出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
滋賀県長浜市の旧西浅井町塩津浜。古代以来の琵琶湖北岸の港市。北陸道の敦賀津と平城京,平安京とを結ぶ交通の要衝である。《延喜式》の諸国運漕雑物功賃の項では,敦賀・塩津間の駄賃,塩津・大津間の船賃が規定されている。中世初頭の塩津は八条院領の荘園で,以後,後高倉院,式乾門院,室町院,永嘉門院,伏見宮貞成親王と,皇族領として伝領された。室町時代には伏見宮領と南禅寺末寺の聖厳寺領とが並存している。塩津荘地頭職は承久の乱後,小串民部大夫に恩給され,その後小串入道の婿の熊谷直村に譲与された。1425年(応永32)以降,塩津荘代官職をめぐって領家と代官との争論があり,34年(永享6)以前には山田某が代官職にあり,35年以後は鎌倉時代以降同荘の地頭であった熊谷氏が代官職を兼務した。
江戸時代に塩津荘は塩津浜,塩津中,祝山,岩熊,野坂,横波,余,集福寺,沓掛の村に分かれる。1634年(寛永11)以後は永井氏,元禄期は本多氏,1724年(享保9)以後は大和郡山の柳沢氏の支配下に入った。その中で塩津浜村は石高555石余(《天保郷帳》)で,1838年(天保9)には家数199軒,人口792人,77年には254軒,952人と増加している。明治10年代の地勢調査では村人は農業のほか〈物資ノ貨送及ビ旅籠屋造酒家醬油屋〉に従事し,〈近世マデハ微々タル寒村ニ過ギザリシガ維新以来敦賀港ニ達スル道路ヲ開ラキ随テ湖上ノ水路皆此地ニ通ジ日ヲ追テ繁盛ニ赴キ汽船ノ往復日夜絶ヘサルニ至リ〉とあって,江戸時代に一時衰退した敦賀・塩津間交通も維新後復活した。この区間は1669年(寛文9),1720年(享保5),84年(天明4),1811年(文化8),57年(安政4)に開削通水による小舟の運行計画が立てられたが実現せず,維新後,運輸の発展による塩津浜の繁栄も,北陸線開通によって急速に衰退した。
執筆者:仲村 研
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滋賀県北部、長浜市(ながはまし)の一地区。旧塩津村。琵琶(びわ)湖最北岸の塩津湾に位置し、塩津浜集落は古代から琵琶湖水運の要港として、また敦賀(つるが)(福井県)へは塩津街道が通じてにぎわった。「高島の阿渡(あど)の湊(みなと)を漕(こ)ぎ過ぎて塩津菅浦(すがうら)今か漕ぐらむ」(『万葉集』巻9)など、北部の塩津山とともに古歌にも詠まれる。塩土老翁(しおつちのおじ)を祭神とした塩津神社があり、本殿は県指定文化財。JR北陸本線柳ヶ瀬(やながせ)トンネル開通後は一時衰退したが、塩津街道が国道8号として整備され活況を呈しつつある。
[高橋誠一]
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