七里半越(読み)しちりはんごえ

百科事典マイペディア 「七里半越」の意味・わかりやすい解説

七里半越【しちりはんごえ】

琵琶湖北岸の海津(滋賀県高島市マキノ町)から国境を越えて越前敦賀(つるが)津に至る道。この路程は,西岸を北上する古代の北陸道に沿う西近江路・北国海道とも称される道の一部で,古代から北陸道諸国の物資を受け入れ,舟運によって大津まで運ぶ幹道であった。《源平盛衰記》には木曾義仲を追討する平家軍勢が海津を経て北国に向かっている。1427年飛鳥井雅縁は当地を通って敦賀に向かう際,景観を詠み込んだ歌を作っている(《越前下向記》)。近世初期には海津3ヵ町と上下荷物の運搬をめぐって相論が起きているが,幕末期には北陸の福井藩・加賀藩ら諸大名の上洛が多く,宿々ではその準備に苦慮している。しかし西廻海運の発達により早い時期から上り荷は減少していたようで,そのことは海津の船数によってもうかがえる。→塩津

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改訂新版 世界大百科事典 「七里半越」の意味・わかりやすい解説

七里半越 (しちりはんごえ)

琵琶湖北岸の海津(現滋賀県高島市,旧マキノ町)から路原(ちはら)を経て県境を越え越前(福井県)敦賀津に至る西近江路は,道程約7里半あるというので古来七里半越と呼ばれる。古代三関の一つである愛発関(あらちのせき)は,このルートに沿って(県境の福井側)いるので,この路は〈愛発越〉ともいう。このルートは若狭・越前以北の日本海岸諸国と京師を結ぶ〈北陸道〉の一部で,律令時代から,北国ならびに山陰の物資はまず敦賀に集められ,この西近江路(七里半越)と,途中から深坂越えをして塩津に至るルートとによって,海津や塩津に運ばれ,そこから湖上舟運で大津~京都に輸送される定めであった。敦賀から愛発関までの間に,駄口山中の2宿も設けられており,大動脈としての機能は近世初期まで続いたが,寛永年間(1624-44)に下関経由の〈西廻海運〉が開かれるに及んで衰えた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「七里半越」の意味・わかりやすい解説

七里半越
しちりはんごえ

西近江路」のページをご覧ください。

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