定の際に毎回開かれたわけではないが、37年4月には、内大臣が中心となり、元老、さらに必要な場合には重臣と協議して後継首相を推挙する方針が改めて採用された。しかしこの方式はすぐには慣行化せず、重臣会議はしばらく開かれず、内大臣が元老の同意を得て首相の選定を行っていた。重臣会議が慣例化したのは40年6月、木戸幸一(こういち)が内大臣になってからである。同年7月の米内光政(よないみつまさ)内閣総辞職にあたり、元老西園寺が後継首相の協議にあずかることを拒否したため、重臣会議の決定で第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が成立した。以後、45年4月の鈴木貫太郎内閣成立まで内大臣と重臣の協議により首相が選定されたが、この重臣会議の主導権は木戸内大臣が握っていた。
[粟屋憲太郎]
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…だが1924年に元老は西園寺公望ただひとりとなり,ついで軍部が進出すると,重臣がこうした元老の任務を補強するようになった。すなわち五・一五事件で犬養毅政友会内閣が倒れると,西園寺は内大臣,枢密院議長,元首相および陸海軍元帥の意見をきいて斎藤実を推し,ついで同内閣が倒れると元首相,枢密院議長,内大臣の重臣会議を開いて岡田啓介を推薦した。軍部急進派はこれを元老・重臣の画策として攻撃した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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